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「いざ……それでは、行って来ます!」
「いってらっしゃい」
「今日の晩御飯はっ」
「カツ丼でしょ?」
「はいっ! 宜しくお願いします!」
この人、受験の時とかもこんな感じだったのかな。あと試合の前とか? っていうか、この人、学生の時は何部だったんだろう。野球、サッカー、バスケは……なさそう。文芸部とか? アニ研? 文化部系? いや、むしろ、弓道辺りとか、エロそうじゃない?
――あっ、そんなっ、ダメです、部長!
みたいな不埒なことを道着姿で……してたら、ヤキモチで蒸発しそうなんですけど。無理なんですけど。
「頑張ってきますね! 保さん!」
っていうか、この人、童貞処女の、どなたともお付き合いしたことない人だったじゃん。あ、ダメです部長的なの皆無だったじゃん。それなのにけっこう鮮明に再現してしまう自分の妄想力がすごすぎてびっくりするんだけど。
「あ、うん。いってらっしゃい」
「ふがっ」
鼻息荒すぎて、返事が豚さんみたいになった慶登がパンフレットを詰め込んだリュックを背負って、一歩一歩と駅へと向かって行く。その後姿をふんわりと、のんびりと見送った。
なんか、山に柴狩りにいくおじいさんみたいになってる、なんて思いながら。
「さて、スマイル、今日の散歩は俺と二人だよ」
「わん!」
「慶登と三人では明日な」
「わおん!」
日本語、もしかしてわかってる? なんて思えてしまうくらい会話のようなものを交わして、俺とスマイルはいつも散歩コースへと歩き出す。
慶登が向かう旅行代理店のある駅までは歩道は広いけれど、けっこう人通りが激しくて車の行き来も多い。
いつもの散歩コースはそれとは逆方向でのんびりとした団地の脇を通り、公園の回りをぐるりと歩ける静かな道のりだ。
――お夕飯は! カツ丼で!
ただ旅行の予約をするだけで、めちゃくちゃ意気込んでいたあの人を思い浮かべては、つい口元を緩めつつ、ゆっくり、ゆっくり歩いてた。
カツ丼をリクエストしたのはたぶん予約を勝ち取るため、だったんだろう。
景気付けみたいな? 二人で選んだ宿は大きなホテルだったんだけどさ、これがさ。
――うが!
そんな可笑しな声を出して、パンフレットを握り締めたまま、プルプル震えだしたからどうかしたのかと思った。お化けに身体を乗っ取られたとか、UFOに連れ去られそうなのかとか。
――まさかの! ヒーローマン!
そう叫んでそのパンフレットを高く高く掲げるまでは。
そう、慶登が「ここだぁぁ!」と雄叫びを上げるほど気合を入れて指差した大きなホテル。そこでは、慶登がぞっこんなヒーローマンとのコラボがあるらしい。特別ヒーローマン抱き枕にヒーローマンベッド、ヒーローマンボイスのアラームに、ヒーローマンの目のとこが光る照明などなどなど、若干ありえないコラボ感のあるヒーローマンルームがこの夏限定で出るらしい。俺と慶登が初デートで見た映画が大ヒットしたおかげで第二弾の劇場版が決定したばかりだったから、その宣伝も兼ねた夏のイベントの一つ。
で、本日仕事の後、その部屋以外はないと意気揚々と柴狩りのおじいちゃんみたいにパンフレットを背負いつつ、出かけていった。
「……」
出かけていった……んだけど。
「……取れ……ませんでした……」
燃え尽きた慶登が帰って来た。
「もう埋まっちゃってるんだそうです……」
柴狩りのおじいちゃんは手ぶらで帰ってきてしまった。予約はすでに満杯。夏休み中どころかコラボ期間全て埋まってしまっているらしい。実は、俺はそんなにびっしり予約が埋まってるなんて思っていなかったりしたんだ。けっこう取れちゃうだろうなぁ、抱き枕かぁ、夜、やりにくいなぁなんてことまで心配してたりしたんだけど。
もとから華奢で細いのに項垂れるから余計に華奢になってしまった。行きはむしろボディビルダーみたいに胸を張っていたのに。サラサラで抱き締めるとふわふわな肩をこれでもかと窄めて。
「あー……そっかぁ……」
「…………」
そら、項垂れもするか。
初デートでの等身大パネルを見つけた時の明るい笑顔とか……ね。
「でも! どこかの誰かがヒーローマンを抱っこしながら眠れて、嬉しいのなら、僕はっ、本望です!」
やっぱり抱っこして寝たかったのね……むしろ、ごめん、予約埋まっててくれてありがとう。
「いいんです! 僕は、保さんと海に行ければそれで!」
「そ?」
「もちろんです!」
少し、鼻水見えてるけど、まさかの可愛い悔し泣き姿を見せてくれたことに、予約いっぱいなヒーローマンコラボルームに感謝しつつ、俺と慶登はカツ丼を平らげることにした。
でも、俺たちは夏の海を舐めてたのかもしれない。
「あ! ここなんかどうでしょう」
「あ、いいね……って、無理だ、埋まってる」
「うーん」
「じゃあ、ここは? けっこう良さそうじゃない? って、ここも埋まってた」
「はわー……」
残念。さて、また次を……でも次の宿も満杯だった。
「うー……」
二人してテーブルに置いたタブレットを覗き込んで唸っていた。
けっこう早いんだな。海の宿泊予約って。良さそうなところはほぼ満室になってた。あとはちょっと微妙な民宿とか。
「でもまぁ、ビジネスホテルで晩飯だけ外でもいいしね」
「あ、はい。僕は全然それでも」
「本当に?」
「もちろんですっ。僕は保さんと一緒ならどこでも」
「そ?」
ふわりと笑って、はにかんで、それがまたくすぐったい。
「慶登……」
「は、ぃ……」
くすぐったくて、思わずキスをした。名前を呼んで素直に顔を上げる慶登の唇に唇を重ねて。早く予約しないと、どんどん空室は埋まっていってしまうんだけど、くすぐったくなってしまったせいで、キスを優先させたくてたまらなくなる。
「ンっ、保、さん」
慶登の甘いとこ、舐めてキスしたいなぁなんて。
――ブブブブ。
その時、テーブルの上に置いておいたスマホが鈍い音を立てて振動した。慶登のだ。
「ぁ、兄だ……すみません」
画面を覗き込んで、兄からの電話に、ぺこりと頭を下げて通話ボタンを押した。
「もしもし?」
兄がいるって言ってたっけ。先生をしてるって。高校の、だったはず。
「うん、元気だよ? 郁登は? ……うん。そうなんだ。へぇ……うん。…………」
なんだろう。なんか急に黙ったんだけど。途中まで和やかな感じで話してたのに。
「…………えっ!」
初めて聞く、慶登の低い声の「えっ」っていう驚愕の声に、背後で静かに待機していた俺は密かに身構えてしまった。何? なにか言われたとか? その、ほら、同棲っていうか、同居っていうか、そういうのをお兄さんに。
「う……ん、わかった」
わかったの? 何が? 反対されたとかを?
「うん。伝えとく」
俺に? 何を?
「うん。宜しくお願いしますって、あ、でも、僕も確認してから、うん」
だから、何をっ!
「……」
そして電話を切った慶登が。
「あのっ!」
くるりと振り返ったら、フワフワ猫っ毛がぴょんと跳ねた。
「海、行けることになりました!」
そう言って、また、ぴょんと跳ねた。
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