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第3話 孤児院
新宿の街はいつものように多くの人出で賑わっていた。狭い路地には露天商が立ち並び、路上を占拠して声を張り上げている。
道ゆく通行人も、明らかにガラの悪い者もいれば、一般人と変わらない者もいる。体をくねらせ客に流し目を送る娼婦や、獲物を狙って目をぎらつかせているスリの少年グループたち。様々なタイプの人々が一緒くたになっているのは、今も昔も変わらない。
深雪はそんな雑踏の中を一人、歩いていた。いつも隣にいるはずのシロは、今はいない。深雪は先日の事件で、ある少年の凶行を止められず、死なせてしまったことを引き摺っていた。それ以来、シロとぎこちない関係が続き、修復できずにいるのだった。
(俺……カッコ悪ぃな……)
昨日も《タイタン》の制圧で思うように動けなかった。うまくいかない事ばかりが続いて、深雪はすっかり気が滅入っていた。理由は分かっている。自分の中に迷いがあるせいだ。どう動くべきなのか、何をすべきなのか。深雪は巨大迷路に放り込まれたまま、未だに進む方向が決められずにいるのだった。
おまけに、ここが《監獄都市》で、深雪が生きていた時代より二十年後の東京だという現実が、深雪を余計に混乱させていた。
《監獄都市》となった東京は、何もかもが昔と違っていた。かつての首都としての威風堂々たる繁栄の痕跡は、どこにも無い。法が全くと言っていいほど機能せず、ゴーストたちが日夜、平然と争い、奪い合い、殺しあう無法地帯と化している。深雪が《冷凍睡眠》で眠らされている間にすべてが変わり、狂ってしまったのだ。
ふと、子どもの頃に流行った歌を思い出す。「自分が変われば、世界も変わる」と。それは二十年前の東京ではリアリティを伴っていたのかもしれないが、とんだ思い上がりだと深雪は思う。
自分が変わらなくとも、世界は変わる。それも自分の手の届かない場所で、想像もしなかったような理由で。世界は容赦なく変質してゆく。誰もその濁流からは逃れられないのだ。
深雪は溜め息をつきながら、事務所を出る時のことを思い出していた。
「――あ、深雪さん! お出かけですか?」
事務所を出る深雪に気づいて声をかけてきたのは、琴原海だった。
海は深雪と同じ日に《東京》に収監された少女だ。凶悪事件に巻き込まれ友達を失い、一時期は見るのも痛々しい様子だったが、東雲探偵事務所で過ごすうちに、だいぶ元気を取り戻したようだった。頬には赤みが差し、いつも事務所の中を行ったり来たり、忙しく動き回っている。
「その……ちょっと孤児院に行ってみようかと思って」
深雪が答えると、海は小首をかしげる。
「孤児院って、オリヴィエさんの……ですか?」
「オリヴィエに誘われたんだ。この近くだって言ってたから、すぐに戻るよ」
「分かりました。楽しんできてくださいね!」
「……え?」
「深雪さん……ここのところ何だか元気がなかったから心配してたんです。いい気分転換になるといいですね!」
そう言って海は屈託のない笑顔を向けた。深雪はここ数週間、ずっと落ち込んでいたから、彼女なりに深雪を気にかけ、励まそうと明るく振る舞っていたらしい。その事に気づき、深雪は申し訳ない気分になる。
「でも……一人でですか? シロちゃんは……」
深雪はたいていシロと共に行動しているから、一人で行動する深雪を、海は不思議に思ったのだろう。するとシロが慌てた様子で二階から顔を出した。
「ユキ、お出かけ? シロも……一緒に行っていい?」
シロは階段の踊り場で身を潜め、深雪の様子を窺っていたらしい。自分の話題が出てきたので、急いで声を上げたのだろう。深雪は躊躇したが、すぐに首を横に振った。
「いや、一人で行くよ。大した用事じゃないからさ。……琴原さん、それじゃ」
「……ユキ!」
シロは悲しげに顔を歪め、なおも何か言いたげにしていたが、深雪は振り切るようにして事務所を出てきたのだった。
(……シロは何も悪くない。俺がちゃんと謝らなくちゃいけないのに……)
屋上での出来事を思い返すと、つくづく自分が恥ずかしくなる。あの時、深雪はシロの信頼を勝ち取っている六道に対し、嫉妬したのだ。おまけにその感情を、よりにもよってシロにぶつけてしまった。完全にただの八つ当たりだと、今ではひどく後悔している。
謝らなくてはならないと頭では分かっていても、深雪はシロに謝れずにいた。謝れば、六道のしたことを認めてしまう気がする。嫉妬だとかそういった個人的感情を抜きにしても、六道の判断は絶対に許せなかった。
