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山に入る道は三本ある。山の反対側にある隣村に通じる石畳の道と木こりが運搬に使う幅広の道、そして私が今歩いている猟師が使う小道の三つだ。この三つと村へと戻る坂道が交わる分岐点に、簡素な道標が立っていて、それぞれ『山越道』、『杣人道』、『猟人道』、『山村』と太い字で綴られている。山の散策からの帰り道、村が近い印であるこの立て札を見る度に、私は溜息をついてしまう。
今日も肩を落として立て札の横を通り過ぎようとした時だった。
「なんだ。誰かと思えば、アンじゃないか。」
私は反射的に声がした方を向く。杣人道からノクタとハンスの二人が怠惰そうに歩いてくる。不良のノクタと臆病者のハンス。碌でもない二人の顔を見て、私はあからさまに苦い顔をした後、二人を無視して坂を下り始める。できる限り早足で。二人に追い付かれないように。
「なんで逃げるんだよ。」
がたいの良いノクタはすぐに私に追い付き、肩を掴んでくる。
「家に帰るの。邪魔しないで。」
睨み付ける私に対して彼は笑っている。ノクタは私が逃げ出すのを承知の上で、態と声を掛けてきたのだ。彼はそういう人間だ。
「猟人道から出てきたように見えたけど、何してたんだ?」
遅れてきた金魚のフンも息を切らせながら加勢する。
「山に入っちゃいけないんだぞ。バレたら怒られるぞ。」
ノクタの汚い手を振り払って逃げようとすると、今度は手首を掴まれた。
「あんた達だって山にいたんでしょ。いいから離しなさいよ!」
私の怒声に怯む様子もなく、ノクタはお道化た調子で返してくる。
「俺らは木こりの仕事を手伝ってきたところだよ。遊んでるわけじゃねぇよ。」
嘘だ。私の手を掴む彼の腕から焦げ臭いにおいがする。おおかた、隠れて煙草を吸っていたか、勝手に猟銃を持ち出しているのだろう。猟銃を……。
そこまで考えて、私ははっと顔を上げた。
もしかして、あの子が脚を怪我したのは、ノクタ達に撃たれたのではないだろうか。何の根拠もない推測、いや、憶測に私は本気で憤慨した。頭に血が上ると同時に、気付けば彼の頬を叩いていた。思い切り叩いたつもりはないけれど、そこそこ大きな音が立ち、ノクタはすぐに手を離した。
「あっ。」
思わず声が漏れる。あっさり叩けてしまったこともそうだけれど、こんな事でかっとなってしまった自分自身にも驚いた。
「ご、ごめん・・・・・・。」
小さな声でそれだけ言うと、私は一目散に村へ駆け出した。後ろから何か言っているのが聞こえるけれど、私は耳を塞ぎ、村の広場まで一気に走り抜けた。
ノクタもさすがに村の中までは追いかけては来ないようで、坂を下り終わる頃には怒鳴り声は聞こえなくなっていた。呼吸を整えながら広場のベンチに座り、天を仰ぎ見る。
「やばいなぁ・・・・・・。今度会ったら何されるかわかんないなぁ・・・・・・。」
腰巾着のハンスはどうでも良いけど、この村一番の悪ガキ・・・・・・悪ガキという年齢でもないと思うけど、不良のノクタを怒らせたのはまずかった。小さい頃から評判が悪く、悪戯の範疇を逸脱した犯罪まがいな事もしているという噂を聞いたことがある。先程の出来事を根に持ち、家に火を点けにくるかもしれない。さすがに彼が人殺しをするほどの悪人だとは思っていないけれど、かと言って彼が絶対にそれをしないと断言する自信はない。一瞬伯父に相談しようかと考えたけれど、私がなぜ山に入ったのか問い詰められそうなので、すぐに諦めた。そもそも伯父が私の話に耳を傾けてくれるかどうかも怪しかった。同じ理由で、村の自警団の方々にも話す気にはなれなかった。それよりも次からは山の出入りに気を付けなければ、もっと面倒なことになるかもしれない。いや、面倒というよりも、あの子が見つかれば、きっと猟師さん達が銃を手に山狩りをするだろう。それだけは避けなければいけない。
