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服に付いた土を払い落とし、玄関の戸を開く。辺りはすっかり暗くなっていて、あの日の事を思い出す。今はもうこの時間帯に帰ってきても、怒られはしないけれど、なんとなく気分が落ち着かない。
「ただいま戻りました。」
リビングに入ると、伯父がいつものようにあのソファに腰掛けている。その伯父の前を通り過ぎながらコートを脱ぎ、手を洗いに洗面所へ向かう。もう晩ご飯の支度が調っていて、テーブルの上に器が並び、スープから湯気が立ち上っているのが見える。その奥で伯母がその恰幅の良い体格に似合わず、機敏な動きでフライパンや包丁を洗っている。
私が手洗いを済ませた時には、すでに伯父と伯母は席に着いていた。普段と変わらない食卓の風景。
「お待たせしました。」
そう言って腰掛けようとした。
「今日はどこに行っていたんだ?」
伯父の言葉に私は椅子を引いたまま固まる。あの子と会っていた事がばれているのではないかという考えが頭を過ぎるけれど、それなら村は大騒ぎになっているはずだと思い直す。
「村を出た坂の上で読書をしていました。山には入っていません。」
それだけ言って、漸く椅子に座る。私の言葉に伯父は特に何も言及せず、グラスに入ったウヰスキーを呷った。
私達のやり取りを静かに見守っていた伯母は、伯父の顔色を窺った後、音を立てて手を合わせた。
「さぁ、ご飯にしましょう。最近一段と寒くなったから、今日は温かい物を作ってみたわ。」
デミグラスソースがかかったロールキャベツに、人参のグラッセ。胡桃パンと蒸かしたじゃがいものサラダ。それらから出た野菜くずを入れたスープ。この季節になると、伯母は良くこの料理を出してくる。高価な食材は何一つ使っていないけれど、母の料理を覚えていない私にとってはこの味が一番舌に馴染んだ安心できる味だった。
「お隣さんから沢山キャベツを貰ったから、しばらくはキャベツ料理ね。うちからは干しておいた鹿肉をお返ししておいたけれど、構わないわよね。そうそう、お隣さんの所へ持って行った時に聞いたんだけれど、麓の町へ行くのに使っている道の一部を補修するみたいね。まぁ、すぐじゃなくて暖かくなってから着工するみたいだけれど・・・・・・。」
うちの食卓はいつも伯母が一人で喋り、時々私が短く相槌を打つだけ。無口な伯父と私の間に会話は一切ない。そう、会話と呼べるものはない。伯父が一方的に発言し、私はそれに対して「はい」と返す。もしかするとその返事さえも伯父は聞いていないかもしれない。伯母は普段それ程お喋りではないけれど、この時間だけは矢鱈と話しをしたがる。無理もない。三人がまともに顔を合わせるのは、食事の時ぐらいだから。
スープを啜りながら伯母の話を聞いている内に、偶々エミリーの話になった。
「お金持ちの家の子……エミリーちゃんだったかしら。来年から町で独り暮らしするみたいね。なんでも町に新しくできた大きな学校に行くんだとか。やっぱり金持ちの家の子は違うわねぇ。」
昨日エミリーと話していたことだ。伯母の話しぶりを聞くかぎり、もう村人の間ではだいぶ噂になっているみたいだ。
「昨日も高そうなコート着て、家から出てきたわ。大人みたいに腕に時計までして。」
「お父さんからお祝いに貰ったそうです。」
唐突に喋った私に驚いた様子で伯母が顔を向けてくる。
「あら、そうなの。よく知っているわね、アン。」
スプーンを置き頷く。ふと視線を感じて横を向くと、グラスを傾ける伯父と目が合った。私は急いで顔を逸らす。
「金が入り用になれば売れるからな。離れて暮らす子供には丁度良い贈り物だな。」
違う、そんな事のためにプレゼントされたわけじゃない。
ウヰスキーを注ぐ伯父にそう言ってやりたかったけれど、恐くてできなかった。
伯母は珍しく口を利いた二人を交互に見やって、お喋りを止めてしまった。一瞬で食卓が静かになる。でも、伯父と私はそれを気にせず食事を続ける。伯母は話を続けるべきか、何か違う話題にするべきか悩んでいるようだ。
「あの、私も……町に行きたいです。」
私の一言の後、再び静寂に戻る。伯母は持ち上げかけたスプーンを置き、私を見る。
「私も・・・・・・って、学校に行くのかい?」
「いえ、そういう訳じゃなくて……。麓に住む郷土研究家の人に助手として雇って頂こうかと思って。」
私の話を聞いても、伯父は特に何も反応を示さなかったけれど、伯母は目を皿のようにして驚いている。それもそうだろう、今までこんな話をしたことなんてなかったから。
