第四章  拐かし(一)

1/1
前へ
/57ページ
次へ

第四章  拐かし(一)

 今、何刻だろう。青白い月明りが隙間から差し込んでいる。このまま朝を迎えれば部屋を出る姿を誰かに見られてしまう。忠太は無邪気な顔で寝息をたてている。これなら少々音がしても大丈夫だろう。照は起きて身繕いをすると静かに戸を開けて表に出ていった。  夜空を見上げた。半分に欠けた月が浮かんでいる。星々の瞬きは、ささめごとにも似て、覗き見した情事を噂し合っているかのようだ。  忠太は約束通り久の実家を聞き出してくれた。これで大きく前進出来る。大袈裟に抱きついてあげると真っ赤になって照れていた。この純情なお調子者を飼い馴らせばまだまだ利用出来る、だから体を与えた。  今まで何人の男がこの体を通り過ぎただろう。甘い吐息で囁き、この胸に抱き寄せれば男は恍惚の海に溺れていった。そんな男を骨抜きにするのは簡単だった。  だが忠太は違った。耳元で囁く睦言は赤心が滲み、ぎこちない愛撫には真心がこもっていた。いつの間にか、首に回した腕は力がこもり、離れまいと絡めた脚は震えていた。小娘のような声を上げてしまい羞恥に顔を赤らめた。こんな男は二人目だった。 「ああ……省吾さま」  照の口から忘れたはずの男の名が夜空へ昇っていった。  いつもの時刻に長屋を出ればバッタリ顔を合わすかも知れない。四半刻ほど遅らせて部屋を出ると忠太と鉢合わせになってしまった。忠太も同じ考えだったのだ。何となく恥ずかしくて、目を合わせることが出来ず下を向いて挨拶した。長屋の前で左右に分かれる時、忠太は「お、お照さん……」と何か言いたそうだったが、そのまま歩み去ってしまった。  男は金蔓。心をかき乱す事など有り得ない。いや、あってはならないのだ。あの人を諦めてからはそういう生き方をして来た。だが忠太の前ではなぜか心が波立つ。  ふん、茂里姐さんが様は無いよ。と自嘲気味な笑みが漏れてしまった。  直ぐに朝比奈道場に着いた。門に手を掛けると中から話声が聞こえた。 「その枝じゃなく、こっちって言ったじゃないか」 「うるせえ、これを伐って、そっちを残した方がかっこいいだろう」 「何言ってんだい。花鳥風月の分からない無粋な男だねえ」 「そっちこそ、感性の欠片もない無い耄碌婆(もうろくばばあ)じゃねえか」  門をそーと開けて「ごめんください」と声を掛けた。  大きな枝鋏を持っている男と口をへの字にしている年寄りが同時に振り向いた。庭木の剪定で揉めていた二人の間には無残な姿の楓が寂しく立っていた。  あっ、似てる。 「あのう、私、えびす長屋に引っ越してきた照と申します。小間物行商をしておりまして、こちらにきれいな娘さんが居ると伺ったものですから」 「あら、あたしのことかい」 「えっ」  どういう反応を示してよいか分からず立ちすくんでしまった。 「少々いかれた婆だから気にしねえでくれ」  男がうんざりした顔で言った。 「ふん、冗談の通じない男はやだねえ」  情報が正しければ、男はこの家の主で名は数馬、年寄りは女中のツネだ。 「えびす長屋と聞いちゃ断れないよ、それに話は忠さんから聞いている。こっちの事も聞いているだろう、おしゃべりの忠さんから」 「はい。主の朝比奈数馬様とお手伝いのツネさんで、ツネさんの姪子のお久さんが居ると」 「それは違うぜ」 「えっ」  また固まってしまった。 「主がツネ様で俺が使用人の数馬だ」  忠太から大よその雰囲気は聞いていたが、これ程とは思わなかった。 「しょうもない事言うんじゃないよ」ツネが数馬をひと睨みした。 「さっ、中に入っておくれ。