Kiss. 8

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◇  五反田駅から俺の家のアパートまでは徒歩で10分程度。  右手には紙袋。左手にはおとはの手。彼女の手は身長のわりに大きい。そして手のひらは意外と硬く、手の甲は引っかき傷が多い。これは動物達にやられたそうだ。  働く手も愛しいと言って、キスをしたら彼女は真っ赤になった。 「拓未もシャンプーとかして手が荒れるでしょ?」  おとはは俺の手も労ってくれた。  その言葉に暖かい気持ちになる。 「俺はシャンプーでは荒れないけど、合わないヤツはシャンプーが苦痛って言ってたな。カットの練習で指を切った事は何度かある」  アシスタント時代は俺も残って練習をしていた。客が持って来た写真や画像の髪型を再現するのが難しくて、脳内のイメージと現実の形が合わずに試行錯誤していた。仕事の中でカラーとカット、シャンプースパ、パーマ、縮毛強制と様々な技術を必要とするが1番シンプルに結果が出るのはカットだ。  シザーとコームこの2つの道具で客の多様な髪質、クセに対応して形作る。俺が目指したのは完成形も大事だが、本人の満足度だった。  持って来た写真や画像が客の理想であるのは分かるが髪質的に傷んでしまったり、学校の規則で違反だったり、扱いにくくなってしまったのでは見た目だけになってしまう。 「拓未、仕事の事考えてる?」  おとはが俺の顔を見上げて聞いた。 「まぁ、考えてた。俺、誰にも言ったことないんだけど………」 「うん、何?」 「笑うなよ?」 「笑わないよ」 「俺さ………、いつか、自分の店、出したいなって思ってる」 「……いいね。今でも予約3ヶ月待ちでしょ?拓未なら大丈夫だよ」  おとはに言われると本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。  好きな人の言葉って影響力がでかい。そもそも、誰にも言ったこと無い事をおとはには言える時点で、かけがえのない存在なんだろうけど。 「わたしは………」  おとはは目線を向かう先に変えた。 「わたしは両親が動物病院を経営してたから、自分が獣医になることに疑問も抱いてなかったんだよね。獣医になるのが当たり前だった。だけど、動物のことが好きかって言われたら、それはよく分からなかった。当たり前の存在っていうのかな。小さな頃から近くにいたから、人間より身近に感じてたのかも。ほら、動物って喋らないじゃない?だから、友達と喧嘩した時も愚痴とか聞いてくれたりして……」  俺は犬も猫も飼ったことがないからピンとこなかった。  けど、おとはが自分の事を素直に話すのは珍しかったし、彼女の話をもっと聞きたいと思った。彼女にとって動物は単なるペットではなく、ひょっとしたら家族や、自分の分身に近い存在なのかもしれない。 「で、猫も犬も流れてる時間が違うから先に死んじゃうんだよね。それが寂しくて。なんで死んじゃうのって思って、好きだったのに、嫌いって。こうやって勝手に屈折してったのかな?分かんないけど。時間の流れ方が違って先に死んじゃうのは仕方ないって頭では分かってるんだけどね」 「……うん」 「でも、獣医になれば病気になっても、治療を知っていればもっと一緒にいる時間を作ることができるでしょ?だから、そこに意味を見出してやっぱり獣医しかない、って思ったんだよね。陽一郎は継がないって言ってたから」  目的のアパートが見えて来た。  俺は握っていたおとはの手をもう一度握り直す。 「おとはは凄いな。色々な事に向き合って。俺は……」  おとはに出会っていなければ今頃、俺は何をしていただろうかと思う。  仕事はしても人に期待はせず、女に捨てられたと不貞腐れて、でもヤる事だけやって、欲望は吐き出せず、何も意味なんて見出せずに日々を過ごしていた。  愛なんて感情も理解できなかったと思う。  何が優しさかも分からなくて、裏切られるのが怖かった部分もある。生みの母親は俺のことが好きと言いながら、別の男と家を出て行ったし、父親は俺を育ててくれたが気持ちを口に出すような人物ではなかった。 「おとはに出会って、俺は向き合うって事を教わった」  彼女は俺を見た。 「興味のない事をスルーして、見えないフリしてたのか、本当に何にも見えてなかったのか今ではもう分かんないけど、自分の気持ちや相手に向き合う事を教えてくれたのはあんただ」 「拓未が素直だからそう思うんだよ。わたしならそうは思わないね。こんなひねくれた女バカじゃないのって思う」 「バカじゃないだろ、おとはは。確かにひねくれてるし、俺を夢中にさせといて心はくれないなんてズルいなって思う。でも……」 「でも?」 「でも、誰より、コケ野郎を信じてるんだろ?恋心をあげた相手を帰ってこないって怒ってても信じてる。俺も帰って来たらいいなって思う。でも、同じぐらい帰ってくんなって思ってるけどな」  おとはは、吹き出して笑った。 「何、それ、どういう意味?どっちなの?」 「自分の気持ちを優先したら、コケ野郎二度と帰ってくんな、で、おとはの気持ちを優先したら、早く帰って来ておとはを幸せにしろって意味」 「わたしの幸せ?」 「そう、おとはの幸せ。言いたい事言って、笑って、泣いて、最後にはやっぱり笑う」  俺はそれが1番。  方法がどうであれ、目的はそれ。 「まぁ、コケ野郎が帰って来てからが本当の勝負だから。俺の方がおとはの事、絶対好きだし、ってか、愛してるから。いくら仕事が大事でも、好きな女を泣かしてまで仕事する意味ないし」  彼女は俺の手を握った。 「拓未は本当に素直だね………羨ましいよ」  部屋の鍵を出すために彼女の手を離す。  ポケットの中の家の鍵を出す。  階段を登り、2階の端の部屋を目指す。  鍵を開けて、おとはを先に部屋に入れる。 「おとはも言いたい事、言ってると思うけどな。俺、怒ってる顔も泣いてる顔も笑ってる顔もいたずらっぽい顔も見たし……」  紙袋を廊下に置いて、靴を脱ぐ。  持っていた家の鍵は靴箱に置いた。 「見たし……?」  おとはのその質問に答えずに彼女の唇に自分の唇を寄せる。  軽く重ねて、顔を見る。 「俺に抱かれてる顔も見たし。また、見たい。ダメ?」  彼女は、ふふふ、と短く笑って、俺に腕をゆっくりと回した。
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