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「ああ、やっと来た。」
エミリーの声に、はっと顔を上げ、前を見る。村名が書かれた簡素な造りの木製アーチの下でエミリーがまたしても仁王立ちしている。ただ、今度は顰めっ面ではなく、やれやれといった呆れ顔をしている。
「ごめんなさい。だいぶ待ったでしょ。」
エミリーは首を横に振り、荷馬車の荷台部分に腰掛ける。
「また誰かに嫌なことされたの?」
エミリーの問いに今度は私が首を振る。
確かに私はこの村に居心地の悪さを感じているけれど、決して村の人から苛めを受けているといったことはない。小さな村特有の隠し事ができない隣人関係から、私が捨てられた子であることは周知の事実であり、それに対する憐れみの目が、私には敵意に感じられるだけのこと。さらに言えば、親を亡くした訳ではなく、親に捨てられたというのは、世間体が悪く、古い慣習や考えにとらわれている老人達からすれば、私達家族は実に歪なものに見えるのだろう。
「大丈夫、ありがとう。」
私達の声を聞きつけたのか、馬のブラッシングをしていたジョージおじさんが馬車の後ろに回って来た。
「アン、やっと来たのか。色々買わなくちゃならないからすぐに出るよ。」
がりがりの腕をパタパタと忙しなく動かし、私を急かす。ジョージおじさんなんて呼ばれているけれど、まだ二十代後半の独身男性だ。痩せた身体に、不精髭、極端な猫背のせいで実年齢より十歳以上老けて見える。
私はごめんなさい、お願いしますと頭を下げた後、慌ててエミリーの横に座る。落ちないようにと注意をしてから、ジョージおじさんは輪留めを外し、馬車に乗り、手綱を取った。馬の短いいななきの後、ゆっくりと馬車が動き始める。荷馬車なので乗り心地は悪いけど、歩いて麓の町まで行くよりずっと楽だし、早い。
「エミリーは町に何しに行くの?」
小さなショルダーバッグを肩にかけただけのエミリーに尋ねる。エミリーも一度家に戻ったのか、広場で会った時とは違い、長い金色の髪を後ろで束ねていた。貴金属でできた髪留めが美しく輝いているけれど、それに負けないくらいエミリーの髪は美しく、綺麗な色を放っていた。それだけではなく、ファーの付いたカーディナルレッドのコートに、白いブーツを履いている。こんな荷馬車に乗っているのがおかしなくらい品のある服装だ。それに比べて私は田舎娘丸出しのボサボサのショートヘアに、伯母さんが使っていたお古を少し仕立て直しただけのくすんだベージュ色のコートと、山の土が付いた紐靴だ。歳が一つ違いのはずなのに、エミリーはそれ以上に大人っぽく見える。それは服装だけではなくて、立ち振る舞いや仕草を含めて彼女の方が人として成熟している証拠なのだろう。
「私は……住む部屋を探しに行くの。」
「えっ。」
意外な答えに私はエミリーの顔を見る。彼女は後ろから前に流れていく景色を眺めながら、遠ざかっていく山々や村を見ながら笑顔で言う。
「来年、十八になったら、隣町の学校に行くの。医者になる勉強をするために。」
彼女はコートの袖を引く。彼女の左手首にはお洒落な文字盤が刻まれた腕時計が巻いてあった。
「頑張ってお父さんを説得したらお祝いにこれを貰ったの。町で生活するなら必要だろうって。」
生まれが違うとは思っていたけれど、彼女の志の高さに私は酷く引け目を感じた。女性のお医者様なんて聞いた事が無い。でも、彼女はきっと妹のために、妹のように苦しんでいる人のために医者になろうとしているのだろう。それをすぐに理解した私は、「そっか、すごいね」と言い、エミリーと同じく遠くの山を見た。
少し間を置いた後、エミリーが聞き返してくる。
「アンはこの村を出ないの?」
何でも躊躇いなくはっきりと物を言うエミリーにしては珍しく、少し遠慮がちな声で尋ねる。
「この村にいるのが悪いって言っている訳じゃないのよ。ただ、アンが余り村の事を好いていないみたいだから、その……。」
彼女が言わんとしていることも、私を傷付けないように言葉を選んでくれていることもわかる。だから、エミリーには話しても良いかなと思い、トートバッグの中から本を取り出した。
「私ね、地方にある色々な伝承を調べるのが好きなの。」
そう言って、ハードカバーの本をエミリーに手渡す。彼女は表題を見て、本を開く。
