kiss. 7

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◇  アクアブルーの色紙に綿あめを押し付けたような雲が浮かんでいる空。口に含む事は出来ないけれど美味(うま)そう、と思った雲に連なる煙を下ると、ニコチンを含む濃度の濃い白が、タバコから生まれていた。煙草を咥えた主は俺の顔を見ると、左口角を少し動かして、手を上げた。 「よう」  仕事の合間に電子タバコを持って、店の裏に出ると先客がいた。 「律川、休憩か?」  左手でタバコを持って、口から離し、奈良崎さんは煙を吐いた。 「はい、15分ぐらいの空きです」  返事をして電子タバコを咥えた。ブルーベリーメンソールとベリーカプセル。この中にも同じニコチンが含まれているなんて、あんまり信じられない。  お粗末な俺の舌は、吸う時にメンソールの爽快さに包まれ、吐き出すときにブルーベリーの抜ける甘さを感知する。  奈良崎さんの左手の薬指には銀の指輪。  それを見つめる。 「………奈良崎さん」 「なんだ?」  低く威圧的な声。声に反して俺に向ける視線は全然、鋭くない。どした?と兄貴的な優しささえ感じる。  兄弟なんていないから分からないけど。 「質問、いいっすか?」  俺の言葉に奈良崎さんは、ふっと笑った。 「やけに真面目だな。どした、悩みか?………あ」  あ、の声に俺はタバコを口から離す。 「律川、店辞めるとか、引き抜きの話とかは聞きたくないぞ」 「いや、違います」  否定の言葉を言うと、彼は、それは良かった、と小さく呟いた。 「あの………、奈良崎さんはどうやって結婚したんですか?」  俺の質問が予想外すぎたのか奈良崎さんは持っていたタバコを落とした。 「はぁ?」  低くない声が彼の口から出た。 「え、結婚?……お前、俺の結婚の話聞いてどうすんだよ」  少し狼狽えている。結婚の話をするのが恥ずかしいのだろうか、右手で頭をガシガシとかいた。 「俺、結婚したいんです」  その言葉を聞いて、奈良崎さんは目を見開いた。 「いっ、いきなりだな、オイ。………あの、ジャージ女?」 「……そう、っすね。………でも、他に好きな男が居て、ってそいつ今行方不明で待ってるみたいなんですけど、俺は待ってる状態でもいいから1番近くで居たいんです。それには結婚かなと思って」 「……お前、すごい勢いでぶっちゃけるな。俺、ちょっとついていけないから」  奈良崎さんは、待て待て、と困ったように笑う。 「じゃあ、1番じゃなくてもいいから、ジャージ女を幸せにするために結婚したいって事だな?」 「そうっすね」  奈良崎さんは、あ〜、と息を吐いた。 「お前、それ、男が帰ってきたらどうすんだ?」  コケ野郎が帰ってきたら。  おとはにとってそれが1番幸せだろう。 「そいつが本当におとはを幸せにするって約束するんだったら、俺は消えます」 「……え、消えるって…」 「いや、マジで消えるって訳じゃないですよ。おとはが幸せならもう俺の出番ないって意味で、まぁ、適当に仕事します。でも、ちょっとでも隙があるなら、おとははやらない。俺のじゃないですけどね」  奈良崎さんは、ははは、と声を出して笑って、自分のポケットから携帯灰皿を出して落としたタバコを片付けた。 「俺の場合は、ってあんまり参考にならないかもしれないけど、嫁は俺より強い」  その言葉に吹き出しそうになった。 「……え? 強いんすか?」  奈良崎さんは見たこともない苦笑いを浮かべた。目尻にシワがよって、細い目が垂れている。この人の切れ目が下がるのを俺は初めて見た。 「おう、したたかっつーのかな。見た目からして強いつーか、中身がなんせ、強い、の一言」 「強いって頭が上がらないって事ですか?」 「まぁ、簡単に言えばそうだな。しかも、高校の時からの同級生だから、なまじ気心が知れてる分、俺の事はお見通しってやつだな。娘も一緒になって、嫁の子分みたいだ」 「……嫁の子分」  なんと、奈良崎塾長は家では権力がなかったみたいで、その予想もしなかった姿に俺は笑ってしまった。 「おい、律川、笑うなよ。俺だって、言いたくて言ってる訳じゃないんだから。お前のためになるか分かんないけど、恥を(さら)して経験談、言ってる。せめて、笑わずに聞け」 「あ……、すんません」 「で、嫁は俺に一緒に居たかったら、ちゃんとプロポーズしろって言って、………俺にありとあらゆるプロポーズの場面を再現させた……その時はさすがに心折れるかと思った」  聞くのも(はばか)れるが、聞きたい。  ネットで調べた、花束を持って(ひざまず)いてプロポーズ、とかだろうか。 「聞くか?俺、これあんまり言いたくないんだけど」  奈良崎さんは一瞬、俺を見た。  俺は頷く 。 「はぁ〜、まさかこれを人に言う日が来るとは思わなかった」 「まず、バラの花束持って跪いてプロポーズ、指輪を差し出す。夜景でのプロポーズ。フラッシュモブ。クリスマスも正月もバレンタインもプロポーズ、………あと……」  奈良崎さんは頭を抱えて、これも言うのか、と小さく呟いた。 「あと、愛してるを毎日言うって、約束してプロポーズ」  その言葉に、え、と言って奈良崎さんから顔を逸らした。 「おい、律川、俺は恥を晒して、言ってる」 「いや、でも、聞いてるこっちも恥ずいんですって」  返事をすると、奈良崎さんは、あ〜、と右手で頭をかいた。 「まだあるけど終わりだ、終わり。とにかく、何度も言われると嬉しいとは言ってたけどな。まぁ、それは向こうもこっちに気がないとダメだから、一方通行じゃダメだけど、第一付き合ってない女にプロポーズしようって方が俺からしたらすごいけどな」 「付き合えないんすよ、だからもう色々すっ飛ばすしかなくって」 「すっ飛ばしても、収まる時は収まるしな。まぁ、誠意があれば伝わるさ。頑張れよ」  奈良崎さんは俺の肩を叩いて店に戻った。  短い黒髪持った、長身の男を見送って、俺は右手に持った電子タバコをぼんやりと見つめた。  プロポーズに指輪は必須アイテムだな。  左手でボトムスのポケットに入ってる携帯を取り出した。  指輪 サイズ こっそり調べる で検索。  ちなみに、検索履歴はプロポーズ、シチュエーション、婚約とは、だ。  ……スマホは絶対、落とせない。
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