枝を手折り雪を払う

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 紅葉の見頃を過ぎ、本格的に寒くなり始めるこの時期、村は冬に向け、薪や食糧の備蓄、壁の補修等の冬支度に追われている。私はその様子を山へ入る坂の上から眺める。  本当に小さな村。教会のステンドグラスが朝日を受けて輝いている。村の中で見栄えのするものといえば、それぐらい。村の大きな建物は、その教会と村民共有の備蓄倉庫だけ。他の建物はドングリの背比べだ。赤煉瓦(あかれんが)造りの倉庫の方が、民家よりも大きいという滑稽(こっけい)さ。でも、この倉庫が無いと、この村は冬を越せない。林業と狩猟で生計が成り立っているこの村は、雪が降ると家の中に籠もり、冬の間、外で村人の姿を見ることはほぼ無くなる。だから、皆せっせと朝早くから冬支度に余念がない。  鉈で木を割る軽快な音を聞きながら私は坂を登る。この先は木こりか猟師しか入らない。子供達は村の反対側の麓の町に近い林でしか遊んではいけないことになっている。だから、今私は遠ざかっていく村の家々を一人で眺めながら歩いている。村の雰囲気は好きではないけれど、この坂から見える景色は好きだった。程よく人と山とが共存する風景。麓の町が小さく見え、その手前に川が流れ、背の低い木々の間を細い道が蛇のように曲がりくねって私の村まで続いている。向かいの山はまだ大分赤い所が残っているけれど、こちらの山はもう葉が残っている所が少ない。崖から落ちないように気を付けて、坂道の端を歩く。木々にその景色を(さえぎ)られるまで、私はそうやって横を向いたまま山へ入っていった。石畳から砂利(じゃり)へ、砂利から土へ、土から最早(もはや)道とは呼べない獣道へと進んでいく。本当は獣と間違えて撃たれてしまわないように、子供は、いや、猟師と木こり以外は山へ入ってはいけないのだけれど、私は構わず目的の大木を目指す。途中、川の水を飲む鹿の親子に出会ったり、茂みの中から熱い視線を送る兎を見つけたり、落ち葉に潜り込む栗鼠(りす)を眺めたりして、道中を楽しんだ。ここはまだ猟師のおじさん達が猟をするほど、森の奥深くではないはずだ。  私は周囲を注意深く見て、人がいないことを確かめる。ここから先は人に見られてはいけない。なぜなら“それ”が待っているから。 “それ”は大木に開いた大きな洞の中に座っていた。昨日と同じように膝を抱え、できる限り背を丸め、目立たないようにしている。 「大丈夫? 何もなかった?」  私が笑顔で近付くと“それ”は目玉だけを動かし、私の姿を捉えた後、何度か(またた)きをした。私の声に反応はしているけれど、返事はしない。 「ちゃんと隠れていたのね。偉い偉い。」  子供が小動物を可愛がるように“それ”の頭を優しく撫でる。“それ”は身動き一つせず、じっと撫でられるままにしている。  私の目の前にいる“それ”が何なのか、こうやって接している私自身もよくわからない。  山羊の頭に、狼の尻尾、首周りにはまるでマフラーをしているかのように長い毛がびっしり生えている。腕は猿のように細長く、胴と脚は熊の如く太く大きい。腕には鳥の羽のようなものが生えているけれど、空を飛べるほど大きくはなく、羽根飾りのようにしか見えない。全身黒い毛に覆われ、手足の先だけ人間のそれと酷似していて、浅黒い肌がてらてらと奇妙な光を放っている。一見すれば、そういった着ぐるみにも見えなくはないけれど、呼吸に合わせて上下する胸や、どくどくと脈打つ血管が一個の生物であることをはっきりと主張していた。  何処から来たかわからない得体の知れない者。  人はおそらく“それ”を悪魔だとか、化け物だとかそういった言葉で表現するだろう。けれど、私は全く恐くなかった。むしろ、“それ”の方が私を見て、ひどく怯えているようにさえ見えた。 「ほら、どんぐり持って来たよ。たんとお食べ。」  スカートのポケットからどんぐりを取り出して見せると、“それ”は少し嬉しそうに手を伸ばした。二つ三つ手に取り、口元に運び、ゆっくりと咀嚼(そしゃく)する。私はその様子を見て、安心する。色々な食べ物をここへ持ってきたけれど、どうやらこの子は木の実や果実しか口にしないみたいだ。 「今日は新しい包帯を持って来たから、交換しようね。」  “それ”がどんぐりに夢中になっている間に、右のふくらはぎ辺りに巻かれた包帯をスルスルと解く。もう傷口は塞がっているみたいだ。 この子と初めて出会った時、この子は小川のそばで(うずくま)っていた。何にやられたのかわからないけれど、脚から大量の血を流し動けずにいたところを、一人で散策していた私が偶然見つけてしまった。“それ”の姿を見た時、私は余りの恐ろしさに叫び声を上げ、その場から動けなくなってしまった。恐怖で足がすくみ、硬直してしまった私とは反対に、私の声に驚いた“それ”は、傷ついた脚を引き摺りながら子犬のような情けない鳴き声を出して逃げようとした。