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◇
年が明けて、三賀日は平和な天気だった。
気温も低くなくて、空に雲も少なくて、風も優しい。気分が良くて、近所を意味もなく散歩したぐらい。あと、夜もよく眠れた。おとはと一緒に寝て夜を過ごした時ほど寝られないが、明け方に短く目を瞑ることはなくなって、日付けが変わる頃に布団に入ると、瞼が自然に重くなった。目が覚めたら、おとはに会いたいなと思うし、寝る前には彼女の顔がみたい。スマホで会話しても彼女はそっけない。仕方ないから、家に毎日通ってる。仕事は5日から始まりだから、今日と明日はまだ休み。
家から五反田駅に向かって歩く。
着ていたグレーのロングコートから、スマホを取り出して、おとはにかける。発信音は鳴るけど、返事がない。耳からスマホを離して、画面を見る。LINEを送っても既読になってない。恋人になったはずなのに、まだ片想いをしている気持ちになる。
左手首の時計は午前9時10分。
仕事より早く起きて、活動している。おとはに早く会いたいから。
足を進めて、駅の改札口を通り、プラットホームで電車を待つ。
「あの、律さんですか?」
声を掛けられ振り返ると、見覚えのある顔だった。
女子高生ぐらいの年齢の女の子。ミディアムの前下がりロングボブ。カットラインは1ヶ月ぐらい経ったから少し崩れている。薄グリーンのロングスカートにベージュのチェスターコートを着ている。
「竹内さん」
返事をすると彼女は、え、と驚いた表情になった。
「私の名前覚えててくれたんですか?」
「……まぁな」
彼女は少し緊張した感じで、はぁ、と短く息をついた。
「後ろ姿で律さんっぽいなぁと思ったんですけど、違ったら失礼だし、でも、美容室以外で見かけたのは初めてだったんで勇気出して良かったです。名前も覚えててくれて、嬉しいです」
彼女は一気にそう言って、右手で顔にかかりそうになった髪を耳に掛けた。
陽に透けるとブラウンの色素が出て、わずかに染めていることが分かる。
おとはもこれぐらい素直だったら、俺も嬉しいんだけど。まぁ、こんなに感情を言葉に出してたら、拗らせて、ひねくれてはいないか。
「どっかいくの?」
俺が聞くと、竹内美来は、初詣に、と答えた。
「初詣か、……人、多そうだな」
「律さんは行きましたか?」
「いや、俺は行ってない」
人が多いし、第一に普段の生活で信心も何もないのに年始だけ参拝するのもどうかと思う。
……めんどくさいしな。
「………彼女さんと、行かないんですか?」
のぞき込むように彼女は俺を見た。
ローズブラウンの瞳。
「彼女さんねぇ……、LINEは未読で、電話はスルー。必死な俺は今から会いに行く」
言ってて、情けなさ全開で笑ってしまった。
「ごめん、自虐っぽかったな。でも、そんな感じ」
「……意外です」
竹内美来は心底驚いたように声を発した。
「美容師さんてかっこいい人多いじゃないですか? 見た目を整える仕事だから、女の人も綺麗な人が寄ってくるんだろうな、とか、モテて逆に困るんだろうな、とか思ってたんですけど、律さんの方が彼女さんの事好きって事ですよね?」
さすが女子高生だな。
恋の話に慣れている。
少し心の声が漏れただけで、分かられてしまった。
俺の方が好きだって朝の駅のプラットホームで、本人もいないのに言えない。
返答を考えていると、竹内美来は、あはは、と声を出して笑った。
「律さんでもそんな表情するんですね。お店行った時、笑いもしなかったのに、今、困ってましたね。なんて答えようって顔」
「分かってんだったら、あんまりつっこまないで」
彼女は了解です、と返事をした。
「その代わり……これ、橘さんに渡して貰ってもいいですか?」
彼女のポケットから白の手紙が出てきた。封筒の外には可愛い丸文字で、竹内美来より、と書いてある。
「橘に?」
差し出された封筒を受け取る。
「実は美容室に行ったのは先月が初めてじゃないんです。学校の行き帰りでずっと行きたくて、覗いてたらよく橘さんが話しかけてくれて。ネットで検索してカットは絶対、律さんがいいなって思ったんですけど、仲良くなりたいのは橘さんで……」
言い訳のようなモジモジとした説明をしながら彼女は赤くなっていった。
健気でいじらしい雰囲気が少しでもおとはにもあれば、と思いその手紙を上着に入れた。
「分かった、渡しとく」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
彼女は頭をペコっと下げて、ホームに入ってきた電車に視線を移した。
「私、この電車なので、じゃあ、またお店行きますね。律さんも頑張ってね」
