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陽一郎は上下とも濃いグレーのスエットを着て、新聞紙をテレビの前のローテーブルに並べていた。その足元でチャイロとシロが楽しそうに纏わり付いている。シマシマはソファの上で尻尾をふわりふわりと動かしており、俺の姿を見て知らんぷりをした。リクを探すと、ゲージの中でキャベツを食べていた。
「あ、ちょっ、シロ飛びかかるなよ。もう、チャイロもついて来るなって。いい子にしないと、おとはの部屋に入れるぞ」
陽一郎に2匹は構ってほしそうにしていたが、おとはが登場した瞬間2匹は大人しくなった。
「……ボスの登場」
陽一郎が言った言葉に笑ってしまった。
「そうだけど、チャイロとシロが邪魔してたの?」
おとはのその言葉で2匹が一瞬にして緊張したのが俺でも分かった。
ビクついて、おとはの顔を覗き込んでいる。
さっきヤダ、って言われた俺みたい。
チャイロとシロの気持ちが分かることにまた笑ってしまった。
「律、笑ってないで、この新聞並べるの手伝って。たこ焼きしようと思ってたんだけど、この2匹おとはがいなくなったら、俺の邪魔すんだよな。俺のことは下だと思ってるから」
「下?」
俺が聞き返すと、陽一郎は頷いた。
「そうだよ。犬は家族で順番つけるんだよ。この家だったら、おとはがトップで、次に自分達で、最下位は俺。酷くね?……律はお客さんだから、まだ順番つかないと思うけど、一緒に住んだら態度があからさまで腹立つから。上に立てばいいんだろうけど、おとはがいないときは俺の言うこと聞かないし」
「陽一郎はすぐ撫でたり、抱っこしたりするから。あと、何にもしてないのに構うから、自分が何かしたいときに邪魔されるのよ」
「……コミニュケーション的な話?」
俺が声を出すと、おとはは頷いた。
「そうそう。何事もバランスが大事って事」
バランスが大事か。
難しいな。
人間もそうだろうな。
おとはを想うまま気持ちを伝えても上手くは行かないってことか。
確かに俺がどんなに彼女を好きで大事に思って、キスして、抱きしめて表現したところで相手の状態を無視したところで受け取って貰えないだろうし、そもそもコケ野郎を待っている状況ではおとはの恋を邪魔している存在とも取れる。自分では彼女を支えたいと思っていても、彼女がそれを望んでいなければ、意味がない。
奪わない、埋めない。
けど、手は緩めたくない。
求められたいのが本音だ。
「……律、律?どした、やけに真剣な顔して」
「いや、別に」
短く返事をして、陽一郎と一緒に新聞紙を並べる。
並べたところに、たこ焼き機をおとはが持ってきた。
おとはがチャイロとシロにここでいなさいと2匹それぞれの犬用の座布団を指差すと2匹は素直にその場所に留まった。その様子を見て、陽一郎は、ほらな、と肩を上げた。
たこ焼きの中にタコ以外にチーズ、ちりめんじゃこ、生姜、サラミを入れたのは初めてだった。
「うま」
ついでにたこ焼きソースじゃなくて、人参をすりおろしたポン酢で食べたのも初めてだった。
「もみじおろしって言うんだよ」
俺の表情を見て、おとはは、美味しいでしょ?と笑った。
「うん、美味い」
返事をすると、陽一郎が、素直〜、と笑った。
「律って、そんなに笑うんだな。最近、表情でも感情が分かるようになった。しかも、今日、おとはの髪を切るために、わざわざ病院まで迎えに来たんだって?」
たこ焼きを口に運びながら、陽一郎は笑った。
「……そう。スマホに電話したのに、中々出ないから、迎えに行った」
「へぇ〜、腰重そうなのに、思ったら即行動派なんだ。髪の毛切れるって喜んでたしな」
「まぁ、そうだな」
返事をして黄金色から焦げ茶色に変わったたこ焼きを楊枝でくるっと回した。たこ焼きがシュッと音を立てて、回転した。
「親父がおとはより綺麗な子が来たって笑ってた」
「あ〜、挨拶した」
「拓未、ちゃんとフルネームで挨拶してたよね。真面目ぶってた」
