第44話 夜明け

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 オリヴィエや神狼も去った後には、深雪とシロだけが残された。 「俺たちも戻ろうか、事務所に」 「うん」  嬉しそうに頷いたシロだが、ぴくっと動きを止めて獣耳を小刻みに動かすと、後ろを振り返って声をはずませた。 「あ、奈落だ!」 「え? 奈落って……おわっ!?」  シロにつられて振り返ると、深雪の真後ろに奈落が立っていて、驚きのあまり仰け反ってしまった。  いつもの事とはいえ、奈落に気配を消されると深雪はなかなか察知(さっち)できない。これでナイフで斬りつけられでもしたら、間違いなく即死(そくし)だ。それを考えるとさすがに肝が冷える。  深雪のそんな思考を鋭く嗅ぎつけたのか、奈落は小馬鹿にしたように頬を吊り上げた。 「何をびびってやがる、クソガキ」 「そりゃびびるでしょ。フツーに登場したらいいじゃんか! フツーに正面からさあ!」  抗議(こうぎ)の声をあげた深雪はしかし、奈落の姿をまじまじと見て思わず言葉を失った。奈落の右半身は真っ赤なペンキを頭から引っ被ったように、べったりと血に染まっている。  最初は逆光になって気づかなかったが、目が慣れてくると、その異様さに息を吞むばかりだ。  その姿から、深雪は奈落が何をしてきたかを一瞬で悟った。  深雪は奈落のアニムスを直に目にしたことはないが、それがどういうものか、マリアに教えられたので知っている。  奈落のアニムスの名は《ジ・アビス》。映像で目にした光景は、あまりにも常軌(じょうき)を逸していた。奈落の右目から這い出してきた『何か』は一瞬にして狙った者と掴みかかり、容赦(ようしゃ)なく握り潰してしまったのだ。  見ようによっては、凶悪な姿をした怪物が獲物を喰らいつくしているようにも見える。後には肉片はおろか、骨すら残らない。  だからこそ、今回のような件では奈落の能力はうってつけなのだろう。事務所は最後までジョーカーを《リスト登録》できなかった。それでも六道は《リスト登録》を黙殺(もくさつ)し、ジョーカーを仕留(しと)める選択をしたのだ。  《監獄都市》において、それは許されざる不法行為だ。超えてはならない一線を越えるのだ。死体を残すわけにはいかなかったのだろう。  奈落は見事にその任務を完遂(かんすい)してのけたのだ。  よほど事が露見(ろけん)しない自信があるのか、奈落は警察がまだ近くにいるというのに、全身に血糊(ちのり)を張りつけたまま、悠然(ゆうぜん)と煙草をふかしている。  こそこそと身を隠す様子もなければ、悪びれる素振りさえない。そのあけすけな態度に、深雪もすっかり脱力してしまった。 (誰にも従わない奴だと思ってたけど、六道の命令は聞くんだな)  《リスト登録》されていないジョーカーを手にかけることは、奈落にとっても相当にリスクが高かったはずだ。この隻眼の傭兵は確かに傲岸不遜(ごうがんふそん)だが、自分から好んで危険に足を突っ込むようなリスキーな性格はしていない。  それでも六道の命令に従ったのは金払いが良いからか、それとも六道との間に何かしらの借りでもあるのか。いずれにせよ、よほどの理由があるのだろう。  いったいそれは何なのか。  そう思いを巡らせているうちに、深雪はふとあることに気づいた。 「……あのさ、奈落は六道に雇われているんだよな?」 「それがどうした」 「それってつまり、俺が奈落を雇うこともできるってことか?」  条件さえ満たせば、深雪も奈落と契約を結ぶことができるのではないか。そう思ったのだが、案の定、奈落は路上を()う芋虫でも見つめるかのような冷笑を向けてくる。 「笑わせるな。お前にゃ、そのセリフは百万年はやい」 「分かってるよ。今は確かに無理かもしれない」  今の深雪には何もない。奈落に支払うだけの報酬(ほうしゅう)も、納得させるだけの実力や権力も、何ひとつない。だが深雪はもう、無力な自分に劣等感を抱いていなかった。 「でも、いつかきっと六道より俺を選ばせてみせる」  その言葉を実現できる根拠(こんきょ)もなければ、目処(めど)すら立っていない。