第43話 過去を知る者③

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 深雪も足元がふらふらと覚束なくなるほど、力を使い果たしていた。 「ユキ!」  離れたところで深雪と坂本の戦いを見つめていたシロが心配そうに駆け寄ってくると、倒れそうな深雪の体をしっかりと支える。 「ユキ、大丈夫?」 「ああ。シロも怪我、無いか?」 「うん!」 「そっか……ありがとな、来てくれて」  両肩に圧しかかってくる疲労を何とか振りはらい、深雪が精いっぱい笑ってみせると、シロもぱっと嬉しそうな顔になる。 「ユキ……! シロもね、ユキが無事で嬉しい‼」  そのはじけるようなまばゆい笑顔を目にしていると、不意に体の奥底から感情が溢れ出してきて、泣きたいような、叫び出したいような奇妙な感覚に包まれた。  自分はまだ不完全で、出来ないことのほうが多い。それでも、シロを守りたいという意志だけは貫き通すことができた。その結果がきっと、この笑顔なのだ。シロも深雪も、互いに笑っていられる。この関係だけは、守り通すことができたのだ。  深雪が坂本に敗北していたら、シロが坂本を手にかけるような事態になっていたら、彼女の笑顔はなかっただろう。鵜久森命の時のように、事件が解決したとしても、打ちのめされていたに違いない。  そう思ったら唐突に、ぎゅっとシロを抱きしめたい衝動に駆られた。でも何だか恥ずかしくて、かわりにシロの頭をそっと撫でた。  嫌がられるかと思ったが、シロにただ静かに目を閉じて、されるがままになっている。くすぐったいのか、それとも照れくさいのか、頭の獣耳がひょこひょこと動いた。  自分でも気づかないうちに、ずいぶん時間が経ってしまっていたようだ。東の空がにわかに明るくなってきて、清涼な朝日が二人を包み込む。  ところが、その光景を面白くなさそうに眺める者がいた。坂本だ。まだ体に力が戻らないのか、その場に膝をついたまま呼吸も荒い。それでも深雪を睨む気力だけは残っているようで、刺々しい視線を送ってくる。 「お前……俺に何しやがった……!?」 「言っただろ、お前を人間に戻すって」  深雪は素っ気なく答えるが、坂本は到底、納得できないといった顔だ。 「正気か!? そんな事できるわけ……」 「だったら確かめてみろよ」  深雪がそう言うと、坂本は苦々しく目元を歪めた。俺に偉そうに命令するな――言葉にせずとも、内心でそう悪態をついているのが伝わってくる。  それでも確かめずにはいられなかったのだろう。坂本は粉砕され、まったく使い物にならなくなった義手のかわりに、左手を宙に掲げた。  眉間に力を籠めて《ヴァイス・ブリザード》を発動させようと試みるものの、坂本のアニムスが発動することはなかった。三白眼の瞳孔も黒いまま、赤みを帯びることはない。 「ぐうう……‼」  坂本は焦燥を滲ませながら左手に力を籠める。相当に力んでいるのか、額には玉のような大粒の汗が浮かび、二の腕の筋肉が見る間に膨らんでいく。それでも《ヴァイス・ブリザード》は発動する気配すら無い。  どうあってもアニムスが発動しないという事態に、坂本は溜めていた息を大きく吐き出すと、途方に暮れた迷子のように、力なくつぶやく。 「おい、まさか……嘘だろ……!?」  《ディアブロ》の頭にまで登りつめた、自信と自負にまみれた尊大でふてぶてしい坂本一空の姿は、そこにはなかった。あるのは何の取り柄もない、平凡なただの男だ。  坂本はアニムスが失われたという事実が受け入れられず、愕然として座り込んでいた。  その時、深雪は悟った。坂本もまた鵜久森命と同じく、アニムスを己の拠り所にしていたのだと。  坂本の傲岸不遜さも、陰湿なまでの凶悪さも、すべては《ヴァイス・ブリザード》があったからこそなのだ。アニムスを失った今、坂本は精神的にも肉体的にも強固な鎧を剝ぎ取られ、裸になったも同然だった。  