言えない言葉

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 お母さんが彼氏と旅行に行ったらしい。大体、リビングのテーブルに食事代が置かれているのだけど、今回も置かれていなかった。私、どうやってご飯食べたらいいんだろうと思ったけど、こつこつ貯めていた今までのお釣りを使えばいい。でも、それも多いわけじゃないから、高校の昼食代に使っているとあっという間に底をついてしまう。  節約しなければいけない。  授業が終わって放課後、もやしを二袋買って焼いて食べた。美味しかった。  それから、納豆とかもやしとかで空腹を満たす日々だった。  でも、もう限界だった。家にあった米はもうない。お釣りはもう十円もない。食べるものがなかった。空腹でお腹がなったのは高校の授業中だった。普段だったら恥ずかしくて赤面していたけど、そんな余裕も、もうなかった。 「今の誰……」 「お腹の音だよね、デカすぎない?」  小声で話すクラスメイト。  頭がふらふらする。何かが胸の奥に溜まっているような気持ち悪さ。吐き気はしなかった。  私は勢いよく机に突っ伏して、意識はストンと落ちてしまった。  物心ついたときからお父さんはいなくて、いたのはお母さんの彼氏だった。  私はお母さんが彼氏さんと家で一緒にいるのを見たくなかったけど、そんなこと言えるはずがない。知ってるんだ。お母さんが好きなのは、私じゃなくて、彼氏さんだということ。  お母さんの目に私が映ることはない。生まれてしまったから、育ててくれているだけ。  それはわかってるけど、認めたくない事実だ。  クリーム色のカーテンに消毒液の匂い、身体を包み込むやわらかい布団、保健室のベットで眠っていたみたい。自分で歩いてきた記憶はないので、誰かがここまで運んでくれたのだろう。身体を起こそうとすると布団が音をたてた。ノートに何かを書き込んでいた保健室の中尾先生は気づいて振り向く。 「お、起きたか」  先生は覗き込むように腰を屈めるとおでこに手を当ててきた。先生の手はひんやり冷たくて気持ちいいけど、熱は出ていないと思う。ただ単にお腹が空きすぎて、体のバランスが壊れているんだろう。  「熱じゃないよな……」と不思議そうな先生に、食べるものがなくてこうなりました、なんて言えない。どうしたらいいのかわからなくて無言になった。  先生も私も話さない。にらみ合いじゃないけど、どっちが先に話すかみたいな状況になった。  この状況はずっとは続かなかった。ぐうっと私のお腹がなってしまったから。 「お腹空いてるのか。ちょっと待ってな」  ごそごそと鞄から何かを取り出す先生。取り出したのはパンだった。それはコンビニで売っているようなあんパンで、久しぶりのご飯だった。  かぶりつく、とにかく噛んで胃の中に入れる。 「まだあるからそんなに急ぐな。パンは逃げないぞ」  パンの塊が、喉につっかえたりするけど満たされた感覚がして、無我夢中で食べていた。  先生には、お母さんが家にいなくてご飯が食べれていないということは言わなかった。  でも、バレているかもしれないな。他のパンもくれたから。  もらったパンを鞄にしまって授業を早退して、家に帰ると玄関には女物の靴と男物の靴が一足あった。  音をたてないように靴を脱いで、恐る恐るリビングを覗き込む。 「誰もいない……?」  いや、お酒臭いということは……。  そう、机に隠れて見えていなかっただけで彼氏さんはいた。  彼氏さんはソファに寝転んでいて、体を起こしたときに目が合ってしまった。 「……あ」  こっち来い、と手招きされる。  近寄りたくなかったし、関わりたくもなかった。でも、ぐずぐずしていると殴られてしまうから。そうして、彼氏さんに酒とつまみを持ってくるように言われて、探したけど見つからなかった。冷蔵庫にもないし、もうないんじゃないかなって思ったときだった。 「おい」  彼氏さんはいつのまにかすぐそばに立って私を見下ろしていた。ひっ、と喉が引き攣る。手首をぎりっと握られて痛い。何の感情も読み取れない怖い目がじっと私をを見ている。  頬を張られて冷蔵庫に勢いよく背中を打ちつけた。身を隠すように体を縮めて蹲る。そんなことをするよりも逃げるべきだとわかっていたけど、動けない。痛いし、怖い、怖くてたまらない。逃げたい。