おとはが揶揄うよう俺を見た。
「そうだな。好きな女の父親だしな。いつか家族になるかもしれないし」
倍ぐらいの言葉で反撃してみる。
おとはと陽一郎が同じ表情で固まった。
その表情を見て笑ってしまった。
そんなに、え?なんて言った?みたいな顔で俺を見るなよ。
2割ぐらいは冗談。
「……律は手を緩めませんな〜。緑くんと正反対だな」
陽一郎のその言葉におとはは眉を寄せた。
「口下手な所が緑くんの良さ」
コケ野郎は口下手なのか。
だから、おとはは可愛い、も好き、も言われ慣れてないのか。
「でも、帰って来ないじゃん」
陽一郎の言葉でおとはは持っていた楊枝を置いた。
「帰ってくるから」
「……でも、もう捜索も打ち切ったって返事が来たよな」
陽一郎の声がいつもより低く響いて、空気が張り詰める。
おとはは陽一郎を睨んだ。
俺もその目で睨まれた事のある鋭さ。
自分が向けられているわけではないが、居心地が悪くなる。
「いつまで、そうやって、いないヤツの事を想ってられるのか分かんない。正直、俺は仕事に抜け目のない緑くんが帰って来ないって事は、それなりの理由があるんじゃないかと思ってる」
それなり。
つまり、帰って来られない理由。
「……そんなの、わたしも分かってる。昨日、今日の経験でアフリカに行ったんじゃないから、予期せぬ事が緑くんの身に起きてるのも。それが何を意味してるのかも」
「だったら、もういい加減、諦めろよ」
「……諦められないから、わたしも困ってるんだけどね」
おとはは睨む目を伏せて視線を落とした。また泣きそうな顔を浮かべる。彼女は下唇を噛んで、頭を振った。
「ちょっと頭冷やす、拓未食べてて」
おとはは立ち上がって、自分の部屋に行ってしまった。追いかけたくなって膝を立てて、躊躇して、横で後悔を浮かべた男の顔を見た。そして、陽一郎は俺に見られたまま、あ〜、と言って立ち上がった。
「ごめん、なんか、緑くんの話題が出たの久しぶりで、もういい加減にしろよって思って色んなこと言って。俺もちょっと冷静になるわ。出てくる」
ソファの上に置いてあったスマホと上着を持って陽一郎は家から出て行ってしまった。
「……え、俺1人?」
呟いて、とりあえず、たこ焼き機で焼かれているたこ焼きを皿に回収する。
電源を切って、皿や箸を片付けて、鉄の熱いプレートをシンクに置いた。
水に浸しておく。机に敷いている新聞紙には所々、油が飛び跳ねており、グシャグシャと丸めてゴミ箱に捨てた。音に反応してシロが一瞬、俺を見たので手招きしてみたが、寄って来なかった。
ある程度、片付けをして、机を台拭きで拭いているとリビングに、おとはがやってきた。表情は暗く、気落ちしているのは明らかだった。かける声を探すが、適切な言葉が見つからない。
おとはは俺を見て、心にもない笑顔を浮かべた。
「……本当はね、」
俺は台拭きを置いて、彼女を見た。
「本当は……、もう行方不明って聞いた時点で、多分、緑くんは帰って来ないんだろうなって思ってた。緑くんてね、仕事に対して完璧主義が過ぎるほど細かくって。それ以外はどうでもいいのに。誕生日も、クリスマスも、記念日も、年越しも彼には何にも関係がなかった。約束しない人だった。だけど………」
「だけどね、帰ってきたら結婚しようって言った。ずっと一緒に居ようって約束だけして、いなくなっちゃった。わたし待ってていいよね?どうしたらいいか、分からない」
おとはが泣きそうなのに泣かない。
タクミが死んだ時はグシャグシャになって泣いていたのに、好きな男の事ではひょっとして泣いてないのか。
屈折して、気が強い彼女ならありうる。
俺は立ち上がって、彼女の瞳に自分の視線を合わせた。
「おとは」
名前を呼ばれて、彼女は少し虚ろだった視線を俺に合わせた。
彼女は目で、何?と問う。
「お前、コケ野郎が居なくて寂しいって泣いたか?」
その問いにおとはは答えない。
本当に天邪鬼なやつ。
返事すらするのが嫌なのかよ。
めんどくさい女。泣きたいなら泣けばいいのに。
