kiss. 6

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◇  Kandyの店長の沖野将司の予約が10時に入っている。  左手首の黒の時計は、10時20分。10分以上の遅れは、もうキャンセル扱いに等しい。  10分前に三井さんが電話で連絡したが、繋がらなかった。 「最悪!せっかく、カラーとカットとスパもするって言って3時間の枠を開けたのに。損害賠償を請求してやりたいぐらいだわ。律ならカット2、3件は入れられたのに」 「いや、3件は入れすぎっすよ」  橘が俺の代わりに返事をして、まぁまぁ、とジェスチャーで三井さんを(なだ)めている。  高野さんは鏡の前で客のカウンセリング中だった。 「律、ごめんね。せっかく他の人の予約もずらして、調節したのにね……」 「いや、別に……」  いいっすよ、と視線をカウンターのパソコンに移す。  自分の名前の枠を確認すると次の予約は13時半。それからはラストまでの予約は埋まっていた。 「店長、もう沖野さんはキャンセルですよね?」  三井さんは、当然ね、と頷いた。 「じゃあ、俺がこの時間使ってカット入れてもいいですか?」 「……律が?別にいいけど……、誰かカットーーー」  三井さんの頭の言葉だけを聞いて、俺は店の扉に向かった。 「っしゃ!じゃ、連れて来ます」  言い終わる前に俺は店から飛び出し、履いていたボトムスのポケットからスマホを取り出した。  すぐ、目的の人物に電話を掛ける。  連絡先は前に家に行った時に聞いていた。  しつこく鳴らしたが返事はない。今日を逃すと、3ヶ月待たせるかもしれない。おとはは待てるだろうが、俺は待てない。  足は自然に走り出していた。スマホを耳に当てながら、おとはが務めている動物病院を目指す。行った事はないが、陽一郎から話は聞いていた。  コールの返事がないため、一旦諦めて、マップ検索のアプリを起動する。 「篠原げんき動物病院」と入力すると徒歩で10分程度の距離だった。  方向を確認して、足をぐんと前に出す。  最後に走ったのいつだったっけ。  忘れたな。  目的地にはすぐに着いた。  Moodyがある通りとは違って、八百屋、文房具店、魚屋と日常的な生活の雰囲気が漂う。店の作り自体も昔ながらのものが多く、通る人も40代、50代ぐらいの人が多い。ガラス越しの壁に「篠原げんき動物病院」と青い文字で表示されている。  ガラス扉の向こうにおとはの姿が見えた。  いつもの地味なジャージ姿。髪はボサボサまではいかないが、ふわっと広がっている。銀の扉の取手を持って押して入る。  久しぶりに走ったからか、息が切れる。 「っ、お、とは、ちょっといい?」 「拓未?」  受診待ちの動物は居ない様子だった。  小柄な60代ぐらいの白髪混じりの、陽一郎によく似た男性が奥から出てきた。俺を見て、首を傾げている。 「今、忙しい?ちょっと時間できたから、髪できるけど」 「髪?」 「そう、切ろうかなって言ってただろ?」 「あぁ、言ったね。……え?今から?」 「そう、今から。予約キャンセルになって空きができて。また空き待ちになるなら、いつになるか分からないから。急いで来た。店でトリートメントとかスパとかしたいだろ?」 「スパ?って何?床屋でそんなことした事ないから、いいよ、散髪だけで」  散髪って。  せめてカットって言えよ。  言葉のチョイスに笑ってしまう。  その様子を見ていた、60代の男性が声をあげた。 「最近の男の子はオシャレなんだな。おとはよりよっぽど綺麗な子が来たから何かと思ったけど……」 「あ、すみません。来て早々、俺、律川拓未と言います。陽一郎の同級生です」 「あ、丁寧にどうも。僕は篠原洋介です。おとはと陽一郎の父です」  挨拶を返し、父親かと思うと一気に緊張した。  勢いでいきなり職場まで押しかけて非常識だと思われてないかと不安になった。 「仕事で美容師をしています。時間枠が空いたので、おとはさんのカットが出来たらと思って来ました。突然押しかけて、すみません。どうしても、俺が早くカットしたくて」  本音が漏れて、あ、と思ったが、おとはの父親は、はは、と明るく笑った。  笑い顔も陽一郎そっくりだった。すっきりとした明朗な笑い方。 「それは、見た目にこだわらない娘にはありがたい申し出だな」 「でも、今、時間大丈夫ですか?」  周りに動物を連れて受診している人はいないが、仕事の都合もある。 「午後から狂犬病の予防接種が何件か入ってるけど、それまでは大丈夫」  おとはが返事をして、紺色のジャージ生地の上着を羽織り始めた。 「それまでには終わる」  俺の返事を聞くと、おとはは、じゃあ、お父さん行ってくる、と声を掛けて俺より先に店を出た。 おとはの父親に頭を下げ、小柄な広がった髪の女の背中を追いかけた。 「急にごめん、早くカットしたくってさ」  おとはは振り向いて、笑った。 「びっくりしたけどね。走って来たの?」  彼女は立ち止まって、俺の顔に手を伸ばした。  手が俺の頬に触れる。 「赤くなってるよ。ちょっとあったかいし。そんなに急いで来たんだね」  大きな瞳で俺を見上げている。  可愛いな、抱きしめてしまいたい。  走って来てよかった。  そう思って、ここが歩道で人通りがあったことを思い出す。 「まぁな、とりあえず、店行くぞ」  パッと顔を逸らして、店に足を進めた。
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