Kiss. 10

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◇  最近、走ってばかりだ。  体が上下しながら、息と鼓動がぐんぐんと上がっていく。  おとはに出会って俺は感情の起伏が激しくなり、やたら彼女に向かって走っている。肩に乗せた12本のバラの花束の包装紙とビニールがぶつかり合って、ガッサガッサガッサとうるさい。  すれ違う人の目も不躾でうっとおしい。  ポケットの中の群青色の小さな指輪ケースを確認して、通い慣れた大理石調のマンションのエントランスホールに入った。  走ったから心臓の速度が尋常ではないのか、それとも負け確定の戦いに無謀にも挑戦しているからなのか、動機の分からない動悸を聴きながら、勢いで503号の部屋番号を押す。 「はい」  おとはの声が出た。  深呼吸してながら名前を振り絞る。 「た、くみ、………あけ、て」  息も感情も整わないし、冷静な判断が出来ない。  彼女にとってこの行動も迷惑なのかそれすらも分からない。  自分の想いのまま突っ走っている。  けど、そんな事、全部どうでもよかった。  好きな女が泣いているのならなんとしてでもそれをどうにかしてやりたい。  ただ、それだけで、走ってきた。 「……うん、どうぞ」  エレベーターホールの扉が開いて、エレベーターのボタンを、せわしなくカチカチカチと5回ぐらい連続で押す。  エレベーターが来て、乗り込んで、5階を押す。  5階に着いたら開ききらない扉に腕を出して、503号室に向かってインターフォンを押した。  息を吐いて、吐き切って、まだ吐いて、思いっきり吸う。  横隔膜を肺に入り込んだ空気が広げた。 「拓未、開けて」 「了解」  返事をしたのは陽一郎の声だった。  扉が開けられ、玄関に足を踏み入れる。 「律、来たのーーーって、なにその花束、バラ!? バラ持ってどうした!?」  その言葉に返事をせずに足元を見た。  見たことのない種類の靴が目に入る。  買おうと思った事もない。山歩きに履いて行くような泥のついた底の分厚い靴があった。靴紐じゃなくて太いゴムで、靴のベロを締めている。見るからにアウトドア用の履きならされてくたくたな靴。  舌打ちをして、靴を脱ぐ。  居るのかよ。  じゃあ、ちゃんと慰めろよ。泣かすな。 「おい、律、待て。ちょっと、待てって、おいって。全然、聞いてない〜」  陽一郎を追い越して、廊下を進みリビングに入る。  おとはは赤い目で俺を見上げた。  ソファに座っている。  横には男がいた。  陽に焼けた顔に細い目。顎に少しだけヒゲを生やし、淡々とした表情を浮かべる男が座っていた。黒髪で効率だけ考えた髪型。オシャレでもなんでもない。野暮ったくはないが、同時に無駄もない。  俺を見ても表情を一つも変えない。その態度にイラつく。  横の女が目を腫らして泣いてるんだから、慰めるとか抱きしめるとかしろよ。  横の男を睨む。 「お前、おとはと結婚するんだろうな?」  その質問に男は怪訝そうな表情を浮かべ、困ったように口を開いた。 「……いや」  いや?その言葉にイラつきが増す。  そこは二つ返事で、はい、だろっ。 「おとはちゃんとは、結婚出来ないよ。僕、結婚してるし」 ーーーは?  耳を疑うその返事に頭でブチンと何か糸が切れるような音がした。  おとはの腕を掴んで、自分の前に立たせる。 「おとは、こいつはダメだ。絶対ダメ。絶対おとはは渡さない」  なるべくコケ野郎とおとはに距離を取らせる。  同じ空気を吸っているだけで不快だ。  コケ野郎、大したことない。しょぼすぎて話にならない。こんなヤツに任せられない。もういい、役不足確定。  おとはが良くても俺は、ぜんっぜん、少しも、ちーーっとも良くない。  俺はおとはの目の前で(ひざまず)いて、指輪が入っているケースを取り出した。  花束は一旦、床に置いた。  指輪を差し出して、おとはの涙の跡がある顔を見つめる。泣き腫らした目をしている。その顔を見て、胸が痛くなる。慰めたい、優しくしてやりたい。それにはまず『1番』の資格が欲しい。  俺なら泣かせない。  泣いたとしても、最後には絶対、笑わせる。  だから。  だから、頼む。  (ひざまず)いて、指輪と花束を差し出す。 「篠原おとはさん、俺と結婚して下さい」  頷いて。
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