Kiss. 10

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◇  店内のウィンドウガラス越しに客を見送って、閉店準備をしていると店に奈良崎さんが入って来た。履き慣らした革靴が床を掃除している俺の視界に入り、顔を上げた。 「律川、」  低い威圧的な声。  声だけ聞いたら怒っているようにも聞こえる。 「なんすか?」  俺の返事に奈良崎さんはくくく、と笑った。  表情は全然正反対。むしろ楽しそう。 「なんか、元気ねぇな。メシ行くぞ、メシ。高野も行くか?」  奈良崎さんは雑誌を棚に片付けていた高野さんにも声飛ばしたが、今日は予定あります、と返事をしていた。橘と三井さんは先に上がっていた。  必然的に俺と奈良崎さんだけになる。 「……おい、律川、なんだその顔。めんどくせぇな、って思ってるか?」 「…いや、メシつっても2人だしなとは思ってましたけど………」 「いいじゃねぇか、サシでメシぐらい食べたって。女じゃねーんだし」 「……今日は家で食べなくていいんですか?」  俺が結婚してたらおとはの飯が食いたくて一目散に帰る。  100%どころか1000%帰る。店で食うなんて信じられない。  まぁ、そんな想像したって虚しいだけだけど。 「いいんだよ。今日は子供連れて、実家に帰ってる」 「あ、そうなんっすね」  箒を持つ手を動かす。 「で、行くだろ?」  奈良崎さんは俺の肩に腕を乗せた。  身長が俺より高いから体重が乗っかる。重い。  体育会系すぎて、この人のノリは時々苦手だ。 「行きます……でも、腕が重い」 「……よっし、じゃあ、サシだし、ちょっと良いところ行くか!」  奈良崎さんはそう言って、腕を上げて俺の背中を2回バシバシと叩いた。  痛てぇ。 ◇ 「いい酒置いてる所っつーのはな、酒だけで、お品書きがあるんだよ。なぁ、大将?」  一本杉を用いた様な木目の紋様が美しいカウンター机。回らない寿司屋に来たのは初めてだった。メニュー表もなければ、値段もどこにも書いていない。  なんなら、カウンター越しの透明な保冷庫に魚やネタが並んでいるだけで、他には何もない。  自分の格好が場違いのような高級感が漂っている。  奈良崎さんはスーツだからいいが、俺は黒のシャツにグレーのロングカーディガン、黒スキニーだ。靴だってノースフェイスのロゴ入りの思いっきりカジュアル。 「……奈良崎さん、俺めっちゃ普段着です。いいんですか?」 「え、酒の話聞いてなかったな?いいんだよ、ここは系列店だから。親父が管理してるし。しょっちゅう来るから。好きなの頼めよ」  頼めよって言われても、と俺は周りを見回した。  着物を着た50代ぐらいの女性が暖かいタオルとお品書きと書かれた黒い革のメニュー表、半紙に印刷された達筆な文字の表を運んできた。  もう、値段を想像するのが嫌だ。  魚の漢字読めねぇし。  鮪、鯖、鮭、魬、鰤。  はい、無理。  俺がどうしようかと、とりあえずメニュー表を見て、手を拭いていると奈良崎さんは俺を見た。 「律川、食えないものあるか?」 「……いや、ないです」 「じゃあ、適当に任せるか。俺はウニがダメ。お前いける?」 「俺は、本当になんでもいけます」  食べようと思ったらなんでも食べられる。  甘いものが1番好きだが、おとはの飯を食べだして自分の偏食は食わず嫌いだと言うことが判明した。  意外となんでも食べられる。  食べようと思わなかっただけだった。  それも、彼女に出会って気づいた事だった。 「意外だな。偏食そうなのに。じゃあ、大将、お任せで。で、俺のウニは外しといて」 「了解しました、(ぼう)」  カウンター越しで、大将、と呼ばれた、気難しそうに見える50代ぐらいの男性が低く返事をした。  今、この人、坊って言わなかったか?  奈良崎グループってそんなに大きな会社なのか。  自分の勤めている美容室だけれど、その親会社はよく知らない。 「……坊って呼ばれてるんですね」  奈良崎さんは、少し眉を寄せて、まぁな、と返事をした。 「グループっつっても親父のもんだしな」 「でも、奈良崎さんが店のオーナーですよね?前の店長の時は全然来てませんでしたけど」  俺の発言に彼は驚いた表情を浮かべた。 「何言ってるんだ、お前。あの店、前の店長が奈良崎グループに売ったから、俺がオーナーになったんだぞ。三井を引き抜いて来たのも俺だ」 「あ、そうなんすか」  そうだったのか。  俺は本当に興味のないことはスルーだな。  働いていたのに全然知らなかった。  前の店長がいなくなってそれどころじゃなかったんだろうな。  心ここにあらず、今日、橘に言われた言葉。  多分そんな感じだったんだろう。  それか、もうどうでも良かったのかもしれない。 「………で、お前のプロポーズ大作戦はどんな感じなんだ?」  奈良崎さんは黒い革のメニュー表を開きながら横目で俺を見て言った。 「プロポーズ大作戦………作戦遂行前に、ホシが姿を消しました」 「……ん!?」  メニュー表から、すかさず視線を外して俺を見た。  俺より真剣なその表情に笑ってしまいそうになった。  なんで俺の周りの人はリアクションが俺より大きいのだろうか。  それとも俺のリアクションが薄いだけか。 「………ホシはどこに行ったんだよ」 「ホシは日本国外に逃亡しました」 「高飛び!?」  店内に響きわたる程の低い声で奈良崎さんはそう言って俺を見た。その行動に声が出て笑ってしまう。 「ははっ、え、……高飛びって、犯罪者ですか?」 「心泥棒だろうが」  奈良崎さんが大真面目に言うもんだからまた声が出てしまった。  塾長は違うな。  心泥棒って。  ルパ○三世じゃあるまいし。 「まぁ、心盗まれた的な事は否定しませんけど……」  彼を見ると、奈良崎さんは、ほらな、と笑った。 「それで、好きな男が見つかったらしくってそこに行ったっぽいんですよね……」  その言葉に奈良崎さんは、うわぁ、と表情を同情が含んだものに変えた。  言葉で言われるより分かりやすい。 「そんな時はな、取りあえず、飲め。一旦、飲め。で、また考えろ。骨は拾ってやる」 「……え、俺、死ぬんですか。死ぬ前提の話ですよね?」 「いいから、飲めって、な?」 「な?と言われても……」  奈良崎さんは着物の店員に「花陽浴」という焼酎を注文していた。  その日本酒が届き、口に入れた。  ガスが強く口の中でよく弾ける酒。  濁り酒のフルーティーで甘さが後を引くなと思ったが最後、俺の記憶はなくなった。
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