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オリヴィエや神狼も去った後には、深雪とシロだけが残された。
「俺たちも戻ろうか、事務所に」
「うん」
嬉しそうに頷いたシロだが、ぴくっと動きを止めて獣耳を小刻みに動かすと、後ろを振り返って声をはずませた。
「あ、奈落だ!」
「え? 奈落って……おわっ!?」
シロにつられて振り返ると、深雪の真後ろに奈落が立っていて、驚きのあまり仰け反ってしまった。
いつもの事とはいえ、奈落に気配を消されると深雪はなかなか察知できない。これでナイフで斬りつけられでもしたら、間違いなく即死だ。それを考えるとさすがに肝が冷える。
深雪のそんな思考を鋭く嗅ぎつけたのか、奈落は小馬鹿にしたように頬を吊り上げた。
「何をびびってやがる、クソガキ」
「そりゃびびるでしょ。フツーに登場したらいいじゃんか! フツーに正面からさあ!」
抗議の声をあげた深雪はしかし、奈落の姿をまじまじと見て思わず言葉を失った。奈落の右半身は真っ赤なペンキを頭から引っ被ったように、べったりと血に染まっている。
最初は逆光になって気づかなかったが、目が慣れてくると、その異様さに息を吞むばかりだ。
その姿から、深雪は奈落が何をしてきたかを一瞬で悟った。
深雪は奈落のアニムスを直に目にしたことはないが、それがどういうものか、マリアに教えられたので知っている。
奈落のアニムスの名は《ジ・アビス》。映像で目にした光景は、あまりにも常軌を逸していた。奈落の右目から這い出してきた『何か』は一瞬にして狙った者と掴みかかり、容赦なく握り潰してしまったのだ。
見ようによっては、凶悪な姿をした怪物が獲物を喰らいつくしているようにも見える。後には肉片はおろか、骨すら残らない。
だからこそ、今回のような件では奈落の能力はうってつけなのだろう。事務所は最後までジョーカーを《リスト登録》できなかった。それでも六道は《リスト登録》を黙殺し、ジョーカーを仕留める選択をしたのだ。
《監獄都市》において、それは許されざる不法行為だ。超えてはならない一線を越えるのだ。死体を残すわけにはいかなかったのだろう。
奈落は見事にその任務を完遂してのけたのだ。
よほど事が露見しない自信があるのか、奈落は警察がまだ近くにいるというのに、全身に血糊を張りつけたまま、悠然と煙草をふかしている。
こそこそと身を隠す様子もなければ、悪びれる素振りさえない。そのあけすけな態度に、深雪もすっかり脱力してしまった。
(誰にも従わない奴だと思ってたけど、六道の命令は聞くんだな)
《リスト登録》されていないジョーカーを手にかけることは、奈落にとっても相当にリスクが高かったはずだ。この隻眼の傭兵は確かに傲岸不遜だが、自分から好んで危険に足を突っ込むようなリスキーな性格はしていない。
それでも六道の命令に従ったのは金払いが良いからか、それとも六道との間に何かしらの借りでもあるのか。いずれにせよ、よほどの理由があるのだろう。
いったいそれは何なのか。
そう思いを巡らせているうちに、深雪はふとあることに気づいた。
「……あのさ、奈落は六道に雇われているんだよな?」
「それがどうした」
「それってつまり、俺が奈落を雇うこともできるってことか?」
条件さえ満たせば、深雪も奈落と契約を結ぶことができるのではないか。そう思ったのだが、案の定、奈落は路上を這う芋虫でも見つめるかのような冷笑を向けてくる。
「笑わせるな。お前にゃ、そのセリフは百万年はやい」
「分かってるよ。今は確かに無理かもしれない」
今の深雪には何もない。奈落に支払うだけの報酬も、納得させるだけの実力や権力も、何ひとつない。だが深雪はもう、無力な自分に劣等感を抱いていなかった。
