兄と旅行編 5 恋ってやつは

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 まさか、慶登の兄、郁登さんも恋人が男とは思わなかった。慶登も驚いてたな。モテたらしい。たまに彼女さんを連れて来てたって、猫っ毛をほわほわ揺らしながら教えてくれた。  どこをどうしてそうなったんだって。  問われて、郁登さんは楽しそうに笑っていた。大きな口を開けて爽快な笑い声を上げて、小麦色の肌をまた焦がしそうな日差しの中で。  宿はその郁登さんの恋人、健人さんの親族が経営する明後日オープンの旅館だった。今日泊まりに来ているのは懇意にしている取引先や、親類のみ。プレオープンだから、急遽でも俺たちにも一部屋提供してもらえるらしい。夏のオンシーズンにオープンが食い込んだのは、悪天候が続いたとかで建設予定が狂ってしまったせいらしい。  とにかく、ラッキーだ。  旅館は海からも近くて、ゆったりと着替えてから、そのまま海へも行けるし。 「あ、あ、あ……ンっ、んんんっ、入りました?」 「まだ」 「は、は、早く入れてくださいっもう無理ですっ」 「頑張って」 「や、もう早く、入れてぇっ」 「じゃあ、ちゃんと指で広げないと」 「んんんーやってますっ」 「まだ、それじゃ全然だよ。もっと指で広げて」 「んーっ!」 「それじゃ、入らないよ」  コンタクト。 「うぎゃああああああ、怖いいいいい」  いや、怖いのこっちだから。めちゃくちゃ怖いから。目玉ひん剥いて恋人が叫んでるとかさ。 「……慶登」 「ふゃい」 「おでこ」 「ほえ? ひゃわっ」 「はい。入った」  優しく名前を呼んで、つるんとした額にいつもみたいにキスをする仕草をして仕掛ければ、自然と慶登の視線が俺を追いかけるんだ。キスが好きな慶登はよくそうやって俺の唇の行き先を目で追うクセがあるから、その隙をついてコンタクトをちょんと指先で置いた。 「はぁ、終わった」 「はぁぁ……ありがとうございます」  海水浴、眼鏡じゃね。危ないし。前に買ったコンタクトに海に入る間だけは替えておこうってことになったんだけど。  苦手とは言ってたけど。  これ、お店で購入の際に試着するの大変だっただろうな。 「……あれ? 痛くない」 「そう?」  本人は目玉を触るということが怖くて怖くて、一回それをやってるからか余計に怖いらしくて、なかなかできずにいた。助けてと言われたら、もう仕方ないでしょ。で、さっきのすったもんだに至る。 「前につけた時は痛くて大変だったんです。それに……その」  俺が前に付き合っていただろう恋人と一緒にいるところをその付けて、目がゴロゴロと痛い中で見つけてしまって、余計に痛みが増したと泣いていたっけ。 「なので、すぐに無理やり擦って取ったんです。って、あ! これ! 外すもの大変なんじゃっ」 「……そこは頑張って」 「えぇぇぇ! そんな、ご無体な!」 「いや、普通、コンタクトを人に付けてもらう人っていないからっ」 「そんなぁ、あ、あ、あ」 「っぷ、あははは。慶登、よかったな」 「ほぇ?」  先に着替えを終えて、更衣室を後にしたはずの郁登さんが、コンタクトに四苦八苦している俺たちの様子を伺っていた。目に涙を浮かべて笑いながら。 「郁兄?」 「なんでもないよ。ほら、もういけるんだろ? 海行こう」 「うん。あ、待って!」 「?」  慶登が白い掌をパッと広げて、ストップをかけてから、慌てて更衣室の奥、自分の着替えを置いてある辺りへと駆け戻った。そして戻ってきたその肩には大きな浮き輪に、すでに顔にはシュノーケルを装着してた。 「っぷ、あははははは、慶登、早すぎ」 「ふぐっ」  そんなことはない。すぐ目の前が海なのだから、とでも言いたそうな顔がシュノーケルから伺えた。  本当に目の前が海なんだ。旅館の前に歩道があって、夏らしいブーゲンビリアが並んで咲いている。そのブーゲンビリアを通り抜けるとすぐそこが砂浜だ。  そして、慶登は相変わらずシュノーケルをつけたまま、体育の水泳と同じように、しっかり真面目に準備運動を始めた。 