kiss. 6

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◇  おとはのジャージ姿に慣れてしまって忘れていたが、さすがにMoodyの店内ではその格好は浮いていた。場違い感が凄い。  出入り口付近の群青と灰色のボックスソファに座っているおとはをカウンターから眺めて、笑みが溢れてしまう。 「………拓未。さすがのわたしでもこの格好はここでは違うって分かるよ」  俺は、はは、と笑って、おとはの名前を予約枠に入力した。  時間は10時40分。タイムリミットは昼まで。  服を買うのなら、なるべく早く仕上げたい。 「服、後で一緒に見に行こう」  その言葉に、おとはは、そこまでしなくていい、と尻窄みに答えた。あ、これもコケ野郎にされた事ないな。そう思うとまた笑いがこみ上げそうになる。 「………律さん」  橘が眉を寄せて、俺を見た。 「何?」  名前を入力し終わって、空いている席を見た。 「あの人、篠原さん?下の名前で律さんの事呼んでましたけど、いいんですか?」  あ、そうだな。  橘は、俺が拓未と呼ばれることを嫌っている事を知っている。なんなら、拓未呼びをした人に俺が舌打ちした瞬間さえ見たことがある。 「あ〜、おとはは特別だから」  橘はその返事を聞いて、固まった。俺はカウンターから出て、窓側の空いている席におとはを案内する。 「おとは、こっち、来て」  窓側の席は午前の冬の光が注いでいる。  陽射しが入り込み、ナチュラルベージュのフローリングを照らしている。栗色のふわふわの髪の毛が俺の目の前に座って、嬉しすぎて笑ってしまう。  手を伸ばして髪に触れる。震えてはないけど、緊張はする。初めて髪の毛をドライヤーで乾かした時と同じ心境。上手くできるかって言う不安。  だから俺はヤった事ない童貞じゃねーつーの。なんならカットだしな。  細く色素の薄い髪が手のひらで輝いている。 「長さ、どうする?」  鏡越しにおとはを見る。  大きな瞳が、鏡の俺を見返す。 「長さはね、髪の毛が早く乾くように短くしてもいいよ。まとまりやすくなるんだったら、拓未に任せる」  その言葉に絶句する。  まさかのおとはからのおまかせ発言。  俺、どうしよ。 「律川、もう笑うんだったら笑えよ。変な顔でにまにますんなよ。他の客と橘の動揺が広がってヤバいから」  低い威圧的な声が俺のすぐ後ろでして、鏡越しに長身で黒髪の短髪を捉えた。 「……いや、」  奈良崎さんは、なんだよ、と眉を寄せて俺を見た。 「いや、嬉しすぎて。俺、今、ガッツポーズしたやつの気持ちがやっと分かった感じです」 「………それは、良かったな。普段からその笑顔を接客に使えよ」  その言葉に返事はせずに、おとはをシャンプー台に案内した。おとはにシャンプー用のケープを掛けて、椅子を倒す。小柄な彼女は台まで少し高さが足りなかった。 「おとは、もうちょっと上に来れる?」  おとはは慣れないのかモゾモゾして中々上がって来ない。  俺は彼女の両脇に手を入れて軽く持ち上げた。 「ちょ、拓未?」  おとはが声を出して、俺はそれに笑ってしまった。 「軽っ。俺の事ガリガリ扱いするくせに、おとはも軽いから」 「わたしは身軽なのよ。ほら、動物と動きを合わせないといけないでしょ?」 「動き合わせるって、獣医だろ?その言い方だと自分も動物みたいだけど」 「わたしは動物じゃないから」  はは、笑ってしまう。  おとはも十分、動物っぽいけどな。  小柄でふわふわな見た目なのに、中身は噛み付いてくるぐらい凶暴。  リスっぽいな。簡単に懐かなくってエサも誰の手からも受け取らないくせに、エサを盗もうと画策している感じ。エサ欲しいんだったら素直に受け取れよって言いたいけど、言ったら睨んで益々受け取らなくなる。  めんどくさいけど、そこが可愛い。 「じゃあ、洗ってくから」  おとはの顔にガーゼ状のタオルを掛けた。温水を頭に当てる。 「これ、温度大丈夫?熱かったら言って」 「うん、大丈夫」  返事を聞き、全体の髪を濡らして、シャンプーをする。 「このシャンプーさ、バニラの香りなんだけど、どう?」 「なんか、美味しそうな匂いだね」  俺は洗っている頭に鼻を寄せた。 「確かに、言われてみれば美味そうだな」 「アイスクリームと一緒」  おとはは楽しそうに声をあげた。  俺は、そうだな、と返事をしてシャンプーした後、泡を洗い流した。  軽く髪をタオルドライして、椅子をあげて、タオルで髪を包んでまとめた。  おとはの顔を覗き込む。大きな瞳に下まつ毛が長い。  額も広い。  顎は小さい。  耳は顔のバランス的には大きい。  右目の下のほくろが可愛い。  髪をまとめた事で顔がよく見える。 「何よ?」  おとはが眉を寄せて、訝しげな声をあげた。 「いや、可愛いから見てただけ」  言った後に、周りの視線がこっちに向いたのが分かった。  高野さんに至っては声をあげて笑っていた。距離がある鏡の椅子の前でカットをしているのに、シャンプー台での会話が聞こえたのか。 