枝を手折り雪を払う

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 外に出た後、除雪された道を小走りに大通りまで行く。教会へ向かう人はもうほとんどいなくなっていて、石畳の上には、大小様々な足跡が無数に残っていた。大きさ・形に違いはあるものの、どの足跡も教会へ向かって続いている。  私は村の広場までその足跡に沿って歩いていくけれど、村の出口が近付くと、教会の方とは逆に山へと入る坂道を目指し、歩を進めた。誰かが作った私の腰ほどある雪だるまの頭を叩きながら村を出る。中途半端に除雪された坂道を転ばないように慎重に上りながら、時々村の方へと目線を向けるけれど、村人の姿は見えない。 「この寒さで外出する人もだいぶ減ったね。」  白い吐息混じりにそう呟き、森へ向かう。後数日すれば、山入らずの儀が執り行われる。そうなれば、あの子と会うのにも、これ程神経を使うこともなくなるだろう。  昨日と同じように雪に埋もれた向かいの山々と眼下の町。寒いのは苦手だけれど、ここから見る風景は好きだ。四季折々に姿を変える山々と町の様子は、見ていて飽きない。譬えそれが雪によって白一色に染め上げられた景色だとしても。  坂を登り切り、森の入口へと進む。なぜだろう。何か嫌なことがあるような気がする。森に入ってから、そんな思いが過ぎる。特に根拠はない。単なる勘だけれど、胸騒ぎが収まらない。ノクタに襲われたことが、自分でも意識しない内に心的外傷(トラウマ)になっているのだろうか。得体の知れない不安を抱いたまま、森の中を進む。 「えっ?」  森に入ってまだ一分も経っていない。なのに、森の奥に黒い獣の姿が見える。何かの見間違いだと思い、目を擦り、目を見開く。  真っ白い雪の中、黒い巨体を持つ“それ”がこちらに向かって歩いて来る。えらくゆっくりした歩調ではあるけれど、真っ直ぐに私の方へ向かってくる。 「なんで?」  私は慌てて“それ”に駆け寄り、“それ”の手を取る。 「ここはもう森の出口よ。家に戻りましょう。」  いつも通り手を引いていこうとするけれど、“それ”は手を離し、どんどん村へ向かって進んでいく。  今度は腕を両手で掴み引っ張るが、進行方向が変わる気配はない。 「なんで? どうして? 何があったの?」  他の獣に追われている様子もない。食べ物を探して彷徨っている感じでもない。私を迎えに来たわけでもなさそうだ。理由がわからず、半ばパニックになりながらも“それ”の手を懸命に引っ張る。でも、ずるずると引き摺られていくだけで、状況は何も変わらない。 「あっ。」  雪で隠れていた石に足を取られ、前のめりに倒れ込む。柔らかな雪の上だったので痛くはない。けれど、倒れた私を置いて、“それ”は歩き続ける。倒れた私に気付いているのかいないのか、こちらを見ることもしない。 「駄目。そっちに行っちゃ駄目!」  この子が何を求めているのか、何をしたいのか皆目見当がつかないけれど、とにかく森の外に出すわけにはいかない。急いで立ち上がり、追いかけようとするも、右の足首に痛みが走り、一瞬動けなくなる。転んだ時に、少し足首を捻ったみたいだ。 「大丈夫、そんなに痛くない。」  自身に言い聞かせるように呟き、少し不恰好ながらも走って“それ”に追い付く。今度は腰に抱き付くようにして足を踏ん張る。  胸騒ぎの原因はこれだったのかもしれない。思い返してみれば、度々隠れ家から離れようとしていた。それが日に日に距離を伸ばしていき、今日になってとうとうここまで来てしまったのだ。でも、何故この子は村の場所を知っているのだろう。