深雪はまだ、事件に対する感情の整理がつけられずにいた。平然と残酷な決定を下す六道も、何の力もない無力な自分も、両方が許せなかった。
鵜久森命は深雪に毒を盛ると、自分に従わねば解毒剤を渡さないと凶暴性をむき出しにして脅してきた。実際の被害に遭ったのは、深雪の姿を模した紅神狼だったわけだが、鵜久森命が深雪を殺そうとしたのは偽りようのない事実だ。
しかし、深雪はどうしてもそれが命の本音だと思えなかった。命は深雪と友達になりたいと言った。屋上の温室に行けば、いつも嬉しそうに出迎え、茶や菓子を振舞ってくれた。あれが全て噓だったとは、どうしても思えない。
命のやった事は決して許されることではないが、深雪はあの少年が完全な悪だとは思えないのだった。命のことを思い出すと、余計に六道へのわだかまりが増す。他にやり方があったのではないか――六道であれば可能だったのではないか。そう思わずにはいられないのだった。
その時、不意に右手がずきりと痛む。
「痛って……!」
寄生蜂の事件以降、右手が痛む回数は劇的に減っていたが、時折、こうして痛むことがある。
右の手を広げると掌の中心から放射状に赤い亀裂のような痣が走り、手の甲から手首、二の腕を通り、肩まで伸びている。痣だけならまだ気にも留めないが、手の平がぼんやりと発光するのはひどく不気味だった。今も弱々しく光を放ったまま、筋肉や血管が透けて、手の平全体が真っ赤に染まっている。
(どうなってんだ、俺の腕……?)
手の平を開いたり閉じたりしていると、自然と光は収まっていった。気になるものの、何か異変があるわけでもない。
――その刹那。
『君だろう、僕からアニムスを奪ったのは! 何てことをしてくれたんだ? ……戻してくれ! 人間なんて醜い存在になり下がるのなんて、まっぴらだ‼ 今すぐ、ゴーストに戻してくれ!!』
命の絶叫が耳の奥に甦ってきて、深雪はびくりと体を竦ませた。
あの時、深雪の右腕は今まで感じたことの無いような激しい光を発すると、一人の少年のアニムスを完全に消滅させたのだ。アニムスが無くなれば、命を人に戻せば、全てが解決すると思っていた。哀れなストリートダストの少年を救えると心の底から信じていた。
しかし、それは深雪の傲慢な自惚れでしかなかった。アニムスを奪った結果、命は深雪の目の前で、屋上から身を躍らせたのだった。アニムスのない自分には、何の価値もないのだと絶叫を上げて。命の、全身をずたずたに引き裂くような悲痛な叫び声が、今も耳の奥にこびりついている。
だが命のアニムスを消し去った力は、深雪自身、存在すら知らない力だった。
(あれは何だったんだろう……? アニムス……だったのか……?)
あの光の奔流は何だったのか。深雪には《ランド・マイン》というアニムスがある。一人のゴーストに現れるアニムスは一つだというのが、世界的な通説だ。何故、自分に《ランドマイン》とは別のアニムスが現れたのだろう。
あの、全てを焼き尽くしそうなほどの巨大な熱の塊。第二の力が発動した時のことを思い出すと、今でも背筋がぞくりとする。強い恐怖と困惑、そしてわずかばかりの興奮。
その一方で、自分の体に取り返しのつかない異変が起きているような気がして不安になるが、今はまだ誰にも相談する気にはなれない。この力で、一人の少年が自ら命を絶った。その重い事実を考えると、軽々しく力の存在を口にする気になれなかった。
(あの力はそう簡単に使うべきじゃない……)
第二のアニムスを使ったがために、命を死に追いやったことを考えると、この能力は簡単には使わないほうがいい気がする。
あの力が本当にゴーストからアニムスを奪う力だとしたら、ゴーストだらけの《監獄都市》では悪戯に敵意を招くだけだ。相手によっては余計なトラブルや、過度の好奇心を生んでしまうかもしれない。《監獄都市》に送り込まれた経緯はそれぞれ違うから、人間に戻りたいと考えるゴーストばかりではない。
それは東雲探偵事務所のメンバーも決して例外ではない。彼らを信用していない、というわけではないが、彼らのことをまだ十分に知らないというのも事実だ。
(オリヴィエとの待ち合わせの時間に遅れたら悪いし……今は先を急ごう)
深雪は再び雑踏の中を歩き出したのだった。
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