彼氏さんの口はパクパクと 開閉しているけど、私には声が聞こえない。  最近、こういうふうに聞こえないことが多かった。  振り下ろされる拳に目を瞑る。 「ちょっと何してるの?」  覚悟していた痛みは来なかった。  目を開けて、彼氏さんの視線をたどるとお母さんが扉に片手をかけたまま、不思議そうに彼氏さんを見ていた。寝間着を身に纏い、お風呂に入っていたのか、少し髪が湿っているように見える。 「ねえ、そろそろ寝ましょう?」  お母さんはそう言って、彼氏さんが振り下ろそうとしていた手を握ると体を引き寄せた。何かを耳元で囁く。彼氏さんは何度か頷いて、「ああ」と言ってお母さんと一緒に二階の寝室に行ってしまった。  ぽつんと、一人リビングに残されて、まるで胸に穴が開いたようだった。それはじくじくと痛み出した。泣いたってどうにもならないのに、頬のひりひりとした痛みよりも痛くて我慢ができなかった。とめどなく涙が流れた。  一年生から二年生になって、クラスメイトが変わって、担任の先生も変わった。  解散して教室を出ていく生徒が多い中、私は話し合いで決まったことのメモを確認しながら、ため息を吐く。  一年生のときも大変な委員にはならないように注意していたのに、新任の先生に指定されて文化祭実行委員になってしまった。それは私が文化祭ではある程度のクラスのリーダー的なやりとりをしないといけないということを示している。  家に帰るのが遅くなることがあるだろう。お母さんたちは私の心配なんてしないので、いくら遅くなろうが大丈夫だけど、やっぱり居場所がなくても家の自分の部屋に一人でいるのが好きだから、早く帰れるのなら帰りたいのに。  荷物をまとめて帰ろうと、上履きを履き替えていると夕焼けの光が昇降口に差し込んできた。それはオレンジ色の淡い綺麗な光で、靴箱によってできた影の暗さと光が対照的でつかの間、私は見惚れていた。 「おい、松下」  ぽん、と肩を叩かれて、びくりと体が跳ねる。 「え」 「ははは、そんなに驚かなくても」  振り返ると、伊東先輩がいた。  二年生の伊東先輩は、この高校では有名なサッカー部の副部長だ。サッカー部のことを詳しくもない私が先輩のことを知っていたのは、クラスに伊東先輩と同じ部活の人がいて、先輩はいつもお昼に彼を教室に迎えにきていたからだった。  先輩が親しくしているクラスメイトとも接点がない私は、先輩と話すことはなかったはずだったけど、雨の日に傘を持ってきてなくて途方にくれていた私を助けてくれたことがあって話をするようになった。  今日はサッカー部がない日なのかもしれない。先輩は大きな鞄を持っていなくて、肩にスクールバックをかけているだけだ。 「今から帰るのか?」  そう聞かれて、頷いた。 「はい、今から帰るところです。先輩も今から帰るんですか?」 「おう」  にこにこと笑っていた先輩はそう言ったきり、一転して顔を曇らせて黙り込んでしまった。  しばらく待っていたけど、口をモゴモゴさせて黙ったままなので、私から話しかけた。 「どうしたんですか?」 「いや、なんでもない。あのさ……松下が良ければ途中まで一緒に帰らないか?」  なんでもない、なんてそんなわけないと思った。笑っていない先輩の顔を見たのは、初めてだったから。その言葉は信じられるものではなかった。  先輩が家に帰る道と私がいつも帰るときに通っている道は、ちょうど分かれ道になっている。別れて帰ろうとしたとき、先輩に呼び止められた。 「なあ、少し時間あるか」  私はブランコの座る部分の砂を払って腰を下ろす。隣のものには先輩が座った。空は真っ暗だ。もう七時は過ぎてたから、あたりまえだけど。 「それで、話ってなんですか?」 「ああ……」  先輩が話したいことというのは、昇降口で言おうとしていたものだろうか。   足を少しだけ曲げて伸ばすとゆらゆらとブランコが動いた。先輩は頬を掻く仕草をして何かを言いづらそうにしているように見えた。ふう、と息を吐いて口を開く。 「今週の日曜日、空いてるか?」  日曜日か、どこかに行く予定もない。先輩の言う通り空いているけれど、どうしたのだろう。 「急で、悪いんだけど親戚からチケットをもらったんだ。でも、期限が近いのに誘えるようなやつもいなくてさ。松下が良ければ一緒に行きたいなと思って」  なんて言葉を返せばいいのか、私は悩んだ。