元々村で飼われていた家畜なら、帰巣本能で戻って来られそうだけれど、この子はおそらく生まれも育ちもこの山の中だと思う。この子の性格なら猟師や木こりに近付くような真似もしないはず。そこで私は気付いてしまった。この子に道を教えたであろう人物を。 「私だ……。」  猟師に見つからないように、こそこそとこの子と頻繁に会っていたのは私だ。この子は私が来る道を少しずつ覚えて、密かに私の後を追って来ていたのかもしれない。考えてみれば、この子が通ってきた道は、私がこの子に会いに行く道順そのままだった。 「嘘でしょ。嘘だよね。」  この子を守ると言っておきながら、私の行動がこの子を危険に晒していることにショックを隠せなかった。腕から力が抜け、雪の上に尻もちをつく。ふと横を見ると、山に入るための道標が目に入る。私達はいつの間にか森を抜け、村へ続く坂のところまで来てしまっていた。広い所で見る“それ”は一際大きく感じられた。  もう無理だ。私にこの子は止められない。そもそも始めからこの子を制御できていたかも怪しい。この子は好きなように動き、好きなように振る舞い、単なる気紛れで私に付き合っていただけかもしれない。まるでこの子の母親のように振舞っていた自分が酷く滑稽で憐れに思えた。  何を勘違いしていたのだろう。私はあの人に捨てられた子供なのに。この子を守れる母親ではないのに。  己の恥を嘲笑(あざわら)っていると、不意に“それ”が足を止める。誰かが坂の上まで来たのかと思い、急いで“それ”のそばに寄る。けれど、近くに人の姿はなく、誰かに見られた気配もない。  立ち止まった“それ”は、私がいつもそうするように、向かいの山々や村の教会、麓の町を眺め始める。そう、“それ”は確かにここからの景色を楽しんでいた。私は驚き、“それ”に向かって声を掛ける。 「この景色を見たかったの? 私が良く話していたこの景色を……。」  “それ”は何も言わないけれど、その目はしっかりと眼下に広がる町や村を見ていた。そうか、この子は私の話を聞いて、この風景を見たくなったのだ。だから、こんな所に来ようとしていたんだ。そう考えた時、私は戦慄(せんりつ)した。 「あなた……言葉が分かるの?」  私の呼び掛けに返事をしないことは多々あったし、私が説明しても全く理解する様子がなかったので、言語を解する程の知性はないものだと思い込んでいた。でも、この子は私の話を理解していなければ、取らないような行動を取っている。この子は私が何を話しているのか分かっているんだ。  “それ”は私の問い掛けに応じず、坂を下り始める。  私は“それ”に何を話してきただろうか。それを考えると、私は私がした事に吐き気を覚えた。「坂から見る景色が綺麗だ」、「友達ができた」、「町には素敵な物がある」。山の中、洞に隠れて孤独と戦う“それ”に私はなんて心無い言葉を聞かせ続けたのだろう。挙句に、「町に移り住む」などと楽しそうに話す私を“それ”はどんな気持ちで見ていたのだろう。 「ごめんなさい。ごめんなさい……。」  (すが)るようにして“それ”に抱き付き、謝罪の言葉を連呼する。自身が犯した罪の重さに、やっと気付いた私は泣きそうになるのをなんとか堪えて、“それ”に許しを請う。村へ行く方法を教えたのも、村へ行く動機を作ったのも全て私。私はこの子を守っているようでいて、その実は害を成すことしかしていなかったのだ。 「あなたは村には行けないの。人に見つかってはいけないの。」  言葉が通じるなら説得できないかと思い、言葉を投げ掛けるが、“それ”に止まる気配はない。“それ”は真っ直ぐ村に向かって突き進む。 「お願いだから、森へ戻って! あなたはここにいるべきではないの!」  