軽く手を上げて3番ホームに入ってきた電車に乗り込んで行ってしまった。
律さんも頑張ってね、か。
「………何をよろしくお願いされて、頑張るの?」
後ろから会いたかった人物の声が聞こえて振り返る。
おとはが腕を組んで、紙袋を持って俺を見上げていた。
ジャージじゃない。
紺色のセーター、黒のジーンズにグレーのコートを着ている。色気がない服なのに、俺には最高に魅力的に見える。
「お、とは」
心臓に悪い。
ってかなんでここに居るんだよ。
「俺、何回か電話したんだけど、なんでここに?」
質問は無視され、眼は俺のコートのポケットに向いている。
「これ、何?」
おとはは俺のポケットの中に素早く手を入れて、さっき預かった竹内美来の手紙を取り出した。
「………おい、」
彼女は手紙を見て、俺の顔を見た。大きな瞳が見上げて、眉が少し寄っている。
「……可愛い丸文字。だいぶ歳が下なんじゃない?」
「歳?あぁ、女子高生だな。年齢は知らないけど」
「……ふーん。竹内美来って書いてあるよ」
「うん、その子の名前。ってか、返せよ。それ大事なんだから」
頼まれたものをそう易々とは見せられない。
俺が手を伸ばすとおとはは腕を振って、俺が伸ばした手を回避した。
「おい、おとは」
おとはは、また目で何よ?と俺を見上げた。
俺はため息をついた。
「てか、返して」
「……嫌って言ったら?」
嫌って。
「それ、頼まれたものだから」
「拓未って平気で嘘つくんだ」
「嘘じゃないって。橘ってあの、店で会っただろ、マッシュボブの男、あいつに渡してくれって頼まれんだよ」
おとはは、え、と固まった。
「じゃあ、これ拓未への手紙じゃないの?」
「俺宛ではない。髪は俺が担当したけど、仲良くなりたいのは橘って言ってた」
「じゃあ、頑張ってとか言われてたのは何?」
「それはお前が電話にも出ないし、出てもそっけないし、LINEも既読にならないし、会いたくてたまらないのは俺だけかよって………」
一気に言って、周りを見渡す。
ここは駅のプラットホーム。
人はまばらだが一部始終、会話が聞こえた人がこっちを申し訳なさそうに見ている。
気まずくなって、おとはの腕を持ってベンチ椅子の近くに移動した。
「とにかく、ちゃんと返事もして。今だって家に行こうと思って電車に乗ろうとしてた」
「……うん、分かった」
おとはは返事をして俺に手紙を返した。
それをポケットに入れる。
待てよ。今の手紙をおとはは、俺への手紙と勘違いして、返すのが嫌って言ってた、って事だよな。
「おとは」
彼女はさっきの事など何もなかったように笑っている。
「……さっきの手紙、俺へのだと思って、妬いた?」
「……妬いてない」
おとはは俺から視線を逸らした。
え、何、可愛い。
「ちょ、こっち向いて」
彼女の腕を掴んで、引き寄せる。
いや、ここは駅のプラットホーム。
でも、目の前でおとはが俺に対して感情を揺らしている。
見過ごすわけには行かない。
「俺が女子高生から手紙もらったと思って怒った?」
その言葉におとはは俺を睨んだ。
睨んだという事は図星だ。
睨まれたのに嬉しくて顔がにやける。
もっと睨まれてもいいなんて、口には出せないが、それぐらい嬉しい。
耳に口を寄せる。
「おとは、可愛い。めっちゃ可愛い。……俺の家の方が近いから、そっち行く?」
「……可愛い、可愛いって何回も言わないでよ」
彼女は頬を赤くして俺を見上げた。
抱きしめてはいけない、ここは駅のプラットホーム。
公共の場。
おとははすぐ俺の理性を崩しにかかるからタチが悪い。
「俺の家に行きたいって言ってよ」
「………拓未ってすぐわたしに言わせようとするよね」
「お前が素直にならないからだろ」
「わたしはひねくれてるって言ってるでしょ。それでもいいって言ってたの拓未じゃないの」
「いや、そうだけど。そのままでもいいけど、たまには素直に甘えられたいだろ」
って、ここは駅のプラットホームだって。
はぁ〜とため息をついて、おとはの持っていた紙袋に手を伸ばした。
「袋、貸せよ。持つ」
何が入っているのかと覗くとタッパーに茶色い食べ物が見えた。
「これ何?」
「拓未と一緒に食べようと思って、持ってきたの。筑前煮とかおでんとか煮物系だから、全然おしゃれな色合いじゃないけど……好き?」
嬉しすぎて一周回ってはみ出して、悪態をつきそうになる。
好き? って大きな瞳で見上げて来て、俺のために料理して来たって、これ以上、惚れさせてどうするつもりなのかと問いたいぐらいだ。
おとはの腕を引き寄せて、両手で彼女を抱きしめる。
我慢終了。
もういいや。
こっそり、おとはに耳打ちする。
「もう、我慢できない。全部、好き」
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