しかし深雪は到底、坂本に同情する気にはなれない。アニムスがあったからこそ、坂本は誰はばかることなく悪事を繰り返してきたのだ。そんな力なら、無いほうがマシだ。 「行こう」  そう言って坂本に背を向ける深雪だが、シロは戸惑ったように後ろを振り返る。 「ユキ、あの人……」 「いいんだ。放っておこう」  力つきているのは深雪も同じだった。シロの支えがなければ両足がもつれて転んでしまいそうなほど、疲労困ぱいしていた。これ以上、坂本と関わり合いになりたくなかったし、正直なところ構ってやる余裕もない。  シロはなおも深雪の服の袖を引っ張ると、腰の日本刀へと手を伸ばす。   「このまま放っておけば、あの人、またきっとユキを襲うよ」  今のところ坂本は茫然自失の状態で、何かをしでかすようには見えない。アニムスを失ったショックのあまり、そんな気力も残っていないように見える。それでも時間がたてば、再び何もかも深雪のせいだと逆恨みするのだろうか。  坂本の性格を考えたなら、その可能性は十分あり得る。  シロの懸念も分からないではなかったが、坂本の命を絶つという選択肢は、深雪には無い。それでは坂本を人間に戻した意味がなくなってしまう。 「……行こうか」  今度はシロも坂本のほうを振り返らなかった。日本刀に添えた手を放すと、深雪の体を支えるようにして共に歩きはじめる。  すると突然、背後からヒステリックな絶叫が覆い被さってきた。 「どうすりゃいいんだよ!」  深雪が足を止め、わずかに振り向くと、坂本は悲痛な叫びを投げつける。 「俺はゴーストだ‼ 今さら人間に戻ったからって……これからどうしろってんだよ!?」  坂本は見るも無残な姿にさま変わりしていた。頬はげっそりとこけて、生気は失われ、筋肉の鎧で覆われていた体は、枯れ木のように縮んでしなびてしまっている。  アニムスを失ったのだという現実が浸透してきたのだろう。力を失った坂本の体は、ひと回りもふた回りも小さくなってゆく。  だが、それも己の業が招いたことだ。ゴーストになって《東京》に収監されたことに関しては、坂本も被害者なのかもしれない。しかし、アニムスに依存し、自分がさも優れているかのように錯覚して、思いのままに暴力を振るったことは坂本の罪だ。 「……さあな。それくらい自分で考えろ」  深雪は倦怠感の滲んだ声で答えた。 「それがお前に与えられた罰だ。これまで自分がしてきたことを後悔しながら……ずっと生き続けろ」  坂本が己の行いを悔い改めるかどうかは分からないが、これから大きな困難が立ちはだかっているのは間違いない。今までさんざんバカにし、見下してきた、力を持たない普通の人間に、これからは自分がなるのだ。  高アニムス値のゴーストに命を脅かされぬためには、他人と協調し、己を律し、慎ましく行動しなければならない。  坂本のようにアニムスにものを言わせ、威張り散らしてきた者に、果たして耐えられるだろうか。答えは否だ。その境遇は途轍(とてつ)もなく過酷に感じるだろう。 (でも、それが本来あるべき姿なんだ)  坂本もゴーストになる以前は、人として生きていた。それが再び戻ったというだけのことだ。  だから簡単には殺さない。殺してなるものかと深雪は思う。死は罰として最も有効な手段かもしれないが、時には生きることのほうがずっと辛いこともある。坂本は己の行いを悔いながら、もがき苦しみ、生き続けるのだ。  深雪が《ウロボロス》のことを永遠に背負い、苦しみ続けねばならないのと同じように。  深雪は、もう二度と後ろを振り返らなかった。東の空で頭をのぞかせた太陽が廃墟を照らし、崩れかけた壁や電柱、ガードレールを覆う闇を、一斉にかき消してゆく。  坂本はうな垂れたまま、いつまでも動かなかった。
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