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私が家を出る話をした日の夜、雪が降った。その雪は三日間降り続き、村を、山を一気に白く覆った。あの子の所へ様子を見に行きたかったけれど、おじさん達が頻繁に山と村を行き来するようになったので、山に入る隙が全くなかった。おそらく雪の積もり具合を見て、猟をいつまで続けるか協議しているのだろう。つまり、山入らずの儀を行う日を検討している段階というわけだ。そして、雪が止んだ今日、件の儀の日を決める為に、伯父が村長の家へ出掛けて行った。私はこの時を待っていた。今なら大人達の目はない。安全に山に入ることができる。
私はコートを手に取り、階段を下りながら袖を通す。玄関でブーツに履き替えていると、伯母が扉を開けて中に入ってきた。スコップを持っているところを見る限り、家の前の雪を除けていたようだ。
「出掛けるの?」
伯母の質問に頷いてみせる。
「行ってきます。」
私は伯母と入れ違いに外へ出る。
「気を付けてね。」
扉をきっちりと閉め、大通りへ向かう。
伯母との会話はとても短かった。でも、普段通りだった。あの日、私は伯母夫婦から離れる話をして気まずい雰囲気になってしまったけれど、だからといって、態度が急変するような事はお互いになかった。私達の関係は元から歪で希薄なものだった。だから、特に私達の日常に変化はなく、これがいつも通りだった。もし変化があるとすれば、最近伯父がお酒を飲まなくなったことぐらいだろうか。
雪が取り除かれた所を歩き、坂の下まで来る。矢張り今日は人通りが少ない。ここに来るまでにすれ違ったのはたった三人だけ。これなら誰にも見られずに山に行ける。それでも念のため、村の方を気に掛けながら坂を駆け上がる。数日前まで落ち葉が占領していた場所は、今や雪がさらに領地を広げる形でその分布を塗り替えていた。坂道から見る向かいの山々は白い塊と化し、見下ろす町も雪に埋もれてまるで砂糖を塗されたかのようだった。
白い息を吐きながら森の入口まで走る。先日おじさん達が山に入った跡らしき靴跡がうっすらと残っていた。その跡はずっと山の奥へ続いている。
「大丈夫、まだあの子は見つかっていない。」
自分に言い聞かせるように呟き、その足跡を辿っていく。それでも雪は深く、一歩踏み出すだけで体力を奪われてしまう。真冬になれば、腰ぐらいまで積もってしまうことを思えば、まだ足首が隠れてしまう程度で済んでいる今は歩き易い方かもしれない。雪もまだ柔らかく、抵抗なくブーツが雪の中に入っていく。
足元に注意しながら進み、途中、足跡から外れて崖の方へ向け歩き始める。あの子のところまであと半分ぐらいだろうか。そう考えていた時だった。
「やっと来たか、アン。」
突然背後から声がしたと思うと、誰かに抱き付かれた。
「きゃっ!」
驚き、叫び声を上げる。そして、顔だけ振り返り、抱き付いてきた相手を見る。
「ノ、ノクタ?」
私を捕まえていたのは、不良のノクタだった。厭らしい笑顔を浮かべ、私の肩に顔を乗せている。
「こんな所で何してるんだ?」
ノクタを無視して、腕の拘束を解こうと藻掻くけれど、全く効果がない。むしろ、ノクタはさらに力を込め、私に密着してきた。
どうしてノクタがここにいるのか不思議ではあったけれど、それよりもこの気持ち悪い不良から早く離れたくて仕方がなかった。
「こんな森の中、一人で良い事あるのか?」
嬉々とした表情で聞くノクタに唾を吐きつけるようにして言う。
「あんたなんかといるより何億倍もマシよ。いいから離して!」