「え、でも、それで将来食べていけるの? そんな簡単に助手にしてもらえるのかい?」
「手紙で何度かやり取りをさせて貰っていますが、先生はだいぶ高齢で、お手伝いさんを雇おうかと思っていると書かれていました。私みたいな田舎娘を助手として雇って貰えるかどうかわかりませんが、先生の研究の手伝いをしたいんです。場合によっては、町で別の仕事を見つけて、通いながらでもやるつもりです。それに――」
私は伯父の顔をちらりと見て、すぐに視線を外した。
「いつまでもここにいる訳にもいきませんから……。」
私の突然の告白に伯母は口に手を当て、悲しげな表情をしてから尋ねた。
「すぐに行くのかい?」
私は首を振る。
「まず手紙で先生へお願いしてみるつもりです。その後、ここを出る準備をして……たぶん一年以内に行くようなことはないと思います。」
そこまで話すと、伯父が急に口を開いた。
「好きにしろ。別にお前がどこで何をしようが知らん。村を出るなら、勝手に出て行け。」
「母のようにですか?」
私の言葉に伯父は一瞬お酒を飲む手を止める。そして、私を睨み付けた後、一気にウヰスキーを飲み干し、テーブルを叩いて立ち上がる。食器が音を立てて揺れ、スプーンが床へ落ちる。私は殴られるのかと思い、両腕で顔を覆う。しかし、伯父は私に背中を向け、ふらふらとソファのところまで歩いていき、勢いよくソファへ座ると、脚を投げ出して寝てしまった。
伯父のいびきを聞き、伯母がタオルケットを持ってくる。それを伯父に掛け、席に戻ってくる。
「なんであんな事言ったの……。」
少し窘めるような口調で言われた。きっと冷や汗をかきながら私達のやり取りを見ていたのだろう。
「ごめんなさい。」
伯母に頭を下げた後、床に落ちたスプーンを拾い、布でスプーンを拭く。伯母は溜息をつき、フォークを手に取る。
「母は何故私を叩いたのですか?」
私がこの家に預けられた時のことを口にした。この歳になって初めて真正面からこの質問をしたかもしれない。でも、この家を出る決意をした私は、真っ当な答えを期待していなかったものの、聞かずにはいられなかった。
伯母は丁寧にスプーンを磨く私を見て、再度溜息をつく。
「仕方がなか――」
「またその答えですか! 幼い頃、愚図る私をあやすためだけにしたその答えをまだするんですか!」
スプーンを置き、伯母を見つめる。感情的になり、険しい目つきになっているのが自分でも分かる。
「大人には大人の事情が――」
「そんな事知らない! なんで大人達は自分の都合だけでどんどん話を進めるの! どうして私はそれに振り回されなければいけないの!」
いけないと思いつつも、私は伯母へ向け訴えかけた。
「母に捨てられたのは仕方ないかもしれません。伯母さん達に疫病神扱いされるのも仕方ありません。村の人から憐みの目で見られるのも仕方ありません。でも、それなら、せめて、納得できる理由を、訳を……私にください。」
伯母は口を開け、何かを言おうとしたけれど、一筋の涙を流す私を見て、口を閉ざしてしまった。
私は口に手を当て、目を閉じる。
言ってはいけない事を私は遂に言ってしまった。
伯父が子供嫌いだったのと、経済的な理由から伯母夫婦が子供を作らなかったのは知っていた。それなのに伯母夫婦は一方的に押し付けられた私を、育児放棄もせずにちゃんと育ててくれた。金銭的な面だけではなく、変な噂が立ったり、要らぬ詮索をされたりと精神的にも負担だったはずだ。夫婦関係にも少なからず影響があっただろう。それらを知っていたから、私は何も聞かずに大人の言うことに従っていた。それが私にできる恩返しだと思ったから。ここにいるための条件だと思ったから。
伯母夫婦も被害者なんだ。なのに、私は伯母を責めてしまった。本来なら私を捨てた母に対してするべき問いを伯母へ向けてしまった。
「あの、ごめんなさい。本当にごめんなさい。こんな事言うつもりじゃ……。」
私はただこの家から出て行く決心をした事を伝えたいだけだったはず。もうこれ以上私達親子に関わらなくて済むのだと言うつもりだったのに、私はその場の感情で聞かなくても良い事を尋ねてしまった。
私は数歩後退り、涙を拭った後、伯母の制止を無視して二階の自分の部屋へと走り逃げた。
ソファで寝ているはずの伯父のいびきは、いつの間にか聞こえなくなっていた。
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