「……拓未さ、懐いたら素直なのはいいけど、ちょっと場所を考えた方がいいんじゃない?わたし、30過ぎだし、そんな女にしょっちゅうそれ言うのはどうかと思うけど…」  その言葉にムッとする。 「仕方ないだろ。可愛いって思ってたら、口から出たんだから」 「……いや、だから」  おとはは視線を逸らして、下を向いた。  耳がピンクになっている。  あ〜、ヤバいな。可愛過ぎるな。  人目がなかったら、キスしてたかもしれない。  ダメだ、今はカットが先だ。 「じゃ、こっち来て、髪乾かすから」  俺が手を引くと、おとはは素直に引かれて、窓側の席に来た。席に座らせて、タオルを取る。鏡に濡れた髪の30には見えない童顔の女が映っている。ドライヤーを取って髪に当てる。  俺が髪を乾かしていると隣の席でカットしていた高野さんに三井さんが近づいた。高野さんに話しかけている。 「律、ヤバいね」 「律さんじゃないですよ、あれは」  橘が返事をした。 「いや、律は女の犠牲になるタイプだから、あれが本来の姿だよ」  高野さんが小さく笑う。 「高野さん、前もそれ言ってましたけど、律さんが勝手に女の人に好かれて、女の人の方が犠牲になるんじゃないですか?」 「橘は分かってないな。だから、橘なんだよ」 「それ、どーゆう意味ですか?律さんの事なら俺、かなり見てます」 「いや、律のことなら、俺の方が分かってるね」 「……2人で律が好きなこと競わなくていいから」  三井さんの言葉で、橘は、は〜あ、とため息をついて、カウンターに向かった。高野さんは手を客の頭に戻した。 「……律川にこの前、誠意、全力つったの俺だけど、あれはどうなんだ?開き直りすぎじゃないのか」  奈良崎さんが三井さんに話しかけていたが、俺は全部無視してドライヤーを掛けた。  8割方乾かして、黒座面のキャスター付きの丸椅子に腰掛ける。 「おとは、髪の毛結べないぐらい切ろうと思うけど、いい?」 「いいよ。首に髪の毛当たってちょっと邪魔だったから、思いっきり切っていい」  潔い女だな。  床屋に行っていただけの事はある。  俺はシザーとコームを持って、カットを始めた。シャシャシャと細い栗色の髪が刃先に切断されて、白いケープを滑り落ちていく。ミディアムからショートにする。耳の形が綺麗で、目が大きいからショートが似合うと思う。耳には髪をかけられるぐらい。後ろは絶壁じゃないけど、丸みを少し持たせて。前髪は眉上でアシメに。  おとははスマホも雑誌も見ずに俺の手の動きを見ている。  あまりにも凝視されるので、落ち着かない。 「………なんか、読む?」  おとはは笑って、ううん、と首を振った。 「いいよ、読まなくて。すぐに散髪終わっちゃうでしょ?拓未が働くとこ見てる」  その言葉に一気に緊張する。  おとはは本当に俺の感情を振り回す天才だと思う。右手のシザーを持ち直し、全体の長さをショートに整える。前髪を切ろうと立ち上がって、両腕を前髪に回す。大きい瞳が目を伏せた。前髪をコームですくって、短くする。 「なぁ、前髪、切ってもいいか?」  本当なら、どうするって、聞くんだけど、お任せって言ってたから。俺の好きにしていい?の確認を込めて。 「うん、いいよ。短くなっても、伸びるでしょ」  その返事に笑った。 「了解」  さすがおとはだよな、俺の予想の上を行って、潔すぎて笑ってしまう。  男かよ、もっと見た目にこだわれよって言いたくなる。  でも、これが彼女の良いところであり、俺を惹きつけている所なんだろうな。 「拓未、そんなに髪の毛切るの楽しいんだね」  おとはは鏡越しに俺の顔を見た。 「……まぁ、嫌いではないな」 「好きな仕事してるっていいよね」  目を伏せて、少し苦い表情を浮かべる。  いいっていいながら、別の事考えてる顔。大体、この表情を浮かべているとき、おとははコケ野郎の事を考えている。腹が立つ。今、髪の毛触って、1番近くにいる男は俺なんだけど、と醜態を晒しても言いたくなる。 「だから、待っておけばいいんだよ。好きなだけ。……待ちきれないんなら探しに行け」  本当は行かれたら困るけど、俺は苦い表情を浮かべて悲しくなっているおとはを見る方が嫌だ。 「……アフリカに?」  おとはは俺の言葉に驚いたような表情を浮かべた。  やっぱり、コケ野郎の事考えてたのか。 「そうだよ。探しに行けばいいだろ、見つけて、睨みつけるんだろ?で、噛み付くんじゃねぇの」  おとはは返事はせずに、小さく笑った。 「……拓未、わたしの事分かってるね」 「屈折してるって事はよく分かってるつもり」  きっと、おとはは、好きじゃない、待ってない、ってコケ野郎には言うんだろうな。で、俺が見たこともない顔でその後、絶対、甘えるはずだ。それが悔しい。おいでって言わずに、自分からコケ野郎には寄っていく。もう懐き切ってるから。 「分かりたくないけどな」  そこまで言って、セニングのため後ろ髪に手を伸ばした。
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