前編 芸術家の彼の話

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前編 芸術家の彼の話

 目が覚めると最初に視界に映ったのは白いテーブルに白いベットだ。私の家は真っ白なもので飾られていた。私は個展などもするアーティストで風景など描写することに長けていると自負している。日課であるデッサンをしようとスケッチブックと鉛筆を手に取ったが何度も紙に鉛筆を滑らせているのに物の輪郭を表現することができない。デッサンの白に鉛筆の色が溶け込んでしまう。確かに描いていて見てみると芯も丸みを帯びてきているのだが、どうしてなのか。    私は幼馴染で医者をしている青柳に連絡した。  青柳の前の椅子に座る。 「久しぶりだね」  私は、この男の温和な雰囲気が苦手で学生のときならまだしも大人になるにつれて連絡することが少なくなり疎遠になっていた。 「絵を描いているはずなのに、紙に描いた物の輪郭が見えなくて……。青柳、どうしてこうなっているかわかるかい?」 「うーん、もう少し詳しいことを聞かないとまだなんとも言えないな」  詳しいことか。私も今日変だなと思ったばかりだから、あまり言えることはない。 「あ、そういえば。以前描いた絵が真っ白になっていた。これも関係があったりしないか」  ぱちぱち、と男の真っ白な睫毛が上下する。 「真っ白な絵か……今はわからないな。僕の方でも調べておこう。わかったら連絡するね」  あまり関わりたくなかったこの男に相談したのは男が医者でもあったからだ。口が軽い男ではないので、他人に私の相談事を話すことはないだろう。  鏡に映った私の顔は、昨日の私の顔と変わりないだろうか。睫毛が抜けて少なくなっているわけではない。前髪も切れて変に短くなっているわけじゃない。では何が変わっているのだろうか。何に違和感を感じているのだろうか。  白い髪が左目にかかって少しこそばゆい。  うん? 髪の毛が白い? 元から白かったのだろうか。そう鏡に映る自分の姿に疑問を抱く。本当に元から白い髪の毛だったのか?  家に帰るとモップのような愛犬が迎えてくれた。ふんふん、と冷たい鼻を手に押し付けられる。お返しにガバッと抱きしめて抱えて、リビングのカーペットに降ろした。  頭を撫でてやると、小さな尻尾を激しく動かして喜んだ。私は口から溜息を吐いた。 「おまえは気楽でいいよな」  犬は伏せてくぅーんと鳴いた。 「青柳は考えすぎだと言うが、私は違和感を感じ続けているんだ」  何かがおかしいのは確かだった。犬を相手に私は解決しないことへのもどかしさを語っていた。  青柳に私の髪の毛は元から白かったかと聞いたが、白かったと言われてしまった。では、自分の姿に抱いた違和感は気のせいなのだろうか。    今まで描いた絵を見てみたが、全て何も描かれていないように見えた。でも、それが評価され続けているのだから、見えていないのは私だけなのではないだろうか。  三回目、青柳に会いに自宅まで行った。 「なあ、私がおかしいのか?」  青柳は口を引き結んだまま、私と目を合わせなかった。しばらくして、ぽつりぽつりと話し始めた。 「斎藤、君は物の輪郭を描くことができないと僕に相談したけど、それよりも前に一度会ってるんだ」  そんなわけないはずなのに、何故か言葉がでない。 「君は事故で目を負傷したんだ。本当は見えてない筈なんだよ?でも、君は色は白しか見えてないけど、それでも以前と同じように暮らせている」  そんなこと信じたくない。 「じゃあ、私がおかしくなっているのか? この視界に映っているのは偽物なのか?! お前には私がどう見える?」 「君は何も変わってないよ。でも、もう絵は描けないと思う」  残酷な言葉だった。  何もかもどうでも良くなった私は、ベッドから起き上がることがない寝たきりの生活をしていた。私には絵が全てだった。存在するもの、架空のものを目に見える形で表現することを愛していたのに、もうできなくなってしまった。  夢を見ているのか、いつしか枕元に青柳がいることが多くなった。  夢の中の青柳は身勝手な言葉を私に語りかけてくる。 