「でも、いつかきっと六道より俺を選ばせてみせる」
その言葉を実現できる根拠もなければ、目処すら立っていない。それでも深雪は真正面から奈落を見つめた。
決して冗談ではなく、虚勢を張ったわけでもない。正真正銘の本気だ。
ただ、その言葉が一笑に付されるだろうという覚悟もしていた。クソチビのくせに生意気言うんじゃねえ、身の程をわきまえろと。そう嘲笑されても仕方ないという自覚はあった。
しかし、意外なことに奈落は笑わなかった。無言で煙草を咥えて火をつけると、煙とともに吐き出した。
「俺は高いぞ」
「知ってる。でも、金の力は使わない」
「阿呆か?」
「そうかもね。でも奈落だって、カネ目当てで六道に従ってるわけじゃないんだろ?」
「……何だと?」
眉根をよせる奈落に深雪は静かに続ける。
「《ヘルハウンド》は世界的に有名な傭兵集団だった……だったら、わざわざ《監獄都市》まで来なくても、もっと羽振りのいい依頼者は、他にいくらでもいたはずだ。それを蹴ってまでこの街に来たんだ。金だけが目的だったとは思えない」
《ヘルハウンド》は時に国家から依頼を受けることさえあったという。それなら、なおさら依頼人には困らなかったはずだ。《監獄都市》は極端に閉じられた街で、出るにも入るにも膨大な手間と手続きがいる。金目当てだけなら、リスクが高すぎる。
そもそも奈落のようなな男が、傲岸不遜金銭的な報酬だけで、他人の命令を聞いたりするだろうか。深雪にはひどく違和感があるのだった。
「奈落は報酬だけでは雇い主を選ばない。何となく……そういう感じがする。だったら、俺がいくら金を払ったとしても無意味だ……そうだろ?」
再び無言が返ってきて、圧迫されそうな沈黙が下りる。
踏み入ってはならない場所に、踏み込んでしまっただろうか。深雪は内心で冷や汗をかいたものの、意地でも視線はそらさなかった。
やがて奈落はあきれたような口調で言う。、
「お前は本当に気色の悪い奴だな」
「それって誉め言葉?」
にっと笑うと、奈落はすかさずチッと不機嫌そうに舌打ちをした。
「調子に乗んな、脳天ぶち抜くぞ」
その返事で、深雪は自分の考えがある程度正しいのだと悟った。奈落は自分のことを言い当てられると、不機嫌になる傾向があるからだ。
気分を害したのか、奈落はそのまま深雪とシロに背を向けかけたところで、ふと思い出したように顔の半分だけ振り返った。
「何を企んでいるのかは知らんが、望みがあるならせいぜい足掻け。……ただ、これだけは忘れるな。見るに堪えん無様な姿をさらすなら、たとえ雇用主であろうとその瞬間に……殺す」
朝の澄んだ日の光を受けて、赤みがかった隻眼が無機質な輝きを帯びる。
「……俺を雇うとは、そういうことだ」
抑揚のない、淡々とした声。だからこそ、奈落の言葉は如実に告げていた。それが決して脅しでもなければ、誇張表現でもないのだと。
奈落の隻眼は、瞳孔をランランとぎらつかせ、重低音のうなり声をあげる獰猛な獣の姿を思い起こさせた。接しかたを間違えば、取り返しのつかない大怪我をする。半端者など、近づいただけで喉笛を噛み切られて終わりだ。
だが、深雪は静かに緋の瞳を見つめ返した。
奈落は深雪の言葉を「あり得ない」と一蹴したりしなかった。可能性は、わずかでもあるのかもしれない。それを脈ありと考えるのは思い上がりだろうか。
わずかな無言の対峙の後、奈落は今度こそ背を向けると、颯爽と歩き去っていく。朝陽がその輪郭をなぞり、墨のような長い影を地面に描きだしていた。
深雪は目を細め、その大きな背中を見送るのだった。いつか絶対に、あの男に認めさせてみせると。
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