「ふぐっ……っぷは、郁兄もラッシュガード着てる。海入らないの?」 「あー、入るよ?」  水泳部の顧問だっけ? もうすでに小麦色に日焼けしていて、日焼け防止のラッシュガードは必要なさそうなのにと不思議な顔をした。慶登はもちろんラッシュガードを着ている。初の海だ! と、二人で買いに行った水着に合わせたんだ。  その時も、自分の中で初の海旅行に思い描いていた夢があったんだろう。すごく不似合いなアロハ柄のヤンチャそうな雰囲気の水着を選んでたっけ。結局シンプルな無地のにしたんだけど。 「そのまま?」 「あー……そのまま」 「そっか。僕もっ! よおーし! 入るぞー!」  郁登さんがちらりと、俺の背後に視線を向けた。健人さんのほう。そして、小さく眉をひそめた。健人さんは朗らかな笑顔を向けている。  たぶん、そういうこと。  恋人の素肌はあまり見せたくないっていうか、ね。 「保、さああああああん!」  ――じゃあ、保さんも! ラッシュガード着ててください! 僕のほうが見せたくないんですから! 保さんの腹筋とか見せたくないんですから! すごいヤなんですからっ!  お互い、そんなわけでラッシュガードは着たままだ。 「お互い、面白いですよね」 「え?」  なんか、不思議な人だな。ふわりとした雰囲気に、ゆっくりとした口調、低い声。この人が郁登さんの……。  その郁登さんがこっちへ大きく手を振った。それに答えるように、この人が軽く手を挙げる。 「男の裸なんて、別に見ても面白いもんじゃないのに」 「……」 「あの人の裸は誰にも見せたくないとか思うんですよね」 「……」 「キスマーク、付けたら、止まらなくなっちゃって、怒られました」  そういうことを柔らかい口調で言って、くすりと笑った。 「水泳部の顧問だから、普段は気をつけてるんですけどね」  やっぱり不思議な人だった。  プールサイドでまったりとした時間を過ごすインテリっぽいこの人が、あの郁登さんの素肌を見せたくないとキスマークをくっつけて怒られてるなんて。 「浮かれた」  恋ってやつは、不思議だ。 「保さんっ!」 「慶登」  いつまで待っても海に来ないからと、慶登が迎えに来てくれた。シュノーケルに浮き輪の本気海水浴スタイルで仁王立ちされると、なんかもう面白くて、可笑しくて、可愛くて。 「行きますよっ!」  そんな慶登に引っ張られてるまま、その場でサンダルを脱ぐと砂の熱さに少し踊るように歩を早める。振り返って、お先に、と健人さんに会釈をするとやっぱり優雅に笑っていた。  まだ昼だからか波は穏やかだった。ちょっと冷たくて、腰の辺りまで入ると、その冷たさに少し身じろぎそうになる。 「はい。そしたら、これをっ保さんがっ」 「浮き輪? いいよ。慶登が」  慶登がしてなよ。この人、小柄だからそれこそ波にあっという間にさらわれそうだし。 「僕、兄が水泳の先生ですよ? 泳ぎなら得、ふぐ、ふぐぐぐっぐっ」  得意なんですって言いたかったんだろう。でも途中からシュノーケルをしたからよくわからなかった。そして、慶登はその場で海にとぷんと潜ってしまった。と、思った次の瞬間。 「ぶはっ!」 「慶、いたっ、イタタタ、いたっ」  浮き輪をくぐって中に侵入してきた慶登のシュノーケルの先が思いっきり俺の顎に直撃して、刺さってるし、わちゃわちゃだし。もう、なんというかさ。 「えへへへ、これならキスしても、誰にも見えないと思うんです」  そう言って、日差しのせいなのか、頬を赤くした慶登が俺にキスをした。大きな浮き輪の内側にこっそりと二人で隠れながら、そっと口付ける。 「えへへ」  シュノーケル、痛いし、潜ってきたせいで、柔らかい猫っ毛ばべたんと頭に張り付いてる。すごく可笑しいのに、やっぱりたまらなく可愛くしか見えなくてさ。 「……慶登」  あぁ、ホント、恋ってやつは――そう思いながら、俺もこっそりと慶登にキスをした。
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