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「あーあ、今年も今日で終わりかぁ」
寒空の下で閉店準備をしながら、末蔵は宙をあおいだ。
中天に月はなく、どんよりとした雲が汚泥のように立ち込めている。それでもこの季節になると、けばけばしい電飾やアドボードの照り返しで彩られるものだ。
だが、夜の七時をまわったばかりだというのに、街はシンと静まり返っている。行きかう人もまばらだ。その彼らでさえも何から逃れるようにそそくさと走り去っていく。
商店街はぴったりとシャッターを閉ざし、まるで戦時統制下のごとく闇に静まり返っている。
末蔵の働くスーパーも午後六時の時点で商品をほぼ売り尽くした。今は、歳末セールの装飾を取り払ったり、ケルヒャーで一年の汚れを洗い流したり大わらわである。
と、ヒステリックな警報が耳をつんざいた。キィキィと違反行為を捲し立てる。
「ごっめーん」
陳列棚の陰からフィオナが顔を出した。浅黒くて彫の深いアーリア人特有の美貌。外国語大学の観光環境学部に通う留学生でオーバーツーリズムを研究している。
彼女の専攻は特に近年いちぢるしいインバウンド客の増加が観光地の住環境に与える影響をいかに減じるかという喫緊の課題でもある。
「気を付けてくれよ。今度、強制査察が入ったら無人販売しか出来なくなるんだ」
エプロン姿の店長が頭を掻きむしりながら駆け付けた。静粛条例が厳格化される前はコツコツと靴を鳴らしたり、地団駄を踏んで発散していた。
それも高まる環境意識のなかで生活雑音公害と見なされるようになった。
とりわけ、雑音虐待――いわゆる、音ハラは迷惑行為の象徴として定期的に世間を炎上させていた。
「すみません、店長」
フィオナは流ちょうな日本語でケルヒャーの使いすぎを謝った。そうはいっても、頑固な汚れを小川のせせらぎ程度の水圧で洗い流せと言う方がハラスメントである。
「ごめんなさいで済んだら経営はできないよ。見ろ」
壁の騒音査察機は設置以降の累積雑音量を容赦なくつきつけている。これはリセットされることはなく増え続け、閾値を超えると地域の安寧を損ねる有害店舗として公表される。
のみならず、強制閉店という法的処分が待っている。
「こまるんだよ! お取り潰しになったら、他所で一からやり直しと言うわけにもいかない!! あ…」
店長は絶句した。デジタル数値が目の前で変わった。彼は声を荒げる代わりに毒を含める事にした。
すまなさそうに頭を下げるフィオナをじっと睨みつけ、言葉の刃を放った。
「お前のせいで店がブラックリストに載ったら、黒ん坊の国へ送り返すぞ」
彼は脚本を棒読みするつもりで、つとめて感情を廃して叱責した。
ところが、だ。ビビーっとけたたましい警報が鳴り響いた。
「自分はいいのかよ」
耳を塞ぎながら末蔵が悪態をつく。すると、さらなる追い打ちが降って来た。
「も、もういい。へ、閉店だ」
たまりかねた店長が二人に帰宅を促した。
「知らなかったんですか? 査察のマシーンはヘイトコトバもチェックするんですよ。法改正、勉強してください」
フィオナが腰に手を当てて説教した。
「おおー! 何という事を~!! 神よ~お許しを」
すっかり立場逆転した店長は査察機に跪き、土下座を繰り返している。しかし、泣こうが喚こうが真っ赤に染まった数値が変色することはない。
そして、不幸な事に彼の嘆きもまた累積カウントされていくのだ。
「うぉーっ!!」
遂に店長がキレた。やることなす事すべてが裏目に出るのなら、滾った憤懣を洗いざらいぶちまけようというのである。
人生は忍耐の連続だ。だが、堪忍袋の緒を縛る力はなにがしかのインセンティブを要求する。
「てめえ!このくそ機械ーーーっ!!」
店長がケルヒャーを振りかざした。
「ビビーーッ!!」
負けじと、査察機も応戦する。既に累積雑音計はレッドゾーンを振り切っている。デジタル数値は「ERR」となっている。