「随分難しそうな本ね。古い字が多くて読みにくいわ。」
眉間に皺を寄せる彼女に、「医術書ほどではないけれどね」と笑ってから、続きを話す。
「その本はこの辺りの口伝をまとめたものなんだけど、それを書いた先生が麓の町の近くに住んでいるみたいなの。だから、その人の助手――とまではいかなくても、何かしらの形で携われたらなって思っているんだけど……。」
「良いじゃない。素敵だよ! 私、そういうの好きよ。」
エミリーが少し興奮した様子で本を返す。だけど、私は首を振る。
「でも、まだ伯父さん達には話してないし、あくまでそうしたいなぁってだけで、エミリーみたいに具体的なプランがある訳じゃないわ。他にも問題はいっぱいあるし。」
そう、問題は山積みだ。その中でも、一番気掛かりなのは、山にいるあの子のことだった。私がこの村を離れたら、今のようにほぼ毎日あの子に会うわけにもいかなくなる。私と出会うまではあの子だけで暮らしていたのだから、私がいなくても自分で食べ物を探したり、越冬の準備をしたりはできるのだと思うけれど、またあの時のように大ケガをしたら、あの子一人で大丈夫なのだろうかと心配になってしまう。もっと山の奥に連れて行くか、あの大きな身体を隠す術を教えるかしないといけない。
あの子がいるであろう山を見る。茶と灰色ばかりのこの山も、もうすぐ降る雪で白く変わってしまう。それまでには、何か良い方法を見つけなければ。
私が山の方を見ていると、突然エミリーが私の手を取った。
「ありがとう、話してくれて。」
彼女の言葉の意味が分からず、私はぽかんと口を開けたまま間抜けな顔を彼女に向けた。
「アンとは時々話をしてきたけれど、いつも当たり障りのない世間話ばかりだったから、貴方が自身の事を話してくれたのが嬉しいの。」
「こんな事で嬉しいの? 別にそんな特別な話はしてないわ。大袈裟よ。」
私は少し照れくさくて、彼女から目を逸らした。でも、彼女はさらに手を強く握り締め、私に訴えた。
「ううん、自身の事を話すっていうのは大事な事よ。なんかこう……やっとアンと友達になれた気がするの。」
友達。久しぶりに言われたかもしれない。伯父の家に来てから、友達だと言えたのは、今はもういない隣家の女の子だけ。その子もエミリーのように自分が思ったことをはっきりと言える子だったな。
「そっか……うん、友達だね。」
エミリーの手を握り返し、微笑み返す。私の応えに満足したのか、エミリーはそっと手を離した。
「あー、エミリー、ちょっといいかな?」
ジョージおじさんが何か思い出したのか、唐突に大きな声を出した。「何?」とエミリーも大きな声で返しながら、まだ何も積み荷を載せていない荷台の上に完全に乗り上げる。そして、手綱を取るジョージおじさんに腰を落とした状態で歩み寄った。ジョージおじさんは前を見たまま、先程と同じように大きな声で話し始める。
「エミリーはうちの村でやっている山入らずの儀っていう恒例行事知っているかい?」
エミリーは一度私の方を見た後、首を横に振った。無理もない。エミリーがこの村に来たのは五年前。五回冬を越しているけど、山入らずの儀は村長さんや猟師・杣人の代表者数人等のごく少数だけが集って行われる行事だから、エミリーが知る機会はほぼなかっただろう。ほとんどの村人は「今年の儀式は終わったから春まで絶対に山へは入らないように」という言伝がくるだけなので、この習慣・儀式自体を認知している人は村の中でも数少ない。
「何なの、その山入らずの儀って?」
「えっと、山の神様にもう山に入りませんっていう儀式なんだけど……。」
ジョージおじさんの雑な回答にエミリーは首を傾げる。そんなエミリーに、私から説明をする。
「私達の村は猟師や木こりをしている人が多いから、山の神様に対する信仰が厚いの。冬は山の神様が寝て、力を蓄える季節だから、神様が安眠できるように誰も山に入りませんって宣言しに行くのが、山入らずの儀なんだけど、要は雪山は雪崩やら滑落やら危険が多いからそういった被災をなくすために告知したのが始まりなんだと私は思う。村の女性が山で拾った枝を使って儀式をするんだけど――」
「そうそう、その枝を使ってなんちゃらっていう役をエミリーにやってもらいたいんだよ。」
私の話の腰を折って、ジョージおじさんが明るい声を出す。
