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◇
「律さん!律さん!聞いてますか、俺の話?」
「え、あ、ごめん、聞いてなかった。何?」
「だから、後藤さんのタイマー鳴ってますって」
「行く」
スタイリングワゴンの上に置いたタイマーのSTOPを押して、シャンプー台に客を案内する。
「今日の律さん、感情の起伏が激しいんですけど。今、仕事忘れて上の空でしたよね」
「嬉しさ振り切って、もう、ぼーっとしてんじゃねぇの。ちゃんと仕事はしろよ」
橘の声に奈良崎さんが返事をする。
その2人を無視して、カラー剤を流すために後藤さんに声を掛ける。
「流していきますね。熱かったら言ってください」
後藤晃一。
40代。2ヶ月に1回の頻度でグレイカラーをしに通っている。指名は特にないが、三井さんか俺が担当することが多い。低い掠れた声が特徴で、男の俺でも声だけでドキッとする。
「律くん、最近忙しい?」
カラー剤を流していると、後藤さんが低い声で言った。
「え、まぁ、おかげさまで、予約は3ヶ月先まで埋まりつつあります」
「それは羨ましいな。僕の店はからっきしだからな」
「あ、そうなんですか。後藤さん、何のお店でしたっけ?」
「時計屋だよ」
市ノ瀬駅の真ん前のアンティークだけど佇まいが落ち着いた、木目調の洗練された店を思い出した。
「あの店、いつも雰囲気が落ちついてていいですよね。俺、店に行った事はないですけど、外から見て、高級感あるなって思ってました」
「それは嬉しいな。腕時計を付ける人も減ったし、最近はスマホで時間確認するから」
「そうですね」
左手首のCASIOの黒い時計を見た。
「時計つけてても、こだわりない人も居ますしね。俺は手軽な時計は好きですけど、高級なのは敷居が高くって緊張しますね」
時計に金をかけるのはファッション感覚が強いのかもしれない。俺はあんまり興味ないけど。
「律くんは興味なさそうだね」
「あ、すみません。時間がわかれば十分なんで」
後藤さんは、ははは、と低い声で笑った。
「正直でいいね」
「最近、よく素直とか言われます」
その言葉で後藤さんはさらに笑った。
「自分で素直って。面白いな。人間素直が1番だな。まぁ、素直すぎると傷つくこともあるけど、その傷も味って事で」
「傷も味?」
俺が聞き返すと、後藤さんは、うん、と頷いた。
「傷がない人はいないからねぇ。隠すのは上手くなっても、大なり小なり何か人間やってたらあるよ」
その言葉でおとはのことを思い出した。
コケ野郎を想って傷付いた事もあったんだろうか。俺にも知らない事がいっぱいあるんだろうな。でも、過去はどうであれ、今のおとはに向き合って行こうと決めたのは俺だ。考えたって仕方ない。
「でも、傷があっても時間が経ったら考え方も見方も変わるじゃないですか?」
「ほう、例えば?」
「嫌な事があっても、その後にいい事が起きたら、倍嬉しくなる、とか」
「律くん、本当に素直なんだね」
後藤さんは感心したよう言う。
何だか生意気なことを言ってしまったように感じた。目上の人に嬉しさをバカ真面目に語るほど俺は浮かれていた。
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