kiss. 6

5/9

4020人が本棚に入れています
本棚に追加
/89ページ
 髪を切り終わって、化粧も軽くだけした。おとはは、しなくていいって、言って断ってたけど、俺がしたい、となんとか押し切った。  鏡にショートカットの可憐な女性が映った。綺麗で可愛くて、色気もある、なんて口に出したら笑われるか。でも、それぐらい俺には魅力的だ。  髪の毛を切り、少し化粧をするだけで、ジャージを着ていても変わるから女は怖い。怖いけど、可愛い。  これはおとはが俺にお任せって言ったから出来た、と柄にもなく自慢したくなる。けど、同時に誰にも見せたくない気持ちにもなる。 「篠原さん、見違えましたね〜ジャージが残念ですけど」  橘はそう言って、おとはに笑いかけた。 「ジャージは便利だよ〜汚れても、気にならないしね。この場所では浮いてるけどね」  笑って会話をしている。  時計を見ると11時20分。  ヘッドスパ、トリートメントをして服を近くのセレクトショップで選べば、昼までには間に合うか。 「おとはもう一回、流す」 「うん」 シャンプー台に移動して椅子を倒すと、彼女は言われる前に頭を台の所まで移動してきた。 「また、抱き上げて移動してもいいのに」  俺がそう言うと、顔を少し赤くして目線を逸らした。  顔を見て居たかったけれど、時間がない。  顔にガーゼをかけて、頭を洗う。スパ用のシャンプーを取って泡を立てる。 「これは柑橘系の香り。さっきのバニラより甘くないけど、さっぱりした感じ。どう?」 「……これはミカンみたいな匂いだね」 「おとは、食べ物ばっかりだな」  はは、と笑っていると、高野さんの客に、律くん、声出して笑ってるね、と話しかけられた。彼女は横のシャンプー台に座って、俺の背中越しに言った。 「律くんが声出して笑ってるとか、木下さんが聞いたら、驚きそう」 「……木下さんってあの駅の裏の雑貨屋の木下葉子さんですか?」 「そう、私あの店の客で。この店の事オススメされて来たのよ。律くんを勧められたけど、予約が一杯で。高野くんも一杯だったけど、やっと2ヶ月待ちで今日カラーとカット」 「お待たせしました」  高野さんはそう言って椅子を倒した。 「律くんあんまり喋らないじゃない?だから、高野くんが担当で良かったかな〜て思ってたんだけど、意外と喋るんだって今日、発見した」 「律は、喋りますよ。特に髪の事とか。今日笑ってるのはまぁ、ちょっとした誤作動でしょうけどね」  高野さんはそう言って、小さく笑った。 「……誤作動って」  おとはが言い直して笑った。 「高野さん、俺だって、笑いますよ」 「「いや、声出してるのは見た事ない」」  橘と高野さんの声が同時にする。  また聞いてたのかよ。仕事しろ、仕事。 「もう、俺が笑うってネタ飽きてくださいよ」  俺は手についたシャンプーを流しながら言う。 「いや、律がこれだけ無駄話して、しかもちゃんと会話してるのは珍しいから。いつもならスルーだけど。篠原さん、毎日来てくださいよ」 「……え?わたし?」  おとはは驚いた声をあげた。 「そうですよ。篠原さんに向かって律はずっと笑ってますから。これだけ笑ってたら、律が本当は素直で真面目って事が分かると思うんだけど」  高野さんがそんなことを大真面目に言うもんだから恥ずかしくなる。 「おとは、泡、流す」  俺が短く言うと、うん、と返事が返って来た。 「ほら、返事ひとつでまた笑ってる」  高野さんは俺の顔を一瞬見て、笑った。 「………いや、仕方ないですよ。もう、おとはの髪触るだけで嬉しいですから」 「………え〜、ヤダ、もう、こっちが照れるから。木下さんがこの前、律くんが素直って言ってたのこれだったのね〜」  横に座った客は足を以前見た木下さんみたいにバタつかせて声をあげた。 「……拓未はみんなに好かれてるのね」  おとはの言葉に体温が上がるのを感じる。  好きって。  俺が1番それを向けてるのはおとはに対してなんだけど。  シャワーで泡を流し切って、短くなった髪を優しくタオルドライする。トリートメントを手にとって、両手で馴染ませて、毛先に揉み込む。手触りが一瞬でツルツルになる。 「ちょっと時間置くわ」  おとはに声をかけて、自分の手を流して、暖かいタオルを保温機から取り出す。顔周りを拭いて、首に丸めた暖かいタオルを置く。  2分程度そのままで待つ。 「時間経ったから、流す」 「うん」  返事を確認して、トリートメントを流す。  栗色の髪が艶めいた。短いふわふわを頭を撫でるように洗い流す。流れたところで、湯を止める。  乾いたタオルを取って抑えるように水分を拭き取る。  椅子を起こして時計を見ると11時30分。  鏡の前の席に移動してドライヤーをかけると、一気に乾いた。量を、飛ばずに広がらない長さで抑えたから適当に乾かしてもそこまで広がらない。 後頭部のところはふわふわしていて触り心地がいい。  何回も確認するふりして触る。  今触るのは堂々と触れられる。ってこの考えを持ってる時点でヨコシマか。 「どう、これでだいぶ扱いやすくなったと思うけど」  そう言って、後頭部も見えるように後ろから鏡を広げて、正面の鏡に映す。 「うん、ありがとう。さっぱりした」  礼の言葉一つで嬉しくなる。 「それは、良かった」  短く返事をして、ケープを外す。化粧もして、髪型を変えたおとははいつもより輝きを増している気がする。でも、ジャージだ。ジャージでも可愛いが、トータルで揃えるなら、服を変えたい。 「服、見に行くか?」  俺の言葉におとはは首を振った。 「今日はここまでしてもらったから、いいよ。この後、拓未の仕事もあるでしょ?」  彼女はそう言って、カウンターに向かった。  俺は向かったその手を掴んだ。 「いや、違う。服も俺が選びたいだけ」 「……じゃあ、お願いしようかな」  その言葉に嬉しくなる。  周りを見るとまた高野さんが声を出して笑っていた。店長の姿を探すとカウンターで首を振りながらこっちを見ていた。 「あ、店長、次の予約まで、外出て来ます」 「……律、気をつけて。あと、まぁ、色々、頑張って」  最後の言葉の意味がよく分からなかったが、おとはの手を持って店を出た。 おとはは、ちょっと、と声を出した。 「拓未、待って。わたしお金、払ってないよ」 「いや、いいよ。代わりに、晩飯作って」  あと、俺、一緒に寝て、って言ったよな。  それを言おうとして、やめた。  結果を急いで、ことを為損じたくない。  確実に俺との時間を作ってくれる約束が欲しい。先に服を選んでからにしよう。
/89ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4020人が本棚に入れています
本棚に追加