「じゃっかましいいい! これは俺の店だーっ!!」
「ズビビビビビビーーーツツツツヅ!!」
白熱した戦いはどんどんヒートアップする
「こ、これは透過光がピカッとなって、アカンようになる奴や」
末蔵が口元を緩めると、フィオナも頷いた。
「「東山三十六計、逃げるが勝ち」」
◇ ◇ ◇
紅蓮の炎が夜空を焦がし、風が喧騒を運んでくる。
「うわあ、死んだ死んだ」
「何、大勢死んだ?」
「面白い、くたばってる奴らをもっと死なせてやろう」
「わいも助太刀するで」
「俺も俺も」
「はっは。ひでえ世の中だな。草がボウボウになっちまうぜ」
「……」
フィオナは末蔵の軽口に耳を貸さず、丘をそよぐ風に髪を梳かしている。
「なぁ?」
「……人が死んでいるのよ」
ようやく彼女は重い口を開いた。軽蔑のまなざしが末蔵の良心に刺さる。
「いや、そうとも言えないさ。静粛条例の陰で何人も死人が出ているんだ。聞いてるだろ? 言葉の魔女狩り」
そこまで言われて、ようやくフィオナは思い出した。
行き過ぎた音ハラの規制を言論弾圧であるという反発があちこちで起こっている、
のみなず、抗議活動がエスカレートして静寂を過剰に要求する住民と衝突し、警察沙汰に発展している。
それでも市長と観光協会は音ハラの一掃を目指して法規制のさらなる強化を目論んでいた。
軋轢は市民の精神衛生を蝕んでいた。音ハラ加害者になる事を恐れるあまり、ノイローゼになる者が増加している。
市の医師会が客観的な調査データを添えて市議会に申し入れたのだが、市長は耳を貸さなかった。
「わたし、日本の政治はあまりよくわからない」
フィオナはかぶりをふると、うって変わって明るい笑顔を見せた。
「ねぇ、それよりお参りに行かない?」
「おい、逃げるのかよ?!」
末蔵はかなり怒った様子でフィオナの腕をつかんだ。
すると、彼女はふっと体の力を抜いた。
そして、そのまま末蔵にしだれかかる。
「なっ?!」
度肝をぬかれたまま彼はベンチに座り込む。フィオナの体温が心地よい。
「うれしい…」
「う、嬉しいだって?」
「だって、末蔵はいつもコソコソしてた。まるで何かに怯えるネズミのように」
「いきなり何を言い出すんだ。し、仕方がないじゃないか。い、いくらバイト仲間だからといって、店長の目もあるし、例の機械だって…」
騒音査察機は暴言に敏感なだけでなかった。青少年の健全育成上、よろしくない言動は言葉にならない言葉を含めて計測する。
「そうじゃないわ! わたし、知っているんだもの!! 本当の事を言って」
フィオナは強気の構えで迫る。
観念したのか、ばつが悪そうに重い口が開いた。
「死んだよ……響子」
「――!!」
今度は女が押し黙る番だった。
「もういいだろう。俺は別にあいつの事を何とも思っちゃいなかった。ただ、向こうが一方的に……」
「ジサツ? それともケンカ?」
女は情け容赦ない動物だ。こと、死んだ恋敵のこととなるとずけずけと踏み込んでくる。
「魔女狩りとは関係ないよ。ま、あいつもウザがってた一人ではあったが」
言葉を濁す末蔵にますますフィオナは不信感を抱いた。
「じゃあ、何なの――」
ゴォンという重い金属音が二人の会話を中断した。
「除夜の…今年は鳴らさない約束だったのに!!」
末蔵は眼を丸く見開いた。暮れなずむ街の一角が煌々と照らされている。
「ジョーガンジーね」、とフィオナ。
「情願寺だ。条例改正と苦情の影響で自粛するっていってたのに!!」
時代の荒波はどんどんと伝統や文化を押し流し、廃していく。煩悩を払しょくする除夜の鐘すらも年に一度のこととは言え、我慢できないという苦情が殺到していた。
情願寺の梵鐘も近隣住民の希望より世情を考慮して自粛の方針を選んだ。
少子高齢化で檀家が減少する一方で、観光収入は貴重な財源だ。SNSで「騒音の源」などと書かれようものなら、たちまち風評が拡散する。
「行ってみましょうよ」
「行くって、おま」
くるくると風のように変わる乙女心。末蔵はフィオナのそんな部分をかわいいと評価していた。