なんで私なんですかとか、私が断ったらどうするんですかとか気になることはたくさんあったけど、日曜日ずっと自室に籠るより良いと思った。お母さんたちが家で過ごすのかは知らないけど、私がいないほうが過ごしやすいのは間違いないだろう。 「……日曜日空いてます。私も先輩と行きたいです」 「まじで!! じゃあ……」  約束した日曜日は本当に楽しいことばかりだった。  私と先輩はお昼に待ち合わせして、一緒に電車を利用して向かった。  遊園地では、ジェットコースターに乗ったり、観覧車に乗ったり、ホットドックを買って二人で食べた。  思えば、誰かと一緒に食べたのは小学生以来かもしれない。  私はストロベリーチュロスの最後の一口を、口に運びながら思った。 「そういえば、松下って休日は何してるの?」  先輩は先に食べ終わっていて、私のことを待っている。  咀嚼しながら考える。休日か、私はずっと家にいることがほとんどだ。  家にいないときは近くの図書館で勉強をしているか。本屋さんに新刊を見に行くぐらいだ。 「家で本を読んだり、家の近くにある図書館に行って勉強したりとか、ですね……」  家から、ほとんど出ないというのは褒められたものではないだろう。 「へぇ、そっか。確かに松下って読書してるイメージあるよな」 「先輩は何してるんですか?」 「俺? うーん、家族と出掛けることが多いかな」  先輩は照れくさそうに笑った。 「買い物に行ったり、母さんの友達の子供と遊んだりとか。あとは、サッカー部の練習とかだな」  それを聞いて、私は楽しそうだなと思った。先輩は、きっとお母さんに愛されているのだろう。少し羨ましかった。  突然、スマホが着信音と共に震えた。  画面に表示されているのは知らない番号だったけど、先輩に断って出た。 「……はい」 『おい、今すぐ帰ってこい』  電話してきたのは彼氏さんだった。  上着で隠している手首の痣がじーんと傷んだ気がして、慰めるように撫でた。  彼氏さんはビールのおつまみにするのか買って帰ってくるように言ってきたけど、使ったお金は返してくれないのだろう。私、バイトもできてないから、お金をあまり使いたくない。自分に使うならまだしも、なんで彼氏さんに使わなきゃいけないのだろう。ため息を吐く。  時刻は十五時になったばかりだった。まだ先輩と遊んでいたかった。 「先輩、ごめんなさい……」  先輩が待っている席に戻って本当にごめんなさい、と説明したら先輩はきょとんとしていたけど、小さい声でマジかと呟いた。私は帰らないといけないけど、先輩はどうするのだろう。 「じゃあさ、一緒に帰ろう」 「え、いいんですか」  怒られるのだと思っていた。怒らなくてもいい思いはしないだろうと。それなのに、先輩は嫌な顔もせず私に笑いかけた。 「一人でいても楽しくないし、送るよ。だから、次は違うところに遊びに行かない?」  連絡先を交換して、私たちは一緒に遊園地を出た。途中、コンビニに寄って彼氏さんに言われたおつまみを買った。先輩におつまみ好きなの? と聞かれたけど、曖昧にごまかした。おつまみはあまり量がなくても高いものが多い。私はおつまみを食べるより、毎日の食事のほうが大事だから買ったことがなかった。確かに食べてみたいなと思うけど、今は買おうとは思わない。  分かれ道まで来て、いつもは別れて帰っていたけど今回は、送るよと先輩が言ったとおり家まで送られた。家の前まで来ると、もし彼氏さんがでてきたらどうしようとドキドキしたけど、そんなことはなくて、先輩に家庭環境のことを知られることなく無事に終わった。  いや、無事に終わったのは先輩との時間だけだった。  リビングでお酒を飲んでいた彼氏さんにおつまみを渡すと、少ないと怒鳴られた。お母さんは出かけているようで、家には私たちしかいなかった。だから、殴られて顔を腫らしても止めてくれる人は誰もいなかった。  自室で、じくじく痛む目元の腫れを確かめるように触る。唇に指を滑らせると血が付いた。口の中が切れたのか血の味がする。悪いことなんてしてないのに、殴られて蹴られた。彼氏さんに何度、ごめんなさいと言ってもやめてくれなくて、床に押し倒されて殴られた。泣いたってどうにもならないのに、泣いたらもっと殴られるとわかっているのに、涙が止まらなかった。  時々、こういう日がある。お母さんが家にいなくて、機嫌が悪いのか私を痛めつける日。  