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奈落は深雪の胸ぐらを掴む手に力を籠めると、語気を強めた。
「……お前はこいつらが何をしてきたのか理解しているのか。自分たちが生き延びる為に、さらに弱い立場の人間を食い物にしてきた……そういうクズどもだ。子供?女? ……だったら何だ。ヤクを手にして暴走でもしたら、そんなことは関係ない」
「………‼」
奈落はそう言って深雪を突き飛ばした。そのはずみで深雪はたたらを踏み、尻もちをついてしまう。
「……そんな連中に肩入れするのなら、お前も同罪だぞ。分かっているんだろうな?」
深雪は奈落を見上げ、反論しようと睨んでいたが、やがて力なくうな垂れる。
奈落の言い分は理解できた。そして大きな間違いも無い。だからこそ、「そんな連中に肩入れするのなら、お前も同罪だ」という言葉がひどく胸に突き刺さった。《タイタン》のメンバーに心のどこかで同情していただけに、なおさらだ。
《タイタン》は薬物売買に手を出したものの、大きな問題があるチームではない。他チームとの抗争で死者を出した事も無ければ、《リスト入り》するほどの犯罪にも、手を染めていないのだ。オリヴィエは「大人しく投降するなら危害は加えない」と言ったが、実際のところは《リスト登録》したくても、できないというのが実情だ。
こうして《タイタン》のメンバーを捕えているのも、《Heaven》の情報を得る為であって、それが済んだら彼らは再び野放しとなる。《リスト》も決して万能ではない。彼らも当然、薬物売買に手を出しても《リスト入り》しないと見越して、ギリギリのラインを狙ってずる賢く行動している。奈落の言う「クソども」というのも、そこを指しているのだろう。
オリヴィエが慌てて深雪に近寄ってくる。
「深雪! 大丈夫ですか?」
深雪はふらつきながら立ち上がると、オリヴィエに返事をすることもできず、ただ手のひらを固く握りしめる。
(俺達も……同じだったんだろうか。《タイタン》と同じ、さらに弱い立場の人を傷つけていたんだろうか。だから《ウロボロス》はあんな悲惨な結末になったんだろうか。あの結末は罪を犯した罰だったのかもしれない………)
深雪が《タイタン》に寄せていた同情は、自らの罪を正当化させるための欺瞞なのかもしれない。そう思うと背中の《ウロボロス》の刺青を剥ぎ取られた皮膚が、じりじりと焼けるように痛む気がした。
奈落の、あの紅い瞳孔に射すくめられると、深雪の浅はかさを見透かされているような気がして、激しい焦燥感に襲われる。自分の弱さや偽善を炙り出されるようで、とても直視することができない。
奈落はそんな深雪を冷ややかに睥睨していたが、やがて踵を返すと、もはや一顧だにせず歩き去っていった。
「なんだよ、俺……間違ったことは言っていないはずなのに……!」
深雪は唇を強く噛みしめた。何故、これほどまで敗北感を味あわされるのだろう。何故、自分はこんなにも無力なのだろう。自分の信じていた正義が、こうも容易く揺らぐとは思ってもみなかった。今の深雪はまるで濃い霧の中に放り込まれ、どちらに進んでいいのかも分からない遭難者のようだ。
二十年前は、もっと自分のすべきことがはっきりしていた。何が正しくて、何が間違っているか。それらは交差点の信号機のようにはっきりと点滅し、たどるべき道筋を明快に照らしてくれた。
ところが、今はどうだろう。
道は複雑怪奇と化し、信号機はすっかり故障して機能不全に陥っている。路上ではいつも事故が起こり、たくさんの命が当然のように失われている。そして今の深雪にできることといえば、ただ途方に暮れて、その光景を見つめるだけなのだ。
(俺は間違っていないかもしれない……でも、『正しい』わけでもないんだ)
間違っていると口先で批判することは簡単だ。でも、それに代わる『正しさ』を証明できなければ、誰も納得などしない。力がものを言う《監獄都市》ではなおさらだ。どうすれば自分の理想が叶うのか、深雪にはまだ分からない。
(俺はいったい……どうすればいいんだろう……)
今の深雪には語るべき正義も、それを実現するだけの力も無い。ただ、力なくうな垂れるしかなかった。
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オリヴィエはビルの奥へと進む奈落を追っていた。すでにフロアの隅にある、上へと続く階段へと歩を進めていた奈落へ追いつくと、オリヴィエは小さな声で問い詰めた。
「どういうつもりですか」
「何がだ」
「あなたに面倒見の良さや親しみやすさを求めるのは、とてつもなく愚かだと分かっています。ですが、それにしたって……あんな対応をしなくてもいいでしょう!」
奈落は足を止め、うんざりしたような口調で吐き捨てる。
「充分、手加減はした。あいつが事務所の人間じゃなかったら首をへし折ってる」
「何を馬鹿なことを……。とにかく、あなたも高圧的な態度は慎んでください。だから深雪もあなたを過度に警戒するのですよ。信頼関係を築かなければ、いずれ深刻な事態に陥ります。あなたも分かっているでしょう?」
オリヴィエの口調は子供の喧嘩をなだめる教師のようだった。奈落はひどく不機嫌そうにしていたが、ふとビルの奥でうな垂れたまま、佇んでいる深雪へと視線を投げる。
そして壁に背をもたれると、コートの内ポケットから煙草の箱を取り出した。口を軽く叩いて、頭をのぞかせた煙草を口に咥えると、ライターで火をつける。
「野ウサギを追ったことはあるか」
「……はい?」
「野ウサギだ」
「いえ……私の故郷ではウサギを食べる習慣が無かったので……」
急に何の話をと、戸惑いの表情を浮かべるオリヴィエをよそに、奈落は紫煙を吐き出しながら肩を竦めた。
「食う為じゃない。子供の遊びだ。必死で逃げ回る様子が面白い。生け捕りにして数を競う」
「なんて可哀想なことを……」
呆れたような顔のオリヴィエに構わず、奈落は言葉を続ける。
「巣穴に戻る寸前で捕え、引き擦り出すと、怯えと絶望が入り混じった卑屈な眼でこっちを見る。……あいつの眼と、よく似ている」
「………」
奈落の言わんとするところを察し、オリヴィエもまた深雪を見つめる。その瞳は建物の影のせいか、いつもより深いコバルトブルーを湛えていた。
オリヴィエは溜め息をつくと、小さく呟いた。
「……深雪が怖れているのは、あなたや私ではありませんよ。彼が怖れているのは、おそらく自分自身です」
「……なおさらタチが悪いだろう」
奈落はフンと鼻を鳴らし、タバコの灰をもみ消すのだった。
その後、奈落とオリヴィエはあっという間にビルを制圧し、《タイタン》の頭の身柄を拘束すると共に、彼らの所持していた大量の薬物を押収した。
深雪はそれをただ、どこか虚ろな思いで見つめていた。
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