kiss. 7

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◇  迷路みたいな女。  おとはの事をそう思った俺は正しい。  正しいけど、まだ全然、篠原おとはを分かっていなかった。  輪郭は見えたと思っていたのに、その輪郭さえも本当は見間違いじゃなかったのかと頭を殴られた気になったのは仕事が終わって、自宅に向かう途中だった。  年末最後の営業を終えて、定時の午後8時を仕事納めで挨拶して、市ノ瀬駅に向かう途中だった。  腕を組んで仲良さそうに歩くカップルとすれ違った時に聞き覚えのある、抑揚を含んだ優しい笑い声が聞こえた。  俺は声の主を振り返った。  寒く、雪が降りそうな底冷えする日だった。  声の主は栗色の短い髪をしており、小さな頭に似合わない耳の大きさで、見た事がある背中だった。 「……おとは?」  呼びかけられた背中より先に、腕を組まれた紺色のコートを着た男が振り返った。  平均的な可も不可もない顔をしている。  1度見ただけでは印象に残らない顔。髪は黒髪。身長は女よりは高いが、俺より目線は少し下だった。  ジャージじゃないから人違いか、と思うと、遅れて女が振り返った。  おとはが俺を見て、瞳を見開く。 「あ、拓未」  さっきの抑揚のある優しい声じゃなかった。  隣で腕を組んでいる男に目線を写して、おとはを見た。 「………その男、誰?」  まさか、コケ野郎じゃないよな。  願いにも似た問い。 「え、……誰って、交尾する友達。セフレ?」  その言葉に、顔面を殴られたような衝撃が走る。 ……………え、セフレ? ………………は?  次の言葉が見つからない。  ショックすぎて、自分の心臓の音以外、耳に入っていないような感覚。  前に顔を殴られ、腹を踏まれた時とは比にならないぐらいの衝撃が全身を包んでいることは分かった。  男は優越感に近い笑いを浮かべているようにも見えた。おとはを抱いた事のある男が近くにいると言う事が、ショックで堪らない。  しかも、腕を組んでいる。 「…………マジか、ありえねぇ」  俺はそう呟いて、腕を伸ばした。  気づけばおとはの腕を掴んで、強引に歩き出していた。  いくら付き合ってないといってもセフレと一緒に居るのを見せられた俺の身にもなってくれと、涙が出そうになる。  こっちは真剣におとはと結婚する事を考えて、必死で想いを伝えていたのに。  人気の無い道まで彼女を引いて歩き、彼女を見た。  彼女はなんの感情もない顔をしている。おとはは、交尾するのは誰でもいい、って言っていたのをしっかりと聞いていたのに、実際に目にしてしまうと、衝撃は予想以上に大きかった。 「………おとは、コケ野郎が1番つったよな」 「そうね」 「なんで、セフレとか………」 「言ったでしょ。わたし、交尾ならしてもいいって。心はいらないから、体は誰でもいいのよ」 「だから、俺は自分を大事にしろって言っただろ。交尾するなら俺がいるって言った」 「拓未にそこまで思って貰わなくて、いい。それに今日はーーー」  それ以上、彼女の口から他の男との関係を聞きたくなくて、無理やり彼女を引き寄せて、自分の唇で口を塞いだ。  強引に、出会って初めてしたキスのように、噛み付く勢いで唇を重ねる。  嫉妬で頭がおかしくなりそうだった。 ーーーもう嫌だ。  こんな迷路みたいで全然ゴールに辿(たど)り着けない女、嫌いになってしまいたい。  唇を離し、クソっと悪態をついて、彼女を見ると泣きそうな顔をしていた。 なんで、おとはがその表情を浮かべるのか、泣きたいのはこっちだ、と口を開けようとするより早く、体は彼女を抱きしめていた。 「他の男みるなよ。心も許さないんだったら、体も許すなよ。俺がどうにかなりそう。頼むから俺の想い受け取らなくても良いから、他の男に抱かれるなよ」 「…………じゃあ、拓未が抱いてくれるの?」  悪魔のような囁き。  陽一郎が言っていた事は本当に的を得ている。  鬼悪魔。  俺の心を振り回し、喜ばせて、地に落とす天才。  おとはの顔を見ると腕の中で大きな瞳で俺を見上げている。  せっかく、ずっと我慢していたのに。  その瞳と言葉と態度。  彼女の全てで、俺を誘惑して、理性の壁を崩す。 「おとは、俺、お前とはセフレになる気はないからな」  その言葉に彼女は返事をしない。 「俺に抱かれたら、責任取れよ」  畳み掛けるように言葉を発する。 「俺は、おとはを愛してる。足りない物があるなら、満たしてやりたい。他の男を見るな。コケ野郎に心をあげたんならあげたままでも良い」  腕の力を強めると、彼女は何も言わずに腕を俺の背中に回した。  本当におとはが何を考えているのか分からない。  さっきまで違う男に笑いかけていたのに、今度は俺の背中に手を回している。体は誰でも良いって言って、心はあげないと言い張り、1人の男の名前で感情を露わにする。  めちゃくちゃだ。  でも、今、一つだけはっきりとしている事がある。 「抱いてくれるのって聞くって事は今、俺の事を必要としてくれてるで良いんだよな?」  おとは、頼むから、俺を求めてくれ。  誰でも良いんじゃなくて、律川拓未を呼べ。 「拓未、………抱いて?」  俺の持っていた理性の壁はその一言でものの見事、木っ端微塵に吹き飛ばされてしまった。
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