それでも深雪は真正面から奈落を見つめた。  決して冗談ではなく、虚勢(きょせい)を張ったわけでもない。正真正銘の本気だ。  ただ、その言葉が一笑(いっしょう)に付されるだろうという覚悟もしていた。クソチビのくせに生意気言うんじゃねえ、身の(ほど)をわきまえろと。そう嘲笑(ちょうしょう)されても仕方ないという自覚はあった。  しかし、意外なことに奈落は笑わなかった。無言で煙草を咥えて火をつけると、煙とともに吐き出した。 「俺は高いぞ」 「知ってる。でも、金の力は使わない」 「阿呆(あほう)か?」 「そうかもね。でも奈落だって、カネ目当てで六道に従ってるわけじゃないんだろ?」 「……何だと?」  眉根をよせる奈落に深雪は静かに続ける。 「《ヘルハウンド》は世界的に有名な傭兵集団だった……だったら、わざわざ《監獄都市》まで来なくても、もっと羽振(はぶ)りのいい依頼者(クライアント)は、他にいくらでもいたはずだ。それを蹴ってまでこの街に来たんだ。金だけが目的だったとは思えない」  《ヘルハウンド》は時に国家から依頼を受けることさえあったという。それなら、なおさら依頼人には困らなかったはずだ。《監獄都市》は極端(きょくたん)に閉じられた街で、出るにも入るにも膨大(ぼうだい)な手間と手続きがいる。金目当てだけなら、リスクが高すぎる。  そもそも奈落のようなな男が、傲岸不遜(ごうがんふそん)金銭的な報酬(ほうしゅう)だけで、他人の命令を聞いたりするだろうか。深雪にはひどく違和感(いわかん)があるのだった。 「奈落は報酬(ほうしゅう)だけでは雇い主を選ばない。何となく……そういう感じがする。だったら、俺がいくら金を払ったとしても無意味だ……そうだろ?」  再び無言が返ってきて、圧迫されそうな沈黙が下りる。  踏み入ってはならない場所に、踏み込んでしまっただろうか。深雪は内心で冷や汗をかいたものの、意地(いじ)でも視線はそらさなかった。  やがて奈落はあきれたような口調で言う。、 「お前は本当に気色の悪い奴だな」 「それって誉め言葉?」  にっと笑うと、奈落はすかさずチッと不機嫌そうに舌打ちをした。 「調子に乗んな、脳天ぶち抜くぞ」  その返事で、深雪は自分の考えがある程度正しいのだと悟った。奈落は自分のことを言い当てられると、不機嫌になる傾向があるからだ。  気分を害したのか、奈落はそのまま深雪とシロに背を向けかけたところで、ふと思い出したように顔の半分だけ振り返った。 「何を企んでいるのかは知らんが、望みがあるならせいぜい足掻(あが)け。……ただ、これだけは忘れるな。見るに堪えん無様(ぶざま)な姿をさらすなら、たとえ雇用主であろうとその瞬間に……殺す」  朝の澄んだ日の光を受けて、赤みがかった隻眼(せきがん)が無機質な輝きを帯びる。 「……俺を雇うとは、そういうことだ」  抑揚(よくよう)のない、淡々とした声。だからこそ、奈落の言葉は如実(にょじつ)に告げていた。それが決して(おど)しでもなければ、誇張表現(こちょうひょうげん)でもないのだと。  奈落の隻眼は、瞳孔をランランとぎらつかせ、重低音のうなり声をあげる獰猛(どうもう)な獣の姿を思い起こさせた。接しかたを間違えば、取り返しのつかない大怪我(おおけが)をする。半端者(はんぱもの)など、近づいただけで喉笛(のどぶえ)を噛み切られて終わりだ。  だが、深雪は静かに緋の瞳を見つめ返した。  奈落は深雪の言葉を「あり得ない」と一蹴(いっしゅう)したりしなかった。可能性は、わずかでもあるのかもしれない。それを脈ありと考えるのは思い上がりだろうか。  わずかな無言の対峙(たいじ)の後、奈落は今度こそ背を向けると、颯爽(さっそう)と歩き去っていく。朝陽がその輪郭(りんかく)をなぞり、墨のような長い影を地面に描きだしていた。  深雪は目を細め、その大きな背中を見送るのだった。いつか絶対に、あの男に認めさせてみせると。
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