あれこれと考えている内に胸の鼓動が落ち着いてくる。ふうと長く息を吐いた後、閉じていた瞼を開け、正面を向くと、目の前にエミリーが立っていた。ばっちりと彼女と目が合い、私は一呼吸置いてから声を上げて驚いた。
「いつからそこにいたの?」
「ついさっきだけど……。そんなに息を切らせて、どうかしたの?」
一息ついてから、小首を傾げるエミリーに、ノクタに絡まれた事を愚痴る。もちろん、山に入っていた事は伏せて話した。エミリーはノクタの名前が出てすぐに不機嫌になり、自分のことでもないのに怒り出す。
「あいつ、本当にどうしようもない奴ね。アンは何も悪くないわ。気にしなくて良いわよ。」
背の高い彼女が仁王立ちし、切れ長の目がさらに鋭さを増すと、なかなかに迫力があった。曲がったことが大嫌いな彼女にとって不良のノクタは目と耳の敵みたいなものなのだろう。裏表なく、言いたいことははっきりと言う彼女だけれど、明るく、誰とでも平等に接する彼女の性格故か、私と同じ村の外から来た余所者であっても、村人の信頼は厚かった。
エミリーには、十歳の妹がいる。その妹の療養のために、一家全員で、五年前にこの村へ引っ越してきた。妹は呼吸器官系の病を患っていて、ここ最近急増した近代化された工場のせいで、人が多いところは住みにくくなってしまったそうだ。エミリーから事情を聞いた時は、こんな何もない村、しかも厳しい寒さに見舞われるような場所で大丈夫だろうかと心配したけれど、病気の妹のために町から一緒に主治医が付いてくるほどの金持ちなので、意外と快適に暮らせているようだ。
そんな彼女は、敵視とも憐れみとも取れる村人の私への扱いを快く思っていないらしく、私が一人でいると度々声を掛けてくることがあった。ただ、趣味嗜好や性格が違う彼女を友達ではなく、仲の良い隣人ぐらいに私はとらえている。彼女の方も私がこんな事になっていなければ、これほど意識して話し掛けてはこなかっただろう。
「あっそうだ。ジョージおじさんが町まで馬車出してくれるって言うんだけど、アンも行く?」
仏頂面だった彼女の表情が一転して笑顔になる。他の村人と違い、変な忖度なしに笑ってくれるエミリーの笑顔は好きだった。
「それなら図書館に本を返却しに行きたいわ。」
エミリーに本を取りに一度家へ戻る旨を伝えて、その場で彼女と別れる。
広場から教会へ続く大通りに入り、この村唯一のバーの角を曲がる。細い脇道を行くと、等間隔で建ち並んでいた家々が次第に疎らになっていき、真っ直ぐには進めなくなってくる。何度かT字路やY字路を右へ左へ曲がった後、二階建ての伯父の家へ着く。この村の家は冬に暖を取りやすいように密集して建っているけれど、伯父の家はほぼ村の端に位置しているので、右隣は空き地に、左隣は十数メートル間隔を空けて建っている。
私は裏口へ回り、鍵を取り出し、戸を開ける。分厚い扉を音を立てないようにゆっくりと押す。ギィと軋む音だけを発して戸が開き、隙間から顔を入れ、家の中に灯りが点いていないことを確認する。伯父さん達は留守みたいだ。それもそうだ。この時間なら倉庫の整理か山の様子を見に行っているはずだ。私は扉を全開にして、急いで二階に向かう。廊下を小走りに進み、キッチンの脇を通り過ぎようとした。しかし、私はリビングに伯父がいることに気付き、足を止めた。窓から差し込む日の光だけで新聞を読む伯父は、少し新聞を下げて、私を睨む。思わぬ不意打ちを食らい、一瞬呼吸が止まる。
「た、ただいま戻りました。」
なんとかそれだけを言い、頭を軽く下げる。暑くもないのに、背中を汗が流れ落ちる。
伯父はボリボリと白髪頭を掻いて、何も言わずに新聞に視線を戻す。暫く廊下に立ち尽くしていても、何も言われる気配がなかったので、私は平静を装いながら静かに階段を上った。私の部屋に入ると、後ろ手に扉を閉め、そのまま扉に寄り掛かる。
「伯父さん、いたんだ・・・・・・。」