何を言っても聞き入れられない。当たり前だ。私はどれだけ自身に都合の良い話ばかりしてきたのだろう。それでいて、「お前は村に来るな」などと矛盾した事を言う。自分はなんて浅ましい人間なのだろうと思わずにはいられない。でも、それでも、この子を守ると誓った以上、私は説得を続ける。 「あなたは何も悪くない。でも、その姿ではきっと撃ち殺されてしまうわ。」  そうこうしている内に、“それ”が村に入ってしまう。雪だるまにぶつかり、ぐしゃっという音を立てて、雪の山が出来上がる。  私は“それ”の前に立ち、村の様子を窺う。  もう何人かは“それ”の存在に気付いて、顔を青くしている。静かだった広場が(にわ)かに騒がしくなり、遠巻きに人が集まり始める。まだ集まって来た人達は見物人ばかりで、鉄砲を持った人はいない。でも、いつ猟師を呼ばれてもおかしくはなかった。 「今ならまだ間に合うわ。お願いだから言う事を聞いて!」  騒めく周囲の人達を黙って見つめる“それ”の姿を隠そうと、腕を広げて“それ”の前に立ちはだかる。“それ”の歩みを止められはしたものの、この巨体を隠すことなど出来るはずがなく、その奇妙な出で立ちを村の人にさらし続ける。 「あれは山羊か?」 「きっと噂の悪魔だ。」 「誰か急いで鉄砲持って来いよ。」  予想通り、好意的な意見を持ってくれる人は一人もいない。皆、この子を悪魔だ、怪物だと口々に言う。 「待って、この子は絶対に人を襲わないの! こんな見た目だけれど、とても臆病で優しい子なの!」  声を張り上げ、人集(ひとだか)りに主張しても、誰も聞く耳を持ってくれない。騒ぎを聞きつけ、人がどんどん増えていき、雪ばかりが目立った広場に人の壁ができる。“それ”も人も恐がってお互いに近付こうとはしないけれど、どちらも動かず、膠着(こうちゃく)状態になってしまう。ただ、それも長くは続かず、人垣の奥から何本か黒い筒のようなものが近付いてくるのが見えた。 「やめて! この子を撃たないで!」  猟師のおじさん達が猟銃を手に、人集りの最前列へ進み出る。 「アン、そこを退()くんだ!」  いくつもの銃口を一斉に向けられ、私は身を(すく)めて後退る。でも、すぐに“それ”を庇うように身体を密着させ、首を横に振る。 「退いたらこの子を撃つんでしょ。絶対に嫌だ!」  私を撃つことはないと分かっていても、銃口を向けられているだけで、心臓がバクバクとすごい勢いで脈打つ。猟師と私は睨み合ったまま、動かなくなる。 「アンを撃つな!」  唐突に群衆の中から聞き覚えのある声がした。 「ここの猟師は村人に銃を向けるの! あり得ないわ!」  早く撃てと急かす人々に交じって、エミリーが抗議の声を上げている。姿は見えないけれど、確かにエミリーがその良く通る声で何か叫んでいるのが聞こえる。 「エミリー!」  私が名前を呼ぶと、群衆の中から手が挙がる。でも、それもすぐに引っ込み、叫び声が聞こえる。どうやら他の野次馬と口論になっているみたいだ。 「僕も撃つのは反対だ……。」  エミリーがいる場所とは別の所から声が挙がる。やはり姿は見えないけれど、この声もまた聞き覚えのある声だった。エミリーほど大きな声ではないけれど、その声で見物人達が一瞬だけ静まり返る。 「私も危ないと思うわ。」 「まずはアンを助けろよ。」  先程の声を決起に人集りのあちらこちらから「撃つな」という声が挙がり始める。それに対して「すぐに撃て」と言う言葉が返されると、集まって来た人々が一斉に騒ぎ始める。まるでお祭りのように様々な声が広場に飛び交い、先程までの張りつめた場の空気が一気に変わる。