「コケ野郎が居なくて寂しい、なんで帰って来ないの、って泣けよ。満たされない心を吐き出せよ。あいつを想う心を埋めたくないけど、今すぐ帰ってきて、埋めて欲しいって言えよ」
何が、埋めたくないの、だよ。
寂しくてたまんない癖に。
俺はおとはに手を伸ばした。
彼女はその腕を拒否して、俺の手を叩いた。
やっぱりな。
でも、手加減してやらない。
今度は拒否できないように両手で彼女を抱きしめる。
ちょ、っと、拓未、やめて、痛い、やめてって、と声を次々に出しているが、俺は無視して、腕の力を少しだけ緩めて口を開けた。
「だから、泣けって。おとはひねくれ過ぎ。コケ野郎の事、大好きなんだろ。忘れられないんだろ?俺が聞いてて支えてやるから言えって」
「拓未のばかっ、あほっ、やめてって、心はあげないって、何度も言ってるでしょ、離してっ、」
「……素直になれば。案外、楽になる」
これは経験談。
おとははまだ俺の腕の中で抵抗している。
本当にとんでもない女だ。
さっき玄関で抱きしめてキスした時はおとなしかったのに、ちょっとでもコケ野郎のことを言うとここまで感情を露わにする。
そこまでコケ野郎がおとはの心に住み着いているんだろうな。
「大丈夫だって。俺、一緒に居るし。コケ野郎と違って、いなくなんないし」
その言葉にまた火が付いたように怒り始めた。
「拓未、もう嫌いっ、離してって言ってるでしょ、もう家に入れないよっ、出てってよ」
剣幕に引いてしまいそうになるが、俺はため息をついた。
こんな女を飼いならしていたコケ野郎をある意味、尊敬する。
「緑くんの事、悪く言わないで」
今度は抵抗をやめて俺を大きな瞳で見上げた。
これには弱い。
「悪くは言ってない。もう今では尊敬すらするわ。クソ羨ましい気持ちも」
「尊敬?羨ましい?」
「そうだよ。お前にそこまで想われて、羨ましい。俺はおとはにそう想われたいし、笑わせたい。でも、今、泣きそうで泣かないお前が心配。だから泣けって」
おとははそれを聞いて、俺の腕の中で身を捩った。
「……泣いたら、緑くんが帰って来ない現実を認める気がして、泣けない」
屈折し過ぎだろ。
ため息が出る。
「あのなぁ、そこには自分の気持ちのままでいいだろ。寂しくて、悲しいんだろ。帰って来ないことに怒ってるんだろ。結婚って言ってたんだろ、色々、おとは自身の感情があるだろ」
「自由にしていいの?」
おとはは縋るように俺を見た。
そんな目で見るな。自由気ままに振る舞えよ。
「していい」
俺の返事を聞くとおとはは俺に腕を回した。
「緑くん、約束破った。約束なんてした事ないのに、たった1回の約束を破った。大嫌い、大嫌い、大嫌い。でも、会いたいの。あって、抱きしめて欲しい。名前を呼んでって言いたい」
「けっこ、ん、なんてやくそく、ずっといっしょにいてくれたら、べつに、いらなかったっ、あいにきてっ、きらいっ、ほんとうにきらい、なのに、だい、す、きっ、で、な、んで、か、えって、ごな、い……」
最後はもう何を言っているのか聞き取れなかった。
鼻水と涙とせっかく俺がした化粧もぐずぐずで、買ったばかりの服の袖でそれを拭おうとするもんだから、代わりに俺の服の袖で涙を拭った。
小さい子供みたいで、言ってることも、もう滅茶苦茶。
結局、寂しいのに、それを遠回りして虚勢を張って、認めたくなくて、傷を必死で隠して、でも隠しきれない。
みんなそうなのかもしれない。
おとはに至っては本当に本心までがぐちゃぐちゃ。
屈折してて、優しくされたいのに、優しくされると怒る。
抱きしめる腕を強めて、手のひらで彼女の頭を撫でる。
ふわふわの栗色の触り心地のいい髪の毛が俺の指先に挟まる。とんでもない女だけど、愛しくて仕方ない俺も屈折してるか。
「おとは、好きなだけ怒って、泣け」
なだめるようにそう言って、彼女をもう一度抱きしめ直した。
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