溜め息と共にそう呟く。伯父が私の方を向いた時、何かしら咎められるのではないかと身構えたけれど、今日は機嫌が良いみたいだ。いつもなら「どこに行っていた?」「何をしていた?」「廊下を走るな!」等の怒号が飛んできてもおかしくはなかった。暴力を振るわれたことはないけれど、酔って暴れると柱やテーブルを家全体が揺れる程力強く叩き、いつかその熊のような腕で殴られはしまいかと不安に思う時がある。それに猟師をしている伯父の顔や腕にはいくつもの爪痕や噛み傷があり、叱られる度に生々しい傷痕を残すその顔と対峙するのが恐かった。
私はベッド脇に置かれたトートバッグを手に取り、机上の本を開く。返却日とタイトルを確認して、バッグに入れる。忘れ物がないかベッドと机の上を見て、部屋から出る。私の部屋は、元々物置だった所に無理矢理ベッドと机を運び入れた狭い部屋なので、見回すほどの広さはない。それほど多くの私物を持っている訳でもないので、狭い部屋でも特に不満はなかった。不満があったとしても、私にはそれを言う権利はない。
部屋に鍵をかけ、階段を下りると、伯父はまだ先程と同じソファに座り、新聞を読んでいた。「行ってきます」と小さな声で伝えて裏口に向かおうとした時、バサバサバサと新聞紙が勢いよく畳まれる音が聞こえた。
「どこに行くんだ?」
振り返ると無表情の伯父がじっと私を見ていた。私はすぐに伯父の方へ向き直り、背筋を伸ばす。
「あの、エミリーが町まで行こうって……。ジョージおじさんが馬車出してくれるからって……。」
たどたどしく説明し、顔を背ける。伯父が怒っているのか、そうでないのか、表情や声色からは判断できなかった。先程は偶々声を掛けなかっただけで、機嫌が良い訳ではなさそうだ。
「なんで裏口から入ったり、出たりしているんだ?」
「それは・・・・・・」と口籠もる私に伯父は余り抑揚のない声で言い放つ。
「玄関を使え。後、今日は村の会合に行くから、俺が家を出る前に帰って来い。」
私の返事を聞く前に足を組み直して、再び新聞を読み始める伯父。真白い口髭を弄る伯父に私は「はい」とだけ応え、俯いて玄関を出た。
裏口を使うのに特に意味はない。玄関から入ろうが、裏口から入ろうが、伯父の指定席になっているあのソファの前を通らなければ、二階に上がることはできない。伯父に見つからないように裏口を使っている訳ではなく、ただ、何故かこの家の玄関を通るのが苦手だった。その理由が、伯父がいるこの家へ帰りたくないという気持ちの表れなのか、最後に母の姿を見たのがこの玄関だったからなのか、私自身にも判然としなかった。
どちらにしても、この家に良い思い出なんてない。
幼い頃、今はもう引っ越した隣家の友達と夜遅くまで遊んでいたことがある。遅いと言っても陽が完全に沈んでしまってから村に戻っただけで、私達より年上の子供達はまだ数人、林で遊んでいた。それでも友達の親は子供に駆け寄り無事なことを喜んでいた。伯父の方は山の中に探しに行くつもりだったのか、数人の猟師仲間と共に銃を抱えて広場に集まっていた。伯父は私の姿を見るなり、ちっと舌打ちをして、さっさと家に帰ってしまい、私は一人で広場に取り残された。私が泣きながら家に帰ると、椅子に寄り掛かり酒を飲んでいた伯父が、「てめぇのせいで酒が不味い」と言って、まだウヰスキーがたっぷり入ったグラスを床に投げつけたのを今でもはっきりと覚えている。伯父との思い出はそれぐらい。誕生日を祝ってもらったことはないし、サンタが家に来たこともない。家族旅行だってない。いや、伯父にとって私は家族ではないのだから、なくて当然なのかもしれない。母の実姉である伯母にこっそり服やアクセサリーを買ってもらうこともあったけれど、それも片手で数えるほどの回数しかなかった。
嫌なことばかり思い出していた私は、すれ違う人に軽く会釈だけをして、無言で大通りを歩いていた。村の出入口に建つ表門に着くまで終始、そんな状態だった。
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