皆、隣にいる人と言い合うのに必死で、立ち尽くす“それ”を無視して「撃て」「撃つな」と大声を出し、銃を向ける猟師以外、誰も私達を見ていない。  正直、私は信じられなかった。“それ”がこの村の広場に入ってしまった時、何の躊躇いもなしに銃殺されるだろうと思っていた。化け物を連れてきた私の肩を持つ人間なんていないと、そう思っていた。けれど、実際にはエミリー以外にも私の身を案じてくれる人がこの村には居たのだ。それもこんな口論に発展してしまう程に。  暫くの間、その様子を呆然と見入っていたけれど、私はこの子を森に返すなら今の内だと気付き、“それ”に向かって再度呼び掛ける。 「お願い、今なら森に帰られるの。また銃に撃たれるなんて嫌でしょ?」  “それ”は私を見ずに、群衆や猟銃を持つ猟師達の方を見ている。どうやら“それ”も大勢の人々を前にして、混乱しているみたいだ。群衆の至る所に視線をやり、目を回しそうな勢いで目玉を動かしている。 「ねぇ、聞いて! 私の言葉が分かるんでしょ? お願いだから――」  私が“それ”の両手を取り、懸命に呼び掛けている時、不意に伯父の声が聞こえた。驚き振り返ると、人集りの奥から猟銃を持った伯父が人を掻き分けながらこちらに猛然と向かってきている。伯父の表情は当然険しい。でも、お酒を呑んで暴れている時のような怒り顔ではなく、昔見た獲物を殺しに行く時の冷たい眼をした狩人の顔をしている。  殺される。瞬間的にそう悟った私は腕を目一杯広げて、“それ”の前に立つ。 「悪いのは私なの。この子を撃たないで!」  伯父は私を睨み付けたまま、凄い勢いで迫ってくる。近付いてくる伯父の気迫に圧し潰されそうになるけれど、背後にいる“それ”の震える鳴き声を聞き、眉間に皺を寄せる伯父を睨み返す。  伯父の様子が尋常ではない事を察した猟師仲間の一人が、伯父を制止しようと私と伯父の間に割って入るが、伯父はその仲間の手を乱暴に振り払い、銃を構えた猟師達の前へ出る。幼い頃のあの日のように、私に向かって舌打ちをし、こめかみをひくひくと震わせる。 「お願いです! この子を森に帰したいだけなの!」  伯父と真正面から向き合い、声の限りに叫ぶ。しかし、伯父は無言で、肩に掛けた猟銃を構える。  私は顔を背け、目を閉じる。私ごと、この子を撃つ気だと思い、歯を食いしばる。その直後、広場に銃声が響き渡る。そして、それに続いて伯父の怒号が轟く。 「俺の娘に銃を向けんじゃねぇ、この馬鹿野郎ども!」  聞き間違いだと思い、私は目を見開き伯父を見る。伯父は私に背を向け、空に向かって銃を突き上げている。私だけでなく、村の人々も驚いたようで、皆口をぽかんと開け、伯父を見ている。騒がしかった広場が再び静かになる。  伯父は何を言っているのだろう。私が捨て子だという事は村の皆が知っている。伯父の娘である訳がない。 「何言ってんだ。その子は姪だろう。」  広場の何処かから誰かが指摘する。伯父はその声に敏感に反応し、声がした方を睨み付けて、再び怒号を発した。 「知るか、ど阿保が! 娘だと言ったら娘だ! それとも育ての親は親じゃねぇのか!」  筋骨隆々の伯父が怒り肩で喚き散らす。ピチピチの黒いジャケットを着ているせいで、伯父が熊に見えて仕方が無い。それ程に伯父の背中は大きく、逞しかった。そして、私は初めて怒る伯父に恐怖以外の感情を持ったかもしれない。  伯父は群衆に向かって吼え、ちらりともこちらを見ることはしないし、声を掛ける素振りも見せない。私は、猟師仲間と揉め始める伯父の背中をただ見ていることしか出来なかった。  そして、伯父のズボンの後ろポケットに細長い小さな箱が乱暴に突っ込まれているのを見つける。