第40話 《ジョーカー》②

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「……でもさ、俺、知ってるよ。《死刑執行人》つったって、別に正義の味方でも何でもない。所詮は生活のため……金のためだろ? 生きるために他者を殺してるんだ。それってさ、俺らがやってることと何も変わんないよね?」 「………」 「ご、誤解しないでよ! べつに批判してるわけじゃない。ただ、ビジネスがしたいんだ。……なあ、あんた金は欲しくないか? 俺があんたのこと雇うよ! 百万でどうだ!?」 「………」  やはり、返ってくるのは氷のような沈黙。こちらと会話する気は無いのだろう。これはダメかと思った瞬間、先ほどの戦慄(せんりつ)が足元に這(は)い戻ってくる。  ――ところが。 「随分と安く見られたものだな」  意外なことに返事があった。低くかすれた声は、思ったよりずっと若い。ジョーカーはここが正念場と食い下がる。 「だ、だったら二百万……三百万でもいい‼ いくらでも払うよ! 俺のこと見逃してくれたら……稼ぐ方法はあるんだ‼」 「断る。今のところ金には困ってない」 「………‼ ふ……ふうん?」  ジョーカーは混乱した。今まで付き合ってきた連中は、札束をちらつかせれば喜んで従う奴らばかりだった。キングだってクイーンだって、みな儲け話を持ちかければ、ニンジンを鼻面にぶら下げた馬のように言うことを聞いた。それなのに何故、こいつは従わない? 「話は終わりか?」  話を切り上げようとする男に、ジョーカーは慌てて口を開いた。 「ち、ちち……ちょっと待った! じ……じゃあさ、これは知ってる? 俺はそもそも《リスト入り》してない。それどころか《リスト入り》する可能性が限りなく低いんだ。俺がゴーストを操って連続猟奇殺人を起こしたっていう証拠が出てこない限りな!」 「……知っている」 「へ……へえ? それで本当に俺のこと殺せんのかよ? っつーか、下手したら今度はあんたが《リスト入り》しちゃうかもよ? そうなったら追う側が一転、追われる側になるってワケだ‼ どうすんのよ……困るんじゃない? この狭い《東京》でそんな事になったら!? いろいろ大変でしょ、俺の……し、死体の処理とかさ!」 「安心しろ、そんなヘマはしない」  男はそう言うと、鷹揚な仕草で右目の眼帯を剥ぎ取った。 「そもそも死体は残らない」  いったい何を――眉根を寄せるジョーカーの眼前で、男のシルエットに変化が現れる。眼帯を剥ぎ取った右目のあたりから、真っ黒な何かが、ぶわりと滲み出すように広がっていく。  それは途中でいくつか分岐すると、蜘蛛の足のような歪なフォルムを形成していき、ぞわりと身じろぎをする。 「なんだよ……おい、冗談だろ……!?」  それがどこから来て、これから何をするつもりなのか。言われずともジョーカーには分かった。同時に何故、自分がここまで追い立てられ、走らされたのかも理解する。  自分はやはり《リスト入り》していないのだ。だから誰にも目撃されないために――監視カメラすら追えない地下の奥深くに、わざわざ誘導されたのだ。 (こんな……こんな暗い穴倉で惨(みじ)めったらしく殺されてたまるかよ‼)  もはや躊躇する理由はどこにもなかった。この暗闇では効果が無いかもしれないと迷っている場合ではない。  ジョーカーは目を極限まで見開くと、瞳孔の淵に赤い光を灯らせた。暗闇の中で両の眼(まなこ)がランランと鮮烈な光を放ち、特定の間隔で激しく明滅を繰り返す。 (かかってくれよ、頼むから……‼)  ジョーカーはワラにもすがる思いだった。その間も、両目は鮮やかな赤光を何度も瞬(またた)かせる。その鮮明な光が、コンクリートの床や崩れた土砂を鮮やかに照らし出す。  やがて男の首が、がくりと垂れた。  ――かかった。ジョーカーは狂喜の笑みを漏らす。何かがカチッとはまって微弱な電流が通ったような、かすかな手応え。これまで何度も味わってきた感触に間違いない。 「へ……へへへ! 確かにあんたは凄いよ。けどな、ひとつ忘れてるぜ。どんな強いゴーストも脳は強化できないんだよ!」  ジョーカーは両手を広げ、高揚した声で叫んだ。 「これが俺のアニムス、《ブレイン・ウオッシャー》だ‼」  ジョーカーの《ブレイン・ウオッシャー》は、赤く点滅する両眼でもって洗脳をかけるアニムスだ。その光を目にした者は、人間であろうとゴーストであろうと、ことごとく洗脳状態に陥(おちい)る。