「いやぁ、長年やっていた教会横に住んでいるお婆さんが腰を悪くしちゃって、今年は無理だって言ってきて、代役探そうにもおばちゃん連中は忙しい時期だからダメだって言うし、若い子は雪降った後の寒い時になんでそんな事しないといけないのかって拒否されるし、早く代役見つけないと練習する時間なくなっちゃうから困っていたんだよ。そもそもこの儀式自体認知している人が少なくて、山入らずの儀が何なのかっていう所から説明しないといけないのが、億劫で億劫で。その点、エミリーなら頭が良くて理解が早いし、責任感がある真面目な子だから安心して任せられるんだよ。」
マシンガンのように言葉を浴びせかけ、有無を言わさず事情を話した後、ジョージおじさんは笑顔で尋ねた。
「やってくれるよね、エミリー?」
「やだ。」
おじさんが言い終わるのとほぼ同時にエミリーは断った。白黒はっきり言うエミリーに迷いはないようで、項垂れるジョージおじさんを見ても澄ました顔をしている。話が終わり、私の傍らに戻ってきたエミリーは何事もなかったかのように座ろうとした。でも、エミリーは完全に座り切る前に私の顔をまじまじと見てから、再びジョージおじさんのすぐ後ろに戻っていった。
「アンにやらせれば良いじゃない。」
真顔で提案するエミリーにジョージおじさんは明らかに狼狽してみせた。
「いや、アンは、その……何というか……村にいる年数が短いというか……。」
ジョージおじさんは頭をボリボリと掻き、何とか言い訳を作ろうと苦心しているみたいだ。おじさんは村長さんか誰かに言われて、代役を探しているだけだから、反対意見が出そうな私を代役に立てて良いものか、判断しかねているのだろう。
「なんで五年しかいない私が良くて、十年以上住んでいるアンは駄目なのよ。どうせ私にお鉢が回ってくる位だから、他に当てなんてないんでしょ。アンなら他の子と違って責任持ってやってくれるし、理解も早いから適任者だと思うけど。それともこんな事にまで家庭がどうのこうのなんて持ち出してくるつもりじゃないでしょうね。アンに非はないのだから、それは苛め以外の何ものでもないわよ。それでも大人なの? それともこの村では老人が子供を苛めても良いわけ?」
ジョージおじさんのマシンガントークをバズーカ並の威力にしてエミリーがやり返す。おじさんの方を向いているので、私からは彼女の表情を見ることは出来なかったけれど、ジョージおじさんは顔を真っ青にさせて、泡を食っている。
「ああ、うん、その、でも、どうしようか・・・・・・。」
ジョージおじさんがぶつぶつと呟きながら頭を掻きむしっている間に、エミリーは私の方へ振り向き、問い掛ける。
「ごめんね、アン。貴方の了承も得ずに話進めちゃったけど、やっぱりアンもやりたくない?」
私は少し考える素振りをした後、にっこりと笑った。
「実はこっそり山入らずの儀を見に行くつもりだったから、堂々と参加できるなら、それが良いな。」
エミリーは面食らったような顔をした後に呆れた感じで言う。
「ほら、こんな事言ってるよ。今時こんな殊勝な子いないと思うけど、どうする?」
ジョージおじさんは黙り込み、暫くパカパカと馬蹄が立てる音だけがリズム良く続いた。
「ああ、分かったよ、僕の負けだ。じいさん達には話しておくよ。ただし、僕に決定権がある訳じゃないから、どんな結果になっても悪く言わないでくれよ。」
根負けしたおじさんは手綱を離さず両手を上げ、降参の意を表明した。その直後、馬車は森を抜け、少し広い道に出る。一本道だった山道が初めて他の道と交差する。もう町が近い証拠だ。石橋を渡り、川を越える時には、数台の乗合馬車とすれ違いもした。
エミリーがしたり顔で私の隣に座り、私は苦笑いをしておじさんを見る。すると、おじさんはまた頭を掻きながらぼそりと言った。
「僕だってアンが気立ての良い優しい子だなんてことぐらいわかっているよ。でも、うちみたいな田舎の村には色々としがらみがあるんだ。大人が皆、君みたいに清い心で居られるもんでもないんだ、エミリー。」
それを聞き、エミリーが少し顔を曇らせ、「ごめんなさい」とだけ呟く。ジョージおじさんはこちらを向かずに、手の平を頭上でひらひらと振り、気にするなと合図を送った。
私達が乗る馬車は石橋を渡ってすぐの所にある雑貨店の前で止まる。少し町から外れているけれど、ここからなら、町中まで歩いて行っても数分とかからない。