森に入る時には人の気配はなかったはず。だとすれば、森の何処かで私が来るのを待っていたのだろう。迂闊だった。ノクタには度々山を出入りする所を見られていたから、森の中に入ってからももっと周囲に気を付けるべきだった。でも、この様子ならあの子を見つけてはいないはずだ。なら、ノクタから離れて、すぐに山を下りれば大丈夫。今日は無理でも、また明日あの子に会えば良いだけの事。
私は落ち着きを取り戻そうとして、一旦抵抗するのをやめた。すると、ノクタはもぞもぞと私のコートの中へ手を突っ込んできた。余りの事に私は大声で叫ぶけれど、ノクタは構わず私の身体に手を這わせる。
「やめてよ! やめて!」
ノクタが何か言うけれど、全て私の叫び声で掻き消される。無茶苦茶に暴れ回っても、ノクタは離そうとしない。私が半ば諦めかけた時、唐突にノクタの力が弱まった。私はその隙に前へつんのめるようにしてノクタから離れる。
何故彼が急に拘束を解いたのか気になり、体勢を崩しながらも彼の方を見る。
「なんだよ、こいつ……。」
ノクタは目を見開き、私の頭上を見ていた。いつもへらへらと笑っている彼が脂汗を流して、身動き一つとれずにいる。視線が私に向いていない事に気付き、はっとして後ろを向く。
そこには無言で佇む“それ”がいた。両腕をだらんと力無く下げて、じっと私達を見つめる“それ”の目からは何の感情も読み取れない。
「なんでここにいるの?」
そう呟くと、“それ”はいつものように子犬みたいなか細い声を上げた。決して獅子や虎のように他者を威圧するような咆哮でもないのに、ノクタはそれを聞いて数歩後退った。そして、今度は彼が叫び声を上げて、逃げ出した。獣に襲われた兎みたいに全速力で雪の中を走り、躓きながらも木や岩を避けて、村の方へと駆けて行った。
そんな彼の姿が見えなくなってから、私は“それ”に近付く。
「なんで隠れていなかったの?」
私の問いに、“それ”は目を瞬かせて沈黙する。
「別に怒っている訳じゃないのよ。あなたのおかげで助かったんだから。」
そう言って腕を広げるけれど、“それ”は動かない。いつもならすぐにハグしてくるのにと、不思議に思った私は、先程の出来事を思い出し、“それ”に笑顔を向けた。
「大丈夫。あなたなら抱き付いてきても嫌がらないから。」
私がその巨体に腕を回すと、漸く“それ”も私の背中に手を回した。
森は静けさを取り戻し、冷たい風が吹く。暫くそのまま“それ”の温もりを感じていた私は、そっと身体を離し、“それ”を隠れ家へ向け誘導し始める。ノクタが逃げて行った方向を見ても、彼が戻ってくる気配がないので、私は一直線に洞へ向かうことにした。
今頃彼が村で騒いでいるかもしれないけれど、それならそれで構わない。悪魔が出たという噂があろうが、オオカミ少年として名高い彼が何を言っても、信用されないことぐらい目に見えている。むしろ、今あった事をそのまま話せば、山に何しに行っていたか問い詰められるばかりか、変な薬に手を出していないか疑われてしまうだろう。泣き喚きながら、山羊のお化けが出たと訴える彼の姿を想像すると、滑稽でならなかった。
「散歩も良いけれど、人に見つかっては駄目でしょ。」
“それ”の手を引き、微笑む。“それ”が何故洞から出てきたのか、私は全く気にしていなかった。でも、それが私の過ちであり、罪であることをこの時はまだ自覚していなかった。
随分と時間を掛けて、洞まで戻ってくることが出来た。その道中は、私が“それ”に一方的に話すばかりで、“それ”は一鳴きすらしなかった。黙って私に付いてきて、勝手に洞の中に潜り込んだ。前と同じように腹這いになり、頭だけをこちらに向ける。
「そこは落ち着く?」
ニコニコと洞の中の“それ”を眺める。“それ”は私の言葉に全く反応を示さず、ただじっと見つめ返す。
「あはは、やっぱり何言ってるのかわかんないかぁ……。」
