70人が本棚に入れています
本棚に追加
第45話 流星とマリア
事務所の二階にあるミーティングルームは閑散としていた。
難航していた連続猟奇殺人事件の片がついたせいか、どこか気怠げな空気すら漂っている。
ブラインドから差し込む光が、部屋に浮かぶ埃の粒子をアイスドームのようにきらめかせ、どこか幻想的な光景を作り出していた。奈落がジャックを尋問したときの血痕さえなければ、申し分ないのだが。
そんな中、流星は眉間にしわを寄せたまま、卓上ディスプレイに映し出された、あるデータを見つめていた。
マリアに話があると呼び出されたのは、つい先刻のことだ。仮眠をとるために事務所に戻っていた流星は、正直に言うと少々億劫に感じた。ここ連日、《トウキョウ・ジャック・ザ・リッパー》の模倣犯を突き止めるのに忙しく、睡眠時間を削られる日々が続いていたからだ。
ようやく安眠できると思ったのに、まったく、息をつく暇もない。
だがデータに目を通すうちに、すぐに眠気など吹っ飛んでしまった。目の前には呪文のようなややこしい横文字と数字が羅列している。それは最近、新宿界隈のゴーストギャングたちの間で流行っている、ある薬物の分析結果だった。
それは錠剤型の薬で、使用すると劇的な高揚感や覚醒作用が得られるという。菓子のようなファンシーな包装紙に包まれており、そのお手軽感からか、わずか数週間で爆発的に広まっているという。その名も《CIEL》。フランス語で『天国』という意味だ。
その名を聞いた時から、嫌な予感はしていた。東雲探偵事務所では連続猟奇殺人事件が発生する数日前、《Heaven》という名の薬物を捌いていたゴーストギャング、《タイタン》の拠点を叩いたからだ。
《Heaven》の意味も『天国』。偶然だとは到底、思えない。
調べたところ案の定、《CIEL》の主成分は《Heaven》と、ほぼ一致することが分かった。ただひとつ違うのは、中からアニムス抑制剤が検出されたことだ。その事実は《CIEL》が《Heaven》より数段、厄介な代物であることを物語っていた。
大麻に覚せい剤、ヘロイン、MDMAといった危険薬物は、ゴーストにも効果がある。ところが、そこにアニムス抑制剤を混ぜると、吸収率が一気にあがるのだ。高揚感や覚醒作用が倍になるかわりに、毒性も大幅に増す。実際、《CIEL》を使ったゴーストが急性薬物中毒を起こし、死亡したという報告もいくつか入ってきている。
「やれやれ、次から次へと……よくもまあ飽きねえな」
流星がうんざりしてつぶやくと、ウサギのマスコットが宙に浮かび上がり、のん気にくるくると身を躍らせる。
「ま、こういうのは雨後のタケノコよね~。叩いても叩いても新手が出てきちゃってさあ。いわゆるモグラ叩きってヤツ?」
「ここ最近、《トウキョウ・ジャック・ザ・リッパー》の件だけでギリギリだったからな。ちょっとでも手を緩めると、すぐこれか」
現状で把握できる情報は二つある。
一つは、《CIEL》は《監獄都市》の中だけで蔓延している薬物だということだ。そもそもアニムス抑制剤はゴーストにしか効果がない。アニムスを持たない普通の人間に投与しても変化が見られないのだ。
その点を考慮すると、《CIEL》は明らかにゴーストにターゲットを絞った薬物だといえる。
そして二つ目は、この件は間違いなく大きな組織が裏で糸を引いているということだ。《CIEL》と《Heaven》の成分はほぼ同じ。つまりこの一連の薬物事件は、同じ黒幕の仕業と考えるのが自然だろう。
《CIEL》の拡散はあまりにも急速すぎる。それは裏を返せば、薬物を大量供給できるほどの経済力を持った、巨大組織による仕業だということだ。
おそらく、彼らは《Heaven》で開拓した『市場』を逃すまいとしているのだろう。《タイタン》などのゴーストギャングは、末端の売人に過ぎない。元売りや運び屋、製造者および製造工場を一網打尽にしなければ、マリアの言う通り、いつまでも不毛なモグラ叩きを続けることになる。思わずため息も出ようというものだ。
するとマリアはさして気負った様子もなく、のほほんと片手を振った。
「まあ、ゴキブリ退治だとでも思えばいいじゃない」
「よけいに気が滅入るわ! あー、家で寝てえ。何もかも忘れて爆睡してえ~‼」
流星が頭を抱えて呻くと、マリアはしれっと付け加える。
「おまけに胃薬はいくらあっても足りないし?」
「……おい。何でそれ知ってんだよ!?」
確かに胃薬を服用してはいるが、事務所のメンバーの前で飲んだことは一度もない。それを何故、知っているのか。ぎょっとして聞き咎める流星だが、マリアに悪びれた様子はない。
「深酒するから胃が荒れるのよ。飲んだって時間の無駄だし、金だって食うし、肥満の原因にもなるしで、良いことなんて何もないじゃない。いっそ断酒でもしたら?」
「冗談だろ? 仕事の後の一杯がなかったら、いったい何のために生きてるのか分かんねーじゃねえか!」
「何それ、ただのオッサンじゃない。あ~やだやだ。仕事に追われ、彼女もできず、ひとり寂しく飲むことだけが生き甲斐だなんて……流星ってさ、そんな格好してるくせに、私生活はホント見かけ倒しだよね」
「放っとけ‼ っつーか、他人のプライベート覗くなっつってんだろ!」
マリアの悪いクセだ。他人の私生活を暴くことに一切の躊躇もなければ、罪悪感もない。それでも普段は言うだけ無駄と目をつぶっているが、こうもあからさまに言及されると、さすがに突っ込まざるを得ない。
だが、マリアはコタツで温まる猫のような顔をして聞き流す。
「いやぁ、なかなかにツマンナイひと時でしたわー」
「お前……嬉々として人の心へし折ってくんの、マジやめろって」
反省する素振りさえ見せないマリアに、流星は頭を抱えたくなる。自分のことはまだいいが、マリアがこの悪癖を改めないかぎり、いつか奈落あたりと衝突を起こしそうで気が気ではない。
(結局、自己防衛本能の裏返しなんだろうけどな)
マリアが他人の弱みを握りたがるのは、ただ愉しんでいるからではない。まあ、それも半分は占めているかもしれないが。もっと大きな理由は、いざという時に身を守る術を本能的に求めているからだと流星は思っている。
それが何に起因しているかも承知しているし、折を見てそれとなく注意もしてきたが、本人が改めないのでどうしようもない。
流星にとってマリアは、まさに問題児の妹のような存在だ。
最初のコメントを投稿しよう!