そして一度脳に刻まれた信号は、ジョーカーの命令がない限り、決して覆(くつがえ)ることはないのだ。  これで目の前の男も自分の傀儡(くぐつ)と化すだろう。《波多洋一郎》や《池田信明》、《堀田祐樹》のように。あとは煮て食おうが焼いて食おうが、こちらの思うままだ。  ジョーカーの口に、にたりと下卑(げび)た笑いが浮かんだ。  しかし。  俯いた男の右目から生えた触手が、ぞろぞろと音もなく動き出す。そして次の瞬間、男の顔が突然、上を向いた。  その隻眼が、じっとこちらを見下ろしているのに気づき、ジョーカーはぎくりとした。『命令』もないのに、どうして傀儡(くぐつ)が勝手に動くのだろう。  すると、さらに信じられないことが起こった。男が先ほどとまったく変わらない調子で口を開いたのだ。 「残念だったな。俺にはその手のアニムスは効かない」 「あ……あれ? な……何で……!?」  ぽかんと口を開いたジョーカーは、すぐその異常性に気づき、体を前のめりにさせた。 「な……何でだよ!? 間違いなく《ブレイン・ウオッシャー》にかかったはずだ! 一度洗脳状態になったら、俺の指令なしに解けることはない……人間だろうとゴーストだろうと絶対に解けるはずがないんだ‼」  取り乱して叫ぶジョーカーに、男が薄っすらと笑ったのが気配で分かった。 「簡単な答えだ。俺は人でもなければ、ゴーストでもない」 「なっ……!?」  ――だったら、いったい何なんだ。  しかしジョーカーはその言葉を発することはなかった。  人でもない、ゴーストでもない何か。それがいったい、何なのか。その先を具体的に思い浮かべるのは、あまりにもバカバカしく、同時に背徳的であるようにも感じた。  知らずに済むのであれば、未来永劫、関わり合いになりたくない。だが、そうは済まされないのだという予感もあった。  間髪入れず、地を揺るがす怪物のような凄まじい咆哮が、薄暗い地下を引き裂いた。ジョーカーはびくりと身を竦ませる。  それは男の右眼から生え出た、蜘蛛の足に似た《何か》が上げた雄叫びだった。その怪物は、腹を空かせた猛獣が舌なめずりをするように、何度も空を搔いている。見ようによっては、こちらに来いと手招きしているようにも見えた。 「な……ん………!?」  ジョーカーは為す術(すべ)もなく、ただ茫然とその光景を見つめていた。足元から何か冷たいものが這いのぼってきて、四肢を侵食していく。  それは死への恐怖だった。  目の前のこいつはやばい。生物としての勘、あるいは本能が、そう告げている。  にもかかわらず、脳はすっかり思考停止に陥っていた。これは何なのだろう。本当にアニムスなのだろうか。だが、これほどまで禍々しいアニムスは、他に見たことがない。  男と怪物、いったいどちらが『本体』なのだろう。  ジョーカーの瞳が驚きと恐怖で大きく見開かれる。額から噴き出した汗が滝となり、眼球や鼻孔を伝ってあごへと滴った。  その様はまるで泣きべそをかく幼い子供のようにも見えたが、ジョーカーにはそんなことに構っている余裕などまったくなかった。 「ひっ……い……ひぎゃあああああああっ‼ 化け物………」  しかし、ジョーカーの裏返った悲鳴は、途中で唐突に途切れた。奈落の右目から這い出した闇の触手が、一瞬にしてジョーカーを呑み込んだのだ。  グジャリ、と骨や肉が轢(ひ)き潰されたような気味の悪い音が響き、寸暇の後、ジョーカーの姿はその場から消失していた。  蜘蛛のような醜悪な触手の間から、大量の血と油が飛沫(しぶき)となって撒き散らされる。 「……戻れ」  そのひと言で、ジョーカーを喰い尽くした闇色の化け物は、再び奈落の右目へと戻ってゆく。  奈落のアニムス、《ジ・アビス》。それがあれば死体は決して残らない。右目に棲む《何か》が、骨の一本も残さず獲物を丸吞みにしてしまうからだ。不動王奈落が東雲探偵事務所に雇われた理由の、二つ目がそれだった。  奈落は右目に再び眼帯を当てる。後には異様な静けさと、大量の血糊だけが残された。  かつて地下鉄が走っていたその場所を、白熱灯の弱弱しい光が幾度となく点滅し、そのたびに凄惨な光景と奈落の双方を闇の中から浮かび上がらせる。  しかし六度目に消えた光が再び灯ったとき、奈落の姿はすでにそこに無かった。
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