私は近くの岩の上に腰掛け、笑うのをやめる。
「そうだよね。わかんないよね。」
そう言って膝を抱え、顔を伏せる。風が吹きつける音だけがして、森の中は静かだ。顔を上げ、つい数日前までは色取り取りに化粧していた地面を見遣る。均等に降り積もった雪が、日の光を反射して白く輝いている。あの日の景色を白く塗り替えられ、まるで別の場所へ来てしまったようだ。それ程に様変わりしたこの場所を見渡し、雪に覆われた向かいの山に視線を止める。
「私ね、この村を出るの。伯母さん達にそうお願いしたわ。」
目を閉じ、あの日の晩を思い返す。まだ後悔の念が消えず、胸が締め付けられる感覚を覚える。
「町に行けば、何でもあるわ。仕事も遊びも家も美味しい物も綺麗な洋服も……もしかすると家族も。幸せになる為に必要なものがきっと揃っているわ。」
瞼の裏に町での新しい生活を思い描く。絵空事だとしても、今一時だけ生まれ変わった私を夢見ていたかった。
「あなたと会えなくなる訳じゃないの。ただ今までよりも会う回数が減るだけ。必ず会いに来るから、あなたを見捨てたりはしないから……。」
うっすらと開けた眼は、黒い獣の姿を捉える。怒るでも悲しむでもないその生き物に、私は残酷な笑みを向ける。どうしたら良いかわからない。それが本心だったけれど、何か良い方法が見つかるまでは、こうやって隠れて会い続ける他ない。私が町へ行き、大人になれば良い解決策を見出せるだろうか。この子と幸せに暮らせる方法を。
「そうだ、私、山入らずの儀に参加できることになったのよ。」
“それ”が話を聞いていないにも関わらず、私は場の雰囲気が重苦しくなったのを理由に、話題を変えた。一際明るい声を出し、大仰に雪の上を歩く。
「前に話していた儀式を、こそこそ隠れずに見ることが――ううん、私が先頭に立って、儀式を取り仕切ることができるのよ。」
私は葉が完全に落ち切った木の枝を掴むと、その枝を手折った。
「山の枝を持って、積もった雪の表面をこうやって払うの。」
手にした枝を右手で持ち、左へ払い、次に右へ払う。そうやって自分でつけた足跡を消した。
「祝詞を唱えながら足跡を消して、誰も山に入っていませんよっていう証拠にするの。私を先頭に山の要所要所でこの儀式をしていくのが、山入らずの儀よ。儀式の間は誰も私より先を歩いてはいけないし、私が通った所以外に足を踏み入れてはいけないの。」
枝を持ち直し、洞の方へ向く。いつの間にか“それ”は目を閉じ、すやすやと寝息を立てていた。私は呆気に取られたけれど、元々言葉を理解出来ないのだから、起きていても寝ていても同じだと考え直した。
「本番では枝を真っ赤に染めるの。朱色は西洋東洋問わず魔除けの色だからね。枝を手で折るのも、山の神様との縁を刃物で断ち切ってしまわないようにするため。この儀式は一つ一つにとても大切な意味があるのよ。」
今話した内容は全て、先生の著書に書かれていたことだ。多分、この村の人でさえ、忘れてしまった事実。
私は寝ている“それ”に歩み寄り、その頭を優しく撫でた。
村を去る前にこの儀式に参加できることは、本当に幸運だと思う。エミリーには感謝の言葉しかない。村を離れる決断をする前後に、村での良い思い出ができるというのは何か皮肉めいていて、自嘲するかのように苦笑いをしてしまう。この幸運が続いて、町に行っても上手くやれれば良いのだけれど。
「今日はありがとうね。」
“それ”の頭に抱き付き、お礼とお別れのハグをする。呼吸でゆっくり上下する“それ”の頭に揺られながら、“それ”の未来について考える。一年後、十年後、この子はどうなっているのだろうと。
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