第46話 九曜計都《くよう・けいと》

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 六道は重く沈殿(ちんでん)した空気を振り払おうと、杖を突きつつ自室をあとにした。  薄暗い廊下を抜けて居間をのぞいてみるが、出払っているのか誰もいない。すると、キッチンのほうから軽やかな鼻歌が聞こえてきた。かすかなメロディーに誘われるように足を向けると、勝手口の戸が開いているのが見えた。  その先に広がる中庭に、シロの姿があった。小さなジョウロを片手に鉢植えに水をやっている。どうやら鼻歌は彼女が歌っているものらしい。  中庭はこの洋館の中でもっとも日当たりの良い場所だが、そこに植物棚ができているとは知らなかった。三段に分かれた棚には、様々な色形をしたプランターや鉢がところ狭しと並んでいる。 「これは何という花だ?」  六道が声をかけると、シロは嬉しそうにこちらを振り返った。 「それはね、クレマチスっていうんだって」 「こっちは、シクラメンか」  すらりとした茎と鮮やかなピンク色の花をつけた鉢に目を遣ると、シロは残りの鉢に水やりをしながら「うん」と頷く。 「オルが持ってきてくれたんだよ」  その横顔からは、彼女がどこか心をはずませている様子が見て取れて、六道は少々、意外に思った。  シロはここ数日、元気がなかった。六道の前では気丈に振る舞っていたし、何があったのか詳しく聞くこともなかったが、どうやら雨宮深雪と喧嘩(けんか)をしたものらしい。  それが、今日はすっかり機嫌が直っている。 「……何か良いことでもあったか?」 「えへへ……内緒!」  そう答えながら、鈴のような高く澄んだ笑い声をあげるシロに、六道は思わず目を奪われた。あたたかな春の陽ざしのような笑顔を目にしていると、彼女を事務所へ連れてきた当初のことを思い出した。  その頃のシロは、六道と決して目を合わせようとはしなかった。心に傷を負った野生動物のように毛を逆立たせ、いつもやり場の無い感情を持てあましていた。  シロが、かつて所属していたゴーストチームに戻りたがっているのは六道も知っていたが、彼女は自分がチームにとって望ましい存在ではないことも理解していた。自分の気持ちに折り合いがつけられず、苦しんでいたように思う。  よく窓際に腰かけたまま、ただじっと外ばかりを見つめるシロに、六道は根気よく接し続けた。まともに言葉が交わせるようになるのに、半年もかかった。それを思えば、こうやって穏やかに会話しているのが奇跡のようだ。  やがて水やりを終えたシロは、こちらを気遣うような視線を向ける。 「六道、お腹空いてない? シロ、ご飯を作るのは無理だから……何か買ってくるよ」 「そうだな……」  しかし、六道はシロの気遣いに最後まで答えることはできなかった。  突如、心臓を襲った痛みは、体の中にある内臓を、ひと息に押し潰してしまうほどの激烈さを伴った。  さすがの六道も耐えきれず、がくりと体が傾ぐ。愛用の杖がなかったら、その場で昏倒(こんとう)していただろう。 「六道‼」  シロは悲鳴のような叫び声をあげると、顔を真っ青にして駆け寄る。 「……大……丈夫、だ」  六道はくぐもった声で何とか言葉を吐き出すと、懐からプラスチックボトルを取り出す。そして震える手で蓋を開けると、中からこぼれ出た錠剤を無造作に掴み、口元へ運んだ。  この発作との付き合いも長くなるが、年々症状は深刻になるばかりだ。そのぶん飲む薬の量も増えたが、すでに効き目はほとんど無い。それでも薬を飲むのは、習慣と気休めが半々くらいだ。 「シロ、お水汲んでくる!」  シロはキッチンに駆けこむと、急いでグラスに水を注いで戻ってきた。六道は覚束(おぼつか)ない手でグラスを受け取ると、一気に半分ほどを飲み干す。  しかし、痙攣(けいれん)を起こした胃は水すらも受けつけず、盛大にむせ返ってしまった。六道の隣ではらはらしながら心配そうに見つめていたシロは、消え入りそうな小さな尋ねる。 「六道、このままどこかに行っちゃわないよね……?」  少しでも気を抜けば途切れそうになる意識を繋ぎ止め、全力をかけて頭をもたげると、六道はシロへと視線を向けた。  シロは両目に大粒の涙をたたえたまま、唇を震わせつつ口を開く。 「シロたちを置いて……いなくなったりしないよね……!?」  