必死に私から逃げようとする“それ”を見て、私は“それ”が生きた獣の類であり、自分に危害を加えるような存在ではない事を感じ取った。だから、私は“それ”に近付き、今度は優しく声を掛けると、偶々持ち合わせていた包帯で応急処置を施し、怯える“それ”を丁寧にあやした。それ以降、何度か“それ”の元に訪れ、まるで愛玩動物(ペット)を可愛がるように世話をしてあげている。 「お前も捨てられたの?」 傷付いたこの子を憐れんだわけじゃない。独りぼっちのこの子を勝手に仲間だと思い込み、私が一方的に“それ”に会いに来ているのだ。言葉を話せない“それ”は、私にとって格好の話し相手だった。  幼い頃、母親に捨てられ、子供のいない伯母夫婦に引き取られたけれど、伯父は母のことを嫌っているらしく、必然的に子供の私にも冷たく当たった。捨て子の噂は瞬く間に知れ渡り、村の人皆、私とは距離を置いて接する。だから、山の中で同じように独りぼっちだったこの子と友達になったのだ。いや、友達ではないかもしれない。“それ”は私が話し掛けても、身体を撫でても、特に反応を示さなかった。ただ、私の事を目で追ったり、持って来た物を食べたりはしているようだった。手を引けば、二本足で立ち、私の後を付いてきたりもした。決して抵抗しようとしない都合の良い存在。自身よりも弱い者を見つけた私は、優越感に浸っていた。 「もう包帯はいらないかもしれないね。」  血で汚れた包帯を片付けていると、“それ”はどんぐりを一つ取りこぼしてしまう。落ちて転がっていくどんぐりを拾おうとした“それ”は、手を伸ばした先に栗鼠がいることに気付き、すぐに手を引っ込める。立ち上がれば二メートルを軽く超える巨体なのに、自身の十分の一ほどしかない小動物に驚いている。栗鼠はその一瞬の隙に落ちたどんぐりを奪い、茂みの中に逃げていった。がさがさと葉が擦れる音が遠ざかっていく。呆然とその様子を見ている“それ”の頭を、私は優しく撫でる。 「大丈夫だよ。まだあるからね。」  正直、私がしている事は最低だと思う。弱者に優しくして、自分が立派な人間であるかのように錯覚しているのだ。極力その事は考えないようにして、“それ”と接している。(たと)え偽善であっても、この子を守りたいという気持ちに嘘はないから。  私の記憶にある母親の最後の姿は、決して良いものではなかった。伯母夫婦の家の前で幼い私に平手打ちをした母の姿を、今でも鮮明に覚えている。鬼の形相で「ついてくるな」と言い放ったあの人を、私は許せなかった。伯母は仕様がなかったのだと言うけれど、子供を捨てた事に何ら変わりはなかった。 私はあの人とは違う。この子を見捨てたりしない。絶対傷付けたりしない。そう心に誓い、村人の目を盗んで、この子に会いに来ていた。でも、それも難しくなるかもしれない。私は不安を抱えていた。これから先、将来の事を。いつまで隠し通せるだろうか。私が考え事に耽っていると、“それ”は私のコートを引っ張り、どんぐりを強請(ねだ)ってきた。 「今日はこれでおしまいだよ。」  そう言って、“それ”の手にどんぐりを握らせた。“それ”は首を傾げた後、私を見つめて、再度コートの袖を引いた。どうやらもっとくれと催促しているみたいだ。私の言っている事を理解しているわけではないようで、時折こうやって私を困らせることがある。私はポケットの裏地を見せ、ポケットの中が空であることを強調した。そこまでして、ようやっとどんぐりがないことを理解した“それ”は、短く鳴いてから残りのどんぐりを口にした。  “それ”がどんぐりを食べ終わるのを待たずに、私は“それ”の前に立ち、一人で話し始めた。 「最近寒くなってきたでしょ。赤い葉が落ちて、夜が長くなって……もうすぐ沢山の雪が降って、冬になるわ。冬が来たら、動物は皆冬眠して、村の人達は家に籠りきりになる。そうなれば、貴方はこんなこそこそ隠れる必要もなくなって、自由に山の中を歩き回れるの。」  私は両手を広げて八の字を描くようにして歩き回る。 「冬の間だけだけれど、二人で自由に山を散策できるし、ゆっくりお話しすることもできる。ちゃんと食べ物も持ってきてあげるから。だから、山入(やまい)らずの儀まで我慢してね。」  私は歩き回るのをやめ、座ったままの“それ”の頭を包み込むように抱き締める。“それ”もそれに応えるように私の背中に手を回す。いつもお別れする前にこうやって抱き締めてあげている。“それ”もこれが何の合図なのか察し始めているのか、抱擁(ほうよう)の後、名残惜しそうに私の頬を撫で、そのまま私の栗色の髪を()くように弧を描いて手を離していく。私も“それ”の濡れた鼻先を二、三度撫でてから距離を取る。 「人間に気を付けるんだよ。」  笑顔で手を振るけれど、“それ”は私の事をじっと見ているだけで、手を振ったり、立ち上がったりはしない。いつもの事だ。それでも、私は構わない。私は知っているから。私の姿が見えなくなった後、“それ”が寂しそうに鳴いているのを、知っているから。
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