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◇
Moodyの2軒南隣りのセレクトショップに入った。ガラス張りの店内の店先にハイネックの浅葱色のセーターと黒のボトムス、ベージュグレーのロングコートを着たマネキンが飾られている。20代から30代の働く大人女子に人気の店と以前女性誌に特集も出ていた店。レディース物ならカバン、靴まで置いている。
「あ、律。いらっしゃい」
カウンターに座っている女が顔を上げて俺を見た。
黒髪ストレートショート。両耳に大振りピアス。赤さが目立つ口紅。この店の店員でMoodyにも客として何回か来ている。歳は30前ぐらい。
伊藤砂央里。
ちなみに俺とはなんの関係もない。高野さんの客。高野さんとどうなのかは知らないけど、2人の香水は一緒だ。聞いたこともないし、気づいてないふりをしてるけど。
「どしたの。店来るなんて初めてだよね」
「そう、この人の服選びに来た」
隣にいるおとはを指差す。
「ふーん、律が女の服をねぇ、って可愛い顔してる」
伊藤はカウンターから出て来て、おとはの顔を覗き込んだ。
「こんな幼げな顔しててももうこの人アラサーだから」
その言葉におとはが俺の横っ腹を軽く殴った。肉がないから痛い。
「痛っ。ごめん、って。おとはは30でも可愛いって言っただけ」
「うわっ、律が可愛いとか言ってる。どしたの、落としたいのこの人?」
伊藤は面白いものを見つけたように俺を見て笑った。毎回思うけど、彼女は男みたいなんだよな。喋り方といい、雰囲気といい。
いや、化粧はガッツリしてるけど、高野さんと雰囲気が似てる。派手な外見してて人をちょっとからかってやろうとする所とか。
「落としたいってか、俺がただ落ちてるだけ」
言ってて、恥ずかしかったが事実だしな。
「え、律が落ちてて、服でも選んでやろうって連れて来たの?」
「そう、だから、おとはのパーソナルカラーは春だからパステル調とか淡い色の服でニットワンピースとかない?」
「うわっ、パーソナルカラーとか、具体的な服を挙げるとか、頭の中で出来上がってるけど」
「悪いかよ」
俺の言葉に、伊藤は声を出して笑った。
笑い方まで高野さんに似てる。
「悪くない。面白かっただけ。じゃあ、おとはさんこちらどうぞ」
おとはは伊藤に手招きされて、ハンガーがついた服を順番にあてがわれていく。俺も店内を歩いて回って、コートと靴を見る。キャメル色のローパンプス、紺色、群青色、ブラックと色違いを見て、おとはならキャメルだな、と勝手に選ぶ。
「このワンピース似合うよ」
伊藤の声が聞こえて、おとはがあんまりワンピース着ないよ、と返事をしていた。
「たまにしか着ないの選んどけよ。どうせ普段はジャージなんだから」
俺は別に普段ジャージでも構わないけどな。
でも、今日は女性らしい姿を見たい。
おとははベージュのニットワンピースをあてがわれていた。
肌が明るく見えて、表情も和やかに見える。
「その服にすれば。似合ってる」
「………でも、この服は動きにくいから、ワンピースじゃなくて、ニットにする」
おとははそう言って、同じ色の丈が短いものを手に取った。
「あ、そっちも似合うね。そっちがよく出てるから、もうラスト1着」
「じゃあ、これにする」
俺がそれを聞いてカウンターに向かうと、服は自分で買うから、と遮られてしまった。
「ボトムスはこの色のジーンズが似合うと思うけど、スカートなら、これ」
伊藤は服を2着持って来た。スカートは膝丈ぐらいのふわっとしたおとはの髪の毛みたいな風を含みそうな女性らしいフォルム。布地はチュールとシフォン生地の切り替えで、可愛らし過ぎず大人にも似合いそうなデザインだった。ジーンズは藍色のシンプルなローライズ。
俺としてはスカート一択だったが、おとははジーンズを選ぶんだろうな。
「……その色のジーンズ持ってるから、スカートにする」
え、マジで。
俺は耳を疑いながら伊藤を見た。
伊藤は、右の口角だけ上げた。
「ありがとうございます。せっかくだから、着替えていきますか?その上に羽織ってる紺色の上着でも合うと思うし」
「そうね……」
そう言っておとはは店内の壁を見回した。
「今12時。着替えて病院に帰ったら、すぐ仕事だよな。汚れるんだったら、袋で持って帰るか」
俺が返事をすると、伊藤は頷いた。
「わかりました。じゃあ、会計だけするね」
会計を済ませて、服の袋を受け取って、伊藤に礼を言って店を出た。
「拓未、もうここでいいよ」
おとはは服の袋を持った手に向かって、自分の手を差し出した。
自分でカットしたのに可愛すぎると頭2個分下の顔を見つめる。
化粧もチークの色が映えている。この状態でこの服着て欲しいけどな。
「今日、晩飯、行っていい?」
袋を差し出さずに問う。
おとはは笑って、いいよ、と答えた。
「この服も着てくれる?」
彼女は笑ったまま、もちろん、せっかく一緒に選んでくれたしね、と答えた。
「じゃあ、今日、一緒に寝てくれる?」
「うん、もちろーーーー」
と彼女は返事しかけて、続きの言葉を出すのを止めた。
俺は大きな瞳を見つめる。うんって返事してほしい。
一緒に夜を過ごす約束をしてほしい。
「交尾ならーーー」
その言葉を遮るように、俺はおとはの口を手で塞いだ。
「交尾じゃない。そりゃしたくないってわけじゃない。俺が欲しいのはおとはの体じゃない。一緒に過ごす時間を作って。寝る前におとはの顔を見て寝たいだけ」
おとはは口を押さえた俺の手を両手で持った。
「でも、心はーーー」
「あげないだろ?」
彼女の言葉が出る前に、自分の声で掻き消した。
おとはに言われるより、自分で言った方がダメージが少ない。
「だから、それでもいい。俺が側でいるだけだ。コケ野郎を待ってるんだろ?タクミって猫もいなくなったんだろ、その代わりに俺が一緒にいるぐらいに思ってりゃいい」
その言葉におとはの瞳が激しく揺れて、俺から目線を逸らした。
「……わたし、拓未にそんなに想って貰うほど、綺麗じゃない」
「……ひねくれてるのはもう分かってるよ。なら、俺を利用すればいい。その代わり一瞬でも心に隙があれば容赦しないけどな」
「本当にいいの?拓未は本当にそれでいいの?」
「俺を好きにならなくてもいい。俺はおとはの側に居たいって言ってる」
おとは、頼む、頷いて。
「……じゃあ、一緒に寝よう」
彼女は俺を見て、ゆっくりと返事をした。
その言葉は俺の耳から入って脳で理解されるより早く体を巡って、心臓をぎゅっと握った。痛いのにとんでもなく甘くて、切ない気持ち。で、めちゃくちゃ嬉しい。天にも昇る気持ちってこんな時に使うんだろうなって、柄にもなく思った。
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