徒歩でニ十分ほどの距離に情願寺はあった。ただ、本堂を含めた境内がけばけばしい原色でライトアップされ、ただならぬ雰囲気だ。
山門に肌もあらわなVチューバーが投影され、参拝客の平均年齢もかなり低い。
「こ、これって、お寺の行列っすよね?」
末蔵がしどろもどろに訪ねると、ショーツが見えそうなほど短いスカートを履いた茶髪女が応じた。
「ん、鐘待ち? アプリで予約。なーんか30分待ちらしいよ」
女はスマートフォンをチラ見ながら即答した。
「あ、アプリって…」
末蔵は古いアンドロイド端末でインストールを試みるも挫折した。
「あたしの使うといい」
フィオナが華為の最新機種をスカートのポケットから取り出した。
「願い事を入力してください…って、こんな個人情報まで収集するの?」
フリック入力に苦戦する末蔵。
「なーんかね。ロボットがついてくれるって」
足元からさっきの茶髪女が声をかけた。地べたにしゃがみ込み、気にかける様子もない。
「ロ、ロボット……」
機械が突く除夜の鐘にどんな霊験があるというのだろう。
末蔵の理解が追いつかない。
「そうか! ハッキングに成功したのね!!」
さすが女の子同士である。フィオナがいつの間にか鐘待ち女子から情報収集していた。
それによると、度重なる規制に嫌気をさした一派が英知を結集して一帯の騒音査察機を掌握することに成功した、
題して「ええじゃない鐘。今夜は打ち鳴らしちゃわナイト2020」
情願寺を手中に収めた若者たちがイベントを企画したという、もっとも当局が黙っている筈もないが、そこはそれ。
SNSの拡散力と若者独自の機動力で、取締りの体制が整う前にフラッシュモブ的なゲリライベントを強行しようというのだ。
「弾き逃げってあるだろ? エキナカのピアノを即興で演奏しちゃおうって言うアレ」
鼻にピアスを入れまくった男が腕をまくる。上腕筋に沿ってタトゥーの登り竜が勢いづいている。
「俺はブチならしまくりオプションを買った。ペイパル払いで2分間フリー3000円」
彼は慣れた手つきでアプリの履歴を照会した。周到に準備された企画らしく、ハッカーの報酬もクラウドファンディングで賄っている。
「へー」
フィオナはすっかり鐘の魅力に取りつかれたらしく、末蔵に爆鳴オプションをねだった。
「5分間1万円はボリ過ぎじゃね?」
「その間、鳴らしまくりの保証付きですって。インターネッツの凄いスーパーハカーが当局を抑えてくれるんですって。あたし、一回やってみたかったんだあ」
フィオナは新しい洋服を買ってもらった女の子のように瞳を輝かせている。
「ちぇっ、しょうがねえな。バカおんなめ」
末蔵はしぶしぶペイパル連携のゆうちょ口座からなけなしの1万円を引き落した。
待つ事、30分。ついに山門がひらいた。混乱を避けるため予約客を1チームずつ招き入れる。
「ねぇ、さっきのこと」
一歩足を踏み入れた途端、フィオナが響子の話題を蒸し返した。
「こんな時にいきなり何なんだよ。これだからお前ら女は嫌いなんだ。脳にタイマーでもついてるのかよ!」
末蔵は悪態をついた。まったく女性と言う生き物は不可解だ。前触れもなく、何の脈絡もなく、過去を持ちだす。
「こんな時だからよ。大事なことなの! 響子さんはどうなったの? それであたしとあなたの関係が変わるわ」
フィオナは鋭い目つきで末蔵に迫った。
「関係って、お前、判っているだろう。留学生は恋しちゃいけないんだぞ。もし、子供が」
「そんなの言われるまでもない。響子さん、どうして亡くなったの? それを聞かないと、あたしは煩悩を祓えない」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
あまりの気迫に末蔵は口ごもった。しかし、言葉を選んでいる暇はない。アプリは爆鳴りオプションの残り時間が少ない事を告げていた。
ご丁寧に音声が案内してくれる。
「早く教えて!! 鐘をつく時間が無くなっちゃうよ」
「ああ」