その箱は、エミリーがしている腕時計と同じブランドマークが印刷された包装紙に包まれている。 「伯父さん……。」  私がそう口にした瞬間、伯父がいる方向とは全く違う所から突如銃声が上がる。咄嗟に銃声がした方を向くと、猟師達と一緒に銃を構えていたハンスの銃から硝煙が立ち上っているのが目に入る。臆病者のハンスが青ざめた顔で私を見ている。 「てめぇ!」  伯父が顔を真っ赤にさせ、ハンスに歩み寄る。それを猟師達が慌てて止めに入る。  私は撃たれたことに気付き、“それ”に振り返る。“それ”も私の方を向いていて、瞬時に目が合う。それとほぼ同時に、“それ”はいつものように子犬のような鳴き声を上げて、踵を返す。どうやらやっと銃の恐さを思い出したようだ。 「そう、それで良いの!」  右手を“それ”の身体に這わせて、銃弾が当たっていないことを確認する。村に来た時同様、非常にゆっくりとしたペースで坂を登っていくので、確かめるのは簡単だった。 「良かった、怪我が無くて……。」  そう呟き、ほっと胸を撫で下ろす。  広場で暴れる伯父を止めるのが忙しいようで、私達を追ってくる人は一人もいない。それでも、一刻も早く“それ”を森へ帰すために、私は傷付いた左腕を右手で庇うようにしながら、“それ”の背中に右肩を着け、後ろから“それ”を押す。力を入れると、左腕から血の雫が垂れ、白い雪の上に点々と跡を残した。 「もう少し。もう少しで森に戻れるわ。」  痛みを我慢して、何とか坂を登り切るが、森の入口が見えた瞬間、私は気を緩めてしまい、崩れるようにその場に倒れ込む。それに気付いた“それ”が、屈んで私の顔を覗き込む。私はすぐに笑顔を作り、よろよろと立ち上がる。 「大丈夫、私は大丈夫だから……。」  折角この子が森に帰る気になってくれたのに、ここでまた足を止めさせる訳にはいかない。脂汗を流しながら、平気な振りをする。けれど、銃で撃たれた事のあるこの子は、私の左腕に顔を寄せ、(しき)りに鼻を鳴らし、潤んだ目で私を見つめる。 「私の事はいいから、森へ帰るの。」  右手で“それ”の鼻先を押すけれど、私から離れようとはしない。ぐずぐずしていると、村の人達が来てしまう。  どうすればこの子を森へ帰せるのか。どうすればこの子を守れるのか。そう考えた時、母の姿が浮かんだ。  一瞬の躊躇いの後、私は目を閉じ、心の中で謝罪する。そして、意を決し、右手を大きく振りかぶる。“それ”はまだ、私が何をしようとしているのか理解していないようで、きょとんとした顔を私に向ける。私はその顔に思い切り平手打ちを食らわせる。  パンと乾いた音と共に“それ”の頭が小さく揺れる。さすがに私の力では、それが限界だったけれど、臆病な“それ”は確実に怯んだ。私は間髪入れずに“それ”に向かって叫ぶ。 「さっさと森へ帰れ、この化け物!」  右手を握り締め、痛みに堪える。存外大きな音だったのに、“それ”に痛がっている様子はない。痛いと感じたのは私の方だけだったのだろうか。 「ここはあなたが居ていい場所じゃないの!」  なぜだろう。傷付いた左腕よりも、この子を叩いた右手が痛む。  なぜだろう。ノクタを叩いた時は痛みなんて感じなかったのに。 「言葉が分からない振りはやめて! 私が言っていることは分かっているんでしょ!」  微動だにしない“それ”を正面から睨み付け、罵声を浴びせる。けれど、駄目だ、駄目だと分かっているのに、目から涙が零れてしまう。泣いたら、この子が帰れなくなってしまう。ここに未練が残ってしまう。でも、涙が溢れて止まらない。表情だけは崩さず、目を吊り上げ、眉を(ひそ)めて、険しい顔を作る。 