Kiss. 10

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◇  1月17日土曜日。日本列島を寒波が覆い、暖冬に亀裂を与えるかのように空気の温度が下がった日だった。  昼休憩でコンビニの握り飯を店の裏のスタッフルームで食べているとスマホが震えた。すぐさま表示を見ると名前は待っていた人物の弟だった。嫌な予感がした。画面をタップして、電話に出る。 「はい、」 『律、今大丈夫?』 「昼メシ食ってるとこ。大丈夫……何?」  何?なんて愚問だった。おとはの事であろうことは明らか。 『……おとは、帰ってきた』  おとはがいなくなったと連絡を受けて5日目。  アフリカに行って帰ってきたとしたら妥当な日数だった。  まず帰ってきた事にホッとした。 「帰ってきたのか、………コケ野郎も一緒?」 『………、一緒、……』  一緒、かぁぁぁぁ〜。  スマホを耳に当てたままうな垂れる。  いや、いいんだけど。  別に帰ってきたんだったらいいんだけど、いや、全然良くないけど。  どっちだよ、俺。 「じゃ、あ、えーっと…………」  俺が声を発しながら言葉を考えていると、ちょ、おい、何だよ、と電話口が騒がしくなった。何だ、と思って、姿勢を正す。 「おい、陽一郎、どうした、大丈夫か?」  俺の質問に、穏やかで抑揚のある優しい女の声が響いた。 『拓未?』  途端に胸が苦しくなる。  声が出ない。  クソっと悪態をつこうと思ってもつけない。文句の一つでも言ってやろうと思っているのに、声が聞けて嬉しくて、嬉しすぎて声が出ない。  本当に救いようのないバカだ、俺は。 『拓未でしょ?』  涙まで出そうになる。  喉でつっかえる声を絞り出す。 「…………そ、う、だよ」  なんでも言えって言ったよな、俺。  俺を頼れって言ったよな。  なんで連絡もせずに好きな男の所に行ったんだよ。  俺達、恋人って言ってたよな。  俺まだフラれてないよな。  コケ野郎と、会えたのか。  お前の穴は埋まったのかよ。    今、幸せかよーーー。  聞きたい事も、言いたい事も、感情も、ぐちゃぐちゃ。  なのに、やっぱり1番強い気持ちは1つだけ、バカみたいにぽっかり浮いている。 「おとは、好きだ。会いたい」  指示を全く聞かない俺の口は勝手に動いて、言葉を発した。  会ってくれるかどうかもわからない。  ひょっとしたらこの電話で終わらされるかもしれない。  それだけはごめんだった。  せめて、コケ野郎と幸せに笑ってる姿を見てからもう完全に打ちのめされてから、ギブアップしたい。 『………うん、………ズッ』  電話口の向こうで鼻を啜る音がした。  なんで泣く必要がある? 「……なんで、泣くんだよ。コケ野郎と一緒に帰って来たんだろ?泣くなよ、笑えよっ!」  気づけばスマホを握って大声をあげていた。  立ち上がって、声を荒げる。自分が止められなかった。 「幸せになるんだろっ!?、約束が守られるんだから笑えって」  コケ野郎は何をしているのかとイラついた。  なんで、泣いてるのに慰めない?  まさか、まだ仕事をしてるのかよ。  信じられねぇ。一緒に居ろよ。好きな女を大切にしろよ。俺ならもっと大切にする、こんな些細な事で泣かさない。  そこまで思って、俺は大きく息を吐いた。  落ち着け、自分と宥める。 「今、どこ?」  いつもより低い声が出た。 『………今、家』 「分かった、待ってろ」  電話を切って、三井さんの姿を探す。  彼女を見つけて、声を掛けた。 「店長っ、後でなんでもします。午後からの予約キャンセルしてもらっていいですか? どうしても今、行きたい場所があるんです」  必死な表情に只事ではないと感じたのか、今から!?と声をあげたが、一旦、その声をあげた感情ごと彼女はゆっくりと呑み込んだようで、ふぅ〜と息を吐いて、言った。 「……分かった。じゃあ、有給って事で」 「ありがとうございますっ!」  俺は大声でお礼を言って頭を下げた。  すぐに、店から飛び出した。  意識しなくとも足は走り出していた。  ポケットにはスマホと家の鍵。  一旦、家に帰って、指輪の入ったケースを持つ。  そして、市ノ瀬駅前の花屋で12本のバラの花束を買う。  なるべく、早く、直ぐに、急げ。  その指示が体に伝わる。  走れ、走れ、走れっ。  この準備のイメトレはもう何度もした。  何度もして、本人がいなくなっただけだ。  おとはを泣かせる男に、彼女は渡さない。  彼女がそれを許しても、泣かせるのなら俺が許さない。
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