緊張で喉がカラカラに乾く。口蓋粘膜がねばついて、唾液が舌に絡まる。
「早く」
「じ、実は…」
◇ ◇ ◇
言えなかった。
山門が開き、スローモーションで大勢の警官がなだれ込んできた。壁越しに次々とスタングレネード、催涙弾が撃ち込まれ、猛煙がもうもうと立ち込めた。
屈強な機動隊員にフィオナが取り押さえられ、ジュラルミン盾が末蔵との間に割って入った、
薄れゆく意識のなかでフィオナははっきりと見た。
彼らの頭にありえないオプションが付属している。
角だ。
それも鬼ではなく、オウム貝のようにねじ曲がった四足動物の突起物。ヤギだ。
「お、お前たちは…」
末蔵が声を振り絞る。
「鬼、悪魔、何とでも命名すればいい。それは君の蔑称なのだからね。せいぜいそしりを受けるがいいさ。君は婚約者を裏切り、国外逃亡をはかった。こんな息の詰まるような国で一生を終えるくらいなら留学生と」
「違う、つか、何で知ってるんだよ」
懸命に否定する末蔵に悪魔は動かぬ証拠をつきつけた。虚空に死亡診断書が浮かび上がる。
「望まぬ妊娠をさせて、婚約破棄、自殺に追い込んだのはまさに鬼畜の所業」
悪魔たちは非難するどころか褒めたたえる。
「ちげーよ! あいつが俺を誘ったんだ!」
「MDMAを酎ハイライムに混ぜて、だろ?」
「うっ…」
返答に窮する末蔵に悪魔がたたみかける。
彼ら悪事のすべてをつまびらかにした。
末蔵の凶行は恋人の遣り棄てにとどまらない。言葉巧みにフィオナを惑わし、妊娠の既成事実を作ろうとした。留学生の結婚や妊娠は違法ではないが、在留資格の条件が異なるため、一時帰国して申請手続きのやり直しを求められる。末蔵はそれに便乗しようとしていた。
「ひどいわ!」
いつの間にか、フィオナが隣に浮かんでいた。こちらも髪を逆立て、血走った眼をしている。
「ちがう、そんなんじゃ」
「ひどい男ですねぇ。ご立派、ご立派!」
悪魔がぱちぱちと拍手のまねごとをする。
「お前らこそ、酷いじゃないか! 俺を罠に嵌めた!」
精一杯反論して見せる。すると悪魔は末蔵に言い放った。
「嵌めようとしたのはあなた達ですねえ。何が爆鳴りオプションですか? ちゃんちゃらおかしいですよ!」
悪魔が言うには情願寺を乗っ取ろうとした一派こそ悪魔なのだ。
もっとも、悪魔たちも人間を嵌める意図はなく(そもそも人間は下等で幼稚な生き物だ。策を弄するまでもない)、自分達が墓穴を掘ったのだ。
除夜の鐘を軽んずる傾向は悪徳のつけ入る隙を醸成した。なぜなら、神仏を否定する無神論者こそ悪魔にとって最大の味方であるからだ。
煩悩の総決算をすべく津々浦々から罪業が持ち込まれる大晦日の夜こそが千載一遇のチャンスだ。悪魔にとっては労せずして糧が集まる。
そして七つの大罪の一つである驕りが、自浄作用である除夜の鐘を撤去さしめるという「傲慢」を招いた。
あとは、砂の城を指先一本で崩すように人間社会が墜ちていく。
「わ、悪かった。何でもする、助けてくれ!!」
末蔵だった意識の残滓は必死で許しを請うた。
「おや、往生際が悪いですね」
悪魔が小ばかにしたように笑う。
「何とでも言って下さい。何でもします。助けて。死にたくない」
泣きじゃくり、懇願する末蔵。
「何でもすると言いましたね?」
「な、何でもする。絶対」
「人殺しでも、盗みでも?」
「は、はい、人殺しでも、何でも」
「本当ですね?」
「本当です」
「後悔しませんね?(Yes/No)」
「い、イエス」
……
◇ ◇ ◇
東の夜空に突如として星があらわれた。
「尊い御子が御生まれになるとお聞きしまして」
みずぼらしい馬小屋に立派な身なりの老人が訪れた。
それも一人ではない。二人、三人と豪華な金品を持って現れる。
「いえ、滅相もない。妻は身重ですし」
男は丁重に固辞した。
「いえいえいえいえ、奥様も御胎内の御子も祝せられたもうのです、天使の御母フィオナ…」
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