「あなたのせいでこんな目に遭ったの!」  お母さん、あなたは何故我が子をぶつことが出来たのですか? あの時、どうやって涙一つ見せずにこの痛みに堪えたのですか? 「あなたの顔なんて二度と見たくないわ!」  あなたは何故、そんなに強くいられるのですか? 「もうここには来ないで! 何処か遠くへ行って!」  最後の方は絶叫に近い大声で喚き散らしていた。  駄目だ。母のようにはいかない。上手く演じることが出来ない。出来るはずがない。私は子供だから。  ここまで言っても帰ろうとしない“それ”。私は涙を拭い、もう一度右手を振りかぶる。でも、出来たのはそこまで。上げた右手を振ることが出来ない。ただ右から左に手を払うだけなのに。私は恐いんだ。再びあの痛みに晒されることを恐がっているんだ。私にはもう、あの痛みに堪える程の気力は残っていない。ここでこの子を睨み付けるだけで精一杯だ。  私が手を上げたまま、苦悩していると、不意に“それ”が立ち上がる。私から顔を離し、私に背を向ける。そして、そのまま森へ向かって歩き出す。  救われた。“それ”の背を見つめながらそう思った。  “それ”は何度かこちらを振り返ったものの、ちゃんと森の中へ戻っていった。“それ”の姿が完全に見えなくなったことを確認して、私は天を仰ぎ目を閉じる。そして、肺の中の空気をゆっくりと長く吐き出す。吐き終わると、今度は口を大きく開け、空気を一気に取り込む。  深呼吸することで、気持ちを落ち着けさせ、周囲を見渡す。丁度近くに葉が落ち切った低木がある。私はその木に近付き、枝に両手を掛ける。そして、体重を掛け、枝を手折る。枝が折れる瞬間、バランスを崩して、雪の上へ倒れる。 「つぅ……。」  歯を食いしばり、痛みに堪える。先程の痛みに比べれば、そう思うようにして立ち上がる。 「アン、アン!」  坂の下からエミリーの声がする。そして、大勢の人が雪を踏み締める音も。 「アン、大丈夫?」  心配そうに駆け寄るエミリーに私はにっこりと笑顔を向ける。 「すぐに病院へ行きましょう。止血すればまだ――」 「ありがとう、エミリー。でも、ごめんね。」  そう言って、包帯を手にしたエミリーをそっと右手で押し返した。驚き、言葉が出てこない様子のエミリーに私は頭を下げた後、右手に持ち直した木の枝に左手で自身の血を塗り付けた。エミリーは真っ赤に染まった枝と私の顔を交互に見ながら顔を青ざめさせていく。何かを言おうとしたエミリーに私は声のトーンを落として言う。 「お願い、私はやらなければならない事があるの。」  私の言葉にエミリーは口を(つぐ)んだ。  私は右手で持った枝を右へ払い、左へ払い、再度右へ払う。あの子を守らなければ。その一心で枝を振る。 「あいつは何処だ?」  やっとエミリーに追い付いてきた猟師達が銃を手にして、周囲を警戒する。その猟師達に向かって、私は一礼する。 「アン、大丈夫か? あの化け物は何処なんだ?」  私の目の前にわらわらと猟師のおじさん達が集まってくる。皆、私の言葉を聞こうと耳を傾け、静まり返る。  視線を集める私は、無表情でゆっくりと枝を右へ振る。雪を少量掬(すく)い上げ、私の足跡を消す。そして、今度は左へ払い、エミリーの足跡を消す。そして、右へ払って、あの子の足跡を消す。  枝を振る私をおじさん達は固唾を呑んで見守る。そのおじさん達へ向かって私は宣言する。 「これより山入らずの儀を始めます。」  ああ、寒い。あの子はちゃんとこの冬を越せるだろうか……。
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