「帰りはこの店先で待っていてくれないか。ここならどの店に寄った後でも必ず通るから。」
そう言い残してジョージおじさんは店内に入っていく。
村の年寄連中に代わり、越冬のための買い出しに来たジョージおじさんは、村と町を最低でも三往復はするつもりだと言っていたから、先程の言葉は好きなタイミングでここに戻って来いということだろう。もう勝手に町へ行っても良かったのだけれど、事情を知っていたので、最初の荷積みだけは手伝おうと店先で待つことにした。
雑貨店の入り口には山のように麻袋が積まれている。興味本位で窓から中を覗くと、物で溢れ返った棚が人一人通れるだけのスペースを開けて並んでいるのが見える。缶詰、蝋燭、靴下、箒、ブリキの玩具、手斧、壁掛けの時計に木製の櫂まである。一体何の店なのだろうと考えてから、看板を見て雑貨店であることを思い出す。それ程に店の中は混沌としている。店の奥ではジョージおじさんがメモ用紙を片手に商品棚を指差している。
「アン、山の悪魔の話って聞いたことある?」
店内を覗いていた私に突然エミリーが訊ねてきた。
「えっ?」
「猟師さん達が噂していたんだけど、山の中で真っ黒い大きな獣が出たんだって。しかも、村の近くの山みたいなの。ほら、坂を上がった先の森の中。」
エミリーの話を聞いて、私は酷く動揺した。エミリーが話した内容が明らかにあの子のことを指していたからだ。幸い、エミリーは店先の商品を物色していて、私の顔色までは見ていないようだった。
「熊よりも大きい上に角まで生えていたみたい。本当に悪魔みたいな風貌だよね。」
「何かの見間違いじゃないの?」
無難な返事をして誤魔化す。山羊のぬいぐるみを万歳させて遊んでいたエミリーが心配そうにこちらへ向く。
「多分ね。私が推薦しておいて、こんな事言うのも無責任だけど、山入らずの儀の時は気を付けてね。」
エミリーがぬいぐるみを木箱の中に戻すのと同時に、ジョージおじさんが木箱を抱えて店から出てきた。
「何だ、まだいたのか。もう遊びに行って良いんだぞ?」
積込みを手伝うと言うと、おじさんは礼を述べてから、カウンター前の木箱を運ぶように頼んできた。
エミリーと共に店に入り、私達でも持ち上げられる程度の大きさの木箱を運び出す。それを三往復程して、荷馬車へ積む。その間、エミリーは特に先程の話題には触れる事もなく、淡々と木箱を運んでいた。おそらくもう、山の悪魔の話など気に掛けていないだろう。でも、私は違った。エミリーにとっては世間話、噂話に過ぎないだろうけど、私はあの子がすでに村の人に見つかっていたことに愕然としていた。山入らずの儀が済めば、暫く大丈夫などと呑気な事をあの子には言ったけれど、明日にでもあの子をもっと人目のつかない、隠れやすい所へ移動させなければいけないかもしれない。最後の荷を馬車に積むと、私は山の方を向く。ここから見る山は、村から見る山と違い、風景画のようにひどく霞んでいて迫力がない。鳥の囀りもなければ、木の葉のざわめきもない。完全に周りの景色と同化している。まるであの子といた時間は現実ではないのだと、夢現なのだと言わんばかりに、町の雑踏と山の息吹は切り離されていた。
「じゃあ、これからは自由時間ね。」
エミリーが私の肩を軽く叩く。私ははっとして、山から視線を外し、笑顔を作って物思いに耽っていた事を誤魔化す。
三人は店の前で別れを告げ、銘々目的地へ向け、歩き出す。エミリーとは、後で昼食を一緒に取ることを約束して手を振り合う。
私が通う図書館は町のほぼ中央にある。山を背に歩き、町の中心に近付くにつれ、タバコ屋、酒屋、服飾店、銀行と次第に建物の高さと幅が大きくなっていき、人ごみの密度も上がっていく。私はできる限り目立たないように通りの端を歩く。ショーウィンドウ越しに店内を眺め、綺麗に飾られた商品とそれを買い求めるお客を見る。客のほとんどはエミリーのように派手過ぎない小綺麗な服装をした人ばかりだ。
「あっ……これ……。」
思わず足を止め、見入ってしまう。私が立ち止まったのは小さな時計店のショーウィンドウ前。
そこには、エミリーが手首に巻いていた腕時計と同じロゴが入ったブランド物の時計が、十時十分を指し示したまま止まっていた。
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