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第四章 拐かし(三)
伊勢楼に着くとこの前と同じ離れに案内された。障子は開け放たれているが風は無く、竹藪を模した庭は静まり返っている。濡れ縁に座り暮れゆく景色を眺めている男の影が座敷の奥に伸びている。
後姿は何処にでもいる人の良い初老の男といった感じだ。福岡藩五十二万石の家老、井関半太夫が振り向いて微笑んだ。
「少々早く着き過ぎたが、こうして暮れゆく景色を眺めておると心が洗われる思いじゃ」
いくら心が洗われようとも、もう少し経てば殺伐な話が始まる。武家に生きる者の性がそこにある。人を殺す相談を何の躊躇いもなく、正義であるかのように話す。そう、武士にとっての正義とは主家に忠誠を尽くすこと。相手にとってどんなに非道でもかまわない。
丁度茶を一杯飲み終わった時、秋月藩江戸留守居役、富沢源兵衛が現れた。
本藩の家老を目にすると「遅くなって申しわけ御座りませぬ」と頭を下げる。その顔はいつもより緊張感を漂わしている。
女中がきびきびと酒肴の用意をして出ていった。
「どうぞ」茂里が三人に酌をする。
一口飲んだ半太夫が静かに盃を置き富沢へ顔を向けた。
「富沢殿、何かあったのか」
さすが福岡藩五十二万石の家老である。部屋へ現れた富沢の様子に只ならぬもの感じたのだ。
「実は本日評定所へ呼ばれまして……」話す富沢の顔は幾分強張っている。
そういう事か。評定所は秋月藩の殿様や家老に話を訊いても埒が明かない為、江戸留守居役にまで手を広げたのだ。という事は今だに手掛かりが無い証拠。
「で、何を訊かれたのか」
盃を口元に運びながら半太夫が訊いた。
「ほ、本藩の内情を……」
半太夫の手が止まった。富沢の歯切れの悪い言葉の意味を理解したのだ。茂里は横に居る坂井十四郎をそっと窺うがいつもの無表情である。この中で一番肝が座っているかも知れない。
「詳しく話をしてくれぬか」半太夫が盃を置いた。
「はい、評定所の十帖ほどの部屋、相手は目付役三人に南と北の町奉行様で御座います。襖の向うにも幾人かの気配がありました」と話し始めた……。
目付役の一人が口を開いた。
「秋月藩の姫君の駕籠が襲撃され早ひと月が過ぎ申した。今だ手掛かりの一つすら掴めず今日に至っておる」
ここで一旦言葉を切った目付役は鋭く見詰める。富沢はドキッとした。
「そこでだ、江戸留守居役の富沢殿なら、他藩とのつき合いも深い。なにか手掛かりになる話を聞けるかも知れぬと思いご足労願ったのだ。まあ、こう申しては憚りあるが、こちらとしては藁にもすがる思い。どうか気楽に質問に答えて欲しい」
ガラリと口調を替えて話すから富沢は驚きもしたが幾分安心したのも事実。
「畏まりました。何なりとお訊ねください」
その言葉に深く頷いた目付役は口元を僅かに緩め、
「では訊くが、主家である福岡藩、藩主黒田隆斉公の三男重春君の養子縁組の騒動は知っておろう」
心臓が止まるほどの衝撃だ。養子縁組から嫡男排除、そして姫様殺害へとつながる。まさか、そこまでのつながりは知る由もないだろうが。
「はい耳に届いておりますが、騒動と呼べる大袈裟なものでは御座いません」
冷静を装い否定的な事を言うと目付役は二、三度軽く頷いた。
「秋月藩が養子縁組を断ると、黒田隆斉公は激怒したと漏れ伝わっておるが如何じゃ」
「私の耳にも届きましたが噂に過ぎませぬ」
「そうか、噂であるか」
今度は射るように見詰められた。威圧したり安心させたりと硬軟使い分けて攻めてくる。脇の下が汗ばんでくる。この緊張感が何刻続くのか。そう考えると卒倒しそうになる。だが負けるわけにはゆかない。
「黒田隆斉公が激怒されたと致しましょう、しかしその事をわざわざ秋月藩へ知らせる酔狂な者が福岡藩に居るでしょうか。秋月藩には本藩の頼みを断った後ろめたさが御座います。その思いが誰かの口から飛び出し、ついしか黒田隆斉公が激怒したという話にすり替わったと愚考致しまする」
「なるほど」
目付役は深く頷いた。どうやら納得した様子だ。富沢は二人の町奉行を盗み見るが表情からは何も読み取れない。この二人はじっと話を聞いているのみだ。
「では藩主黒田隆斉公の三男重春君の噂は耳に入っておるか」
質問を変えてきた。さすが評定所だ、良く調べておる。ここで知らぬと言えば何か隠していると思われてしまう。
「あまり良い噂では御座いませぬが、多少なりとも」と正直に答えた。
「まあ言い辛いのは承知しておる。ここでの話は絶対に漏れぬ。話してくれぬか」
低姿勢で攻めてきた。
「酒癖が悪く暴力的だと耳に届いておりまする」
「その他には」
「廓で暴れたことが何度もあると」
「そのような重春君を押しつける本藩に対し富沢殿はどのような感情を抱いておるか」
「それがしは支藩の江戸留守居役に過ぎませぬ。本藩に対し存念を申す事はちと……」
わざと含みのある言い方をした。これで本藩を良く思っていないと受け取っただろう、案の定、目付役は「成る程」と軽く頷いた。
しかし、「先ほども言った通り、話は絶対に漏れぬ、申せ」
有無を言わせぬ口調である。ここで福岡藩の肩を持つ証言をすれば勘ぐられる。
「しからば、我が藩には嫡男長善君という立派な継嗣がおりまする。重春君を迎え入れるは騒動の火種となります。誠にもって迷惑な話で御座います」
そう答えて富沢は頭を下げた。ここまで言えば評定所も自分が今回の事件に関与しているとは思うまい。我ながら上手く言い逃れ出来たとほくそ笑んだ。
ゆっくり顔を上げると目付役と目が合った。眼光鋭く射すくめてきた。
言い知れぬ不安が富沢の心を支配した。
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