今にも泣きだしそうな顔を見ていると、「そんなことはない、心配するな」と言って、彼女を安心させてやれたらどんなにいいだろうと、願わずにはいられない。  だが、どんなに()い願おうと、それは願望であって事実ではない。一時の(なぐさ)めのために、六道はシロに噓をつきたくはなかった。その嘘は、将来的に彼女をさらに傷つけることになるから。 「……シロ。人なみな、誰でも死ぬ」  六道は淡々と、無感情に伝えた。彼女を過剰(かじょう)に傷つけないように――さりとて冗談(じょうだん)だと受け止められることもないように。  その途端(とたん)、シロはくしゃっと顔を歪ませて、泣き出したかに思われたが、寸前のところでぐっと唇を嚙みしめる。かろうじて涙をこらえると、そのまま六道の黒いスーツにすがりつくようにして顔を埋めた。 「……嘘。そんなの嘘だよ。六道は強いもん。簡単に死んだりはしない……そうでしょ?」  それはとても小さなささやきだったが、今にも泣きだしそうな声音とは違う。こちらを鼓舞(こぶ)するかのような、凛とした響きがあった。シロなりに六道を励まそうとしているのだろう。 「……ああ、そうだな。……その通りだ」  六道は、自由の利くほうの手でシロの頭をそっと撫でた。  シロの言う通りだ。体はとうにガタがきていて崩壊寸前だ。だがそれでも弱気にとらわれて、前に進むことを躊躇(ためらう)べきではない。《中立地帯の死神》は、まだこの街には必要な存在なのだから。  たとえ、終わりがすぐそこまで忍び寄っているのだとしても。 ✜✜✜✜✜✜ ✜✜✜✜✜✜ ✜✜✜✜✜✜  しばらくして発作は収まり、何とか立ち上がれるまでになった。六道はなおも心配するシロをなだめると部屋へと帰す。  そして自室へ戻ろうと、杖を突きつつ事務所の廊下を進んでいたその時、玄関のほうから足音が聞こえてきた。  六道は立ち止まって足音の主が姿をあらわすのを待つ。  雨宮深雪はこちらに気づくと、かすかに顔が強張らせたものの、次の瞬間、ぐっとあごを引いて顔を引きしめた。 「……今日は目をそらさないんだな?」  そう言って頬を吊り上げる六道を、雨宮深雪はまっすぐに見つめたまま、静かに答える。 「逃げないって……そう決めたんだ」 「……。いい心がけだ」  交わした言葉は、ただそれだけだった。二人はそのまま無言ですれ違う。横目で窺うと、深雪は一度も下を向くことなく、顔を上げて歩き続けていた。  その背中を、六道は何かまぶしいものを見るかのように見送った。ここに来て変わったのはシロだけではない。雨宮深雪もずいぶん変わった。  二十年ぶりにその姿を目にした時、雨宮深雪は世界のすべてと、何より自分に大きな恐れを抱き、見るに堪えないほど卑屈(ひくつ)な目をしていた。《ウロボロス》を率いていた時の威風堂々(いふうどうどう)とした姿を思うと、まるで同じ顔をした別人のように感じたものだ。  彼は《ウロボロス》を壊滅(かいめつ)へと陥れた張本人(ちょうほんにん)だ。それを当然と思う一方で、どこか失望している自分もいた。  だが、雨宮深雪は変わった。  と言っても、《ウロボロス》時代に戻ったわけではない。  六道が《ウロボロス》に入った時、チームは東京屈指(くっし)の大所帯になっていた。あの頃の雨宮深雪の姿は、今でもよく覚えている。当時の彼は威圧(いあつ)と恐怖でチームのメンバーを支配していた。  命令に逆らえばどうなるか。雨宮深雪が口を開くたび、チームには異常ともいえるほどの緊張が走った。  ただ最後を除けば、悪いリーダーだったとは思わない。実際、暴走しがちだったチームをよく抑えていたと思う。しかし、それはどこか不自然で、歯車が噛み合っていないようなぎこちなさを伴っていた。本人としても相当に無理をし、虚勢を張っていたのだろう。昔にくらべると、今はかなり肩の力が抜けたように感じる。  良い傾向だ、と六道は思う。  いや、そうでなければ本人が望んでいないのを承知で、強引に東雲探偵事務所に引きずりこんだ意味がない。  雨宮深雪は、これからも変化し続けていくだろう。時に柔軟に、時にしなやかに、時に毅然として、困難な現実に立ち向かっていくだろう。  終着点の見えている自分とは違い、彼の目の前には広々とした大海原が広がっている。  六道はそのことに大きな満足感と、わずかばかりの嫉妬を覚えていた。
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