だから、彼氏さんが怖かった。今までの彼氏さんで、暴力を振るってきたのは今の人が初めてだった。私は運が良かったのだろう。今までの彼氏さんでも殴られたり酷いことをされたかもしれないのに、されていなかったんだから。  財布だけ持って家を飛び出した。  公園のブランコに乗ってゆっくり、ぎこぎこと漕ぐ。何も考えずにぼーっとしていると、つい数日のことを思い出した。ここで先輩に遊園地に誘われたことを。今日は楽しかったけどこんなことになってしまった。せめて明日、殴られるんだったら今日は楽しい気持ちでいられたのに。 「松下?」  聞き覚えのある声に振り向くと、公園の入り口に先輩がいた。目を見開いて、こちらに駆け寄ってくる。 「おい、どうしたんだ! その顔、誰にやられたんだ」  眉をひそめて肩をつかんで、腫れてるところをじーっと見ていた。言いたくなかったけど、言うまで帰ってくれなさそうだ。 「……少し怒らせてしまって殴られました。先輩は何してたんですか?」 「俺は、ランニングってそうじゃなくて!! 大丈夫? いや、大丈夫じゃないよな!」  ケガをしているのは私なのに、先輩があまりにも慌てるので、クスっと笑ってしまった。  先輩には、話してもいいかもと思えた。 「私の話聞いてくれますか?」  先輩は口を引き結んで、こくりと頷く。  私は母子家庭であること。お母さんの彼氏が家に住んでいること。今の彼氏さんに暴力を振るわれることがあることを話した。こんなことを誰かに話すのは初めてで、緊張して嫌な汗をかいた。ところどころ言葉がでなくて黙ってしまったけど、先輩は私が話すまで待っていてくれた。 「どうしたらいいんだろうな……ごめんな、全然力になれなくて」  隣のブランコに座って話を聞いてくれていた先輩の顔は暗かった。力になれないからか心苦しそうな顔だ。でも、私は話を聞いてくれただけで十分だった。 「先輩、話を聞いてくれて本当にありがとうございました」  頭を下げる。  誰にも言えずに我慢していたことを吐き出すことができて、少し胸のつっかえが取れた。 「このことは俺以外の人に言ったことないのか」 「はい、先輩が初めてです」 「あのさ、松下のお母さんとかは彼氏が娘に暴力を振るっていることとか気づいてないの?」 「気づいていると思います。止められたことがあるので」 うん? 先輩は何が言いたいのだろう。 「それっておかしくないか、なんで止めないんだ。こんなに酷いことになってるのに」  それは仕方がないことだ。 「お母さんは、私のことなんてどうでもいいんです。だから、止めない」  先輩には、わからないと思うけどしょうがないこと。 「先輩は先輩のお母さんと仲が良いみたいですし、想像つかないと思います」  ああ、私は何を言ってるんだろう。先輩は私のことを心配して話を聞いてくれているのに酷いことを言ってしまう。これは私の問題だ。先輩に当たる必要なんてないのに、情けない。涙で視界がぼやけていく。 「それとも、お母さんに私のことを見てとでも言えばいいんですか? それで、お母さんは見てくれるんですか」  胸がぎゅーっと苦しい。 「松下、いやごめん……」 「言って、見てくれなかったら? 私どうすればいいんですか?そんなこと言えませんよ」  ボロボロと涙が止まらない。手で顔を覆った。  すると暖かいものに包み込まれる。なんだろうと涙をぬぐって振り向くと先輩が後ろから私を抱きしめていた。 「ごめんな、踏み込んで。松下は十分頑張ってるよ。頑張ってると思うよ。えらいよ、えらい」  急に頭に手が触れてきたので、びくりと震えてしまったけど先輩は優しく私の頭を撫で続けた。眠たくなってきて、こくりこくりと頭が揺れる。 「眠くなってきたか? 松下、聞こえてるか」  何を言っているのかよく聞こえないことを私は気にしなかった。んーと返事したような気がする。 「もうこれ寝てるよな……とりあえず、俺の家に連れてくからな。母さんもいるし、大丈夫だから」  一定の間隔で起こる振動は心地よくて、私はいつのまにか寝てしまった。  翌朝、起きた私が寝てしまったことを先輩に謝罪したり、先輩のお母さんに挨拶したりするのは、今の私には知るよしのないことだった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!