数さん悪いけどお久と手習代わっておくれよ」  当然のようにツネが言えば、言われた数馬は「あいよ」と何の躊躇(ためら)いもなく大きな建物へ向う。まるで使用人が主を使っている感じだ。忠太のどちらが主か分らないと言っていた言葉は本当だった。一体全体この主従はどうなっているのだ。不思議に思いながらツネの後をついて母屋の玄関を入った。 「失礼します」と背負っていた箱を三和土(たたき)に置くと、ツネは「ここじゃゆっくり話も出来ない、上がっておくれ」と言いながらさっさと奥へ向う。  行商は大体が縁側か玄関先での商売、上れなどと言われたためしがない。面食らっていると「遠慮はいらないよ」と奥から声が掛かった。  居間に入り二、三言葉を交わしていると玄関の開く音と共に「何ですかあの楓はー」と若い娘の大声が聞こえた。 「だろう、数さんが言う事聞かずに伐っちまったんだよ!」  こっちの話などお構いなしに、ツネも玄関に向かって大声を張り上げる。  居間に入って来た娘は化粧気もなく地味な姿だがきれいな娘だ。この娘が化粧をして着飾れば間違いなく売れっ子の芸者になれる。いや、大名のお姫様にも負けまい。  久が腰を下ろすと、ツネは町内の噂話を始める。おもしろい話ばかりでついつい笑い声を上げてしまう。茶を三杯飲んだ頃にやっとツネの話がひと息ついた。  この機を逃せばまた噂話が延々と続いてしまう。 「あのう、今日はぜひお久さんに丁度よい化粧品を持って来まして……」  行商の木箱を手元に引き寄せて紅や白粉、簪などを並べるとお久の顔が輝いた。やはり若い娘だ。 「どれどれ、あたしにも見せておくれよ」ツネも覗き込む。  これがいい、あれがいいと二人が品定めする。ツネがお久の為に紅と櫛を買うという。金など要らぬがそれでは怪しまれる。うんと安くしたので二人は喜んでくれた。頃合いは良し。並べた品を箱に仕舞いながら慎重に切り出した。 「そういえば忠太さんが、お久さんは川越の団子屋の娘さんだって言っていましたが」  水を向けると「はい」と久が答えた。  答える声や表情に不自然さは無い、姫様では無いのか。 「そんな事まで話してるのかい、あのお調子者は。お喋りだねえ」  ツネは自分の事は棚に上げて口をひん曲げる、こちらも自然な話方だ。  忠太の情報は間違っていない。屋号の和泉屋も確かめたいが、突っ込んだ話をして不審がられては元も子もない。あとは川越へ行き和泉屋を調べればよい。ただ、久を観察していると玄関に入って大声を上げるなど、おおよそ姫様らしくない。活発な町娘という感じである。秋月藩の姫様というより川越の団子屋の娘がしっくりする。  さて、これ以上長居をすればツネの噂話につき合わされる。お礼を言って腰を上げた。  門を出る時に「忠さんには気をつけなよ」とツネはニタリと笑う。 「えっ、どういう事でしょう」しらばっくれて訊ねた。 「あの男、誠実な女ったらしだから」 「誠実で女ったらしですか?」 「そう、しかも年上好き、キヒヒー」  下品に笑っているツネにもう一度礼を言って背を向けた。 「商売抜きにいつでも遊びにおいで」というツネの声に振り返って頭を下げた。  長屋に戻り(かめ)から水を汲んで一息で飲んだ。そのまま上がり框に腰を下ろすと「ふうーっ」と溜息が出てしまった。あの二人はまったく警戒していない。ひとことで言えば良い人たちだ。疑わず何でも答えてくれて楽な仕事だったが何故か疲れてしまった。情報を引き出す負い目が神経を疲れさすのだろうか。こんなことは初めてだ。  伊勢楼へは暮六ツまでに行けばよい、それまで少し横になるか。照は座敷に上がって身を横たえた。
/57ページ

最初のコメントを投稿しよう!

62人が本棚に入れています
本棚に追加