「絵が描けなくてもいいじゃないか」  駄目なんだ。 「別のことをしてみよう」  そうしようと思えない。 「たまには外にでよう」  どうでもいい。 「ねえ、お願いだから死なないで……」  私は死んでしまいたかった。  でも、本気で死のうと何かしたことはなくて、たまに起きて最低限のことをするようになる。  ある日、私はなんとなく髭を剃ろうと思った。  洗面所で髭を剃っていると手元が狂って肌を切ってしまった。それだけの話の筈だった。血が白であれば。 「……これは」  ぺたりと指についた血は、そう青色をしていた。  私は青色が空の色だということを思い出した。  枯れていた創作意欲が湧き出てきて、私をわくわくさせた。白と青はそれがあればいろいろな物が描けるんだ。デッサンや色鉛筆中心の絵を描いていた私には絵の具を使った絵は上手く描けなかったが、完成した空の絵は私を満たした。  血で絵を描くのは褒められるようなものではないとわかってはいたけど、やめられなかった。  青柳は、夢ではなく本当に私のことを心配して見に来ていたようだった。それに気づいたのは、絵を完成させて腕を止血しているときだ。 「ねえ!! なにやってるの!」  痛みを感じない強さで手首を掴まれる。青柳は今にも泣き出しそうな顔で、私の傷を見ていた。 「絵が描けたんだ。得意のデッサンじゃなくて、絵の具で描くような絵を書いたんだけど」  自分に見えている絵は青柳には酷いものに見えたのかもしれない。でも、私は絵を描けて嬉しかった。 「本当の空はね、✕✕色なんだよ……」  青柳の声は一部聞き取れなかった。  季節は凍えそうな冬になった。  寒さで布団に丸まって過ごすことが増えた。アトリエはエアコンの温かい風が入らないので、外同じくらい寒くなってしまっているので、大きな絵を描くのはしばらくお預けだ。  私が白と青しか見えなくなって半年経つ、青柳は今でも私に会いに来ている。ごはんを食べるのを忘れることがあるからか、よくごはんを作って食べさせてくれる。真っ白の料理、見た目味気ないけど味はとても美味しいので自分で作ったものよりも好きだった。  最初は私が空や海を描くことにあまり良い顔をしていなくて、やめさせたいみたいだったけど私の生きる気力になっていると思えたのか、今では受け入れてくれている。  苦手だったはずの青柳を私はそう思わなくなっていた。  椅子に座って、うつらうつらしていると窓に何か見えたよう気がした。眠気を覚ますために体を伸ばした後、外を覗いてみると驚きの光景があった。 「え!」  小中の大きさの赤い雪が降っていた。  私はコートを羽織って、仕舞い込んでいた手袋とマフラーを身に着けて外に飛び出した。  ざくざくと踏みしめる度に良い音がする。走って走って、私は転んでしまった。起き上がると顔が冷たかった。雪には私の人形の穴が空いていた。  ああ楽しかった。いい大人がすることじゃないと思うけど、楽しくてやめられない。私は雪だるまを作るために転がしていた。 「斎藤!? 何やってるの!?」  雪だるまの頭を乗せようしていたら、青柳が寒さで白い息を吐きながら駆け寄ってきた。  頭に積もる雪を遮るためか、傘をかざされる。 「青柳もやろうよ」  雪を丸めてぶつける。至近距離で突然のことだったからよけられることはなかった。 「いつから、外に出てたの? いや、もう家に入ろうよ? 風邪引いちゃうよ」  青柳は乗り気じゃないようだった。残念だったけど私も風邪を引いて、絵が描けなくなってしまうと困るので家に入ることにした。  家に入るとタオルで頭を拭かれる。 そういえば、楽しくて忘れていたけど雪は赤だった。それを青柳に伝えると不思議だねと笑った。 「雪は白の筈なんだけどね……」  最近、なんだかふわふわする。意識が朦朧とするよりも、気持ちがふわふわした。ちょっとしたことで楽しくなる。それが特に酷くなるときがあって、青柳はそういうときは水をたくさん飲ませてくるんだけど、何故だろうか。
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