彼と私

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彼と私

「何故ここへ来た?」 「――死にたくなったので」 「意味が分からない」  消毒液の匂いが充満する保健室で、私は彼と対峙していた。  時計の針は午後九時を指している。多くの学生はとうに帰宅していて、残っているのは卒研に追われた四年生か、はたまた部活動生か。  窓の外は暗く街頭の灯もほとんどない。  帰宅準備をしていたらしい産業医の神谷(かみや)先生は、私を見て真剣に首を傾げた。 「キミが死にたいのは分かった。何かあったのか?」 「特には」 「何もないのに死にたいのか」 「何故でしょうね」 「知らん。とりあえず座れ」  フカフカのソファを勧められ、遠慮なく座る。これが私と先生の出会いだった。  疲れた私を憐れむような眼差しで見据える彼が、実は少し怖いと感じていたことは、私だけの秘密である。 「名前は?」 「瀬名(せな)紗智(さち)です」  ノートを開き、彼はカタカナで私の名前を書いた。六ミリの罫線からはみ出すことなく、彼によって文字が均等に並べられていく。 「文字、綺麗ですね」 「そうか?」 「読みやすくて好きですよ」  そう言って先生を見ると、彼は無言で目を逸らす。無駄話を聴いてくれる気は無いらしい。 「もう一度聴く。何があった?」 「……やっぱり、何もないです。こんな時間に来てすみませんでした」  今日はもう帰ります。  そう言って勢い良く立ち上がる。彼は私が逃げてしまうと思ったのか、勢いよく腕を掴んだ。帰ろうとしていた私は、再びソファに腰を下ろす。 「痛いです」 「それに関しては謝る。ただ、キミはこれで良いのか」 「何がです?」 「誰にも言わなくても、その問題は解決出来るのか」  彼の問いにゆっくりと頷く。  死にたい。  口癖みたいなものだ。嫌なことがあったり疲れたりしたら、ついうっかり死にたいなんて言ってしまう。でも、本当は死ぬ勇気なんかない。  ただ、みんなに心配して欲しいだけ。放っておけば、この気持ちは消えてなくなる。私の問題なんてそのレベルのものだし、他人に迷惑かけてまで解決するほどのことでもない。 「別に、先生の手を煩わせるほどのことでもありませんから。迷惑かけてすみませんでした。じゃあ今度こそ帰りますね」 「明日も」 「はい?」  難しい顔をした彼は、明日も来いと手の力を強める。手首に伝わる先生の手は、ほんのりと温かかった。 「行けたら行きますね」  私の手首を握っている彼の手を剥がし、机に戻す。案外あっさり解放してくれたことに驚きつつ、踵を返し保健室を後にした。
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