Last kiss

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 仕事は変わらず順調で、予約は2ヶ月半先まで穴を開けながらも埋まりつつある。  街路樹が並ぶ歩道を進むと自宅のマンションが見えて来た。俺は通勤の効率も考え、家を引っ越した。  木目調のブラウンとベージュで統一された落ち着いた雰囲気のエントランスを抜けて、エレベーターホールに向かう。  おとはと陽一郎が住んでいたマンションに比べると格式は落ちるが、部屋数はこっちのマンションの方が多い。間取りが多いところを引っ越し場所に探していた。  3階でエレベーターを降りて、南の角の301号の部屋を目指す。この部屋が空いていたのはラッキーだった。日当たりがいいとリクを窓際で日光浴させる事ができる。  扉のノブを引いて鍵が開いていることに、俺は眉を寄せた。鍵を閉めろっていったのに、と軽く舌打ちをして、扉を開けた。 「ただいま」  俺が声をかけると、チャイロとシロが俺を出迎えた。  飛びかかろうとしてくる2匹を目で静止させ、左手を(かざ)す。 「ステイ」  2匹はピタッと座って俺を見た。 「よし、2匹とも良い子だな」  チャイロの毛ダルマの首をさすって、シロの頭を撫でた。俺は靴を脱いで、廊下を抜けた。マフラーを外して、コートを脱いでクロークにかける。  リビングに入ると、ソファに座った大きな瞳をした彼女が俺を見上げた。大きくなったお腹の上で編み物をしている。左手も薬指には銀色の輪っか。ブルーの靴下らしきものを編んでいる。料理も家事も出来て、編み物まで出来る器用な手。 「おい、おとは。この家はオートロックじゃないって言っただろ。玄関の鍵を締めろよ。不用心だろ」 「あ、拓未、おかえり〜。今日、寒いね?雪降ってた?マフラー暖かかったでしょ?」  おとはの手前を歩いていたリクを持ち上げて、窓のカーテンを開けた。 「うん、マフラーサンキュ。雪は降ってる」  外に粉雪が舞っていた。  リクの甲羅を撫でて、ゆっくりとリク用のゲージに入れた。 「調子はどう?腰痛いって言ってたのマシになった?」  俺の返事におとははお腹に手を触れた。 「うん、拓未が買って来てくれた腹巻きあったかいよ。あんなのどこで買ったの?しかもあれ、産後にも使えるんだね」  おとはは驚きながらも嬉しそうに笑った。 「妊婦は冷やしたらダメってちゃんと本に書いてただろ、読んだ?あの本」  俺はリビングを見回して、ローテーブルの下の雑誌置き場に埋もれている本を取り出した。  背表紙に『妊娠、出産のすべて〜親への一歩〜』と書いている。  雑誌をパラパラとめくって、目的のページを探す。 「……ほら、ここ見ろ。助産師が冷えは大敵、赤ちゃんにもお母さんにもお腹の張りを強めて、出産時にもお産の妨げになりますって書いてるだろ。足首も冷やすなよ」  俺の言葉におとはは、声をあげて笑った。 「拓未が産むんじゃないでしょ」 「いや、そうだけど。だから尚更。妊娠中なんだから、体大事にしろ。ちょっとでも快適に子供もおとはも過ごせるように考えるだろ」  おとはは、ふふふと笑みを浮かべた。 「拓未、ありがとう。お陰さまで快適です」 「……なら、いいけど。大事にしろよ。俺たちの子なんだから」  俺は洗面所に向かい手洗いとうがいをしておとはの横に座った。 「……触っていい?」  大きくなったお腹に触れる前に彼女に聞く。おとはは、いいよ、と穏やかに笑った。  そっと手を伸ばすと腹の中からぽこんと反応があった。 「ちょ、い、いま、蹴った。わ、ヤバい、生きてる、すげっ」  興奮してつい言葉が次々出てしまった。  おとはの腹の中からの動きにびっくりした。 「まだなれないの?初めて動いたみたいな反応いつまでしてるのよ」  おとはは呆れたように笑った。 「だって、おとはは24時間一緒だろ?俺は触った時しか分かんねぇんだから、動いたら、感動する。元気に大きくなれよ」  俺がお腹に話しかけると、おとはは声を出して笑った。 「もう、また話しかけてるし。可笑しい」 「……おとはが言ったんだろ。相手が喋らなくても仲良くなりたかったら話しかけろって」 「……それ、いつの話?その本に載ってたの?」 「違う。お前が、俺に話しかけたら仲良くなれるっつたんだろ」  おとはから言われたことの一つ。  向き合う事を教わった。  そのきっかけは会話。やりとり、をする。  おとはは、わたし言った?なんて首を傾げている。言った本人は気にも留めていなかったみたいだ。 「……あ、今日ね、碧斗(あおと)さんから連絡があった」  ソラ野郎。  俺の中ですぐに名前が変換される。 「なんて?」  おとはに返事をすると、彼女はまた、ふふふと笑った。 「何が可笑しいんだよ」  俺が怪訝そうに返事をするとおとはは、あはは、と声を大きくして笑った。  右目の下のほくろが頬と一緒に動いた。 「だって、あの日、碧斗(あおと)さんと緑くんを勘違いして、プロポーズした日の事、また碧斗さんに言われたから」 「………いや、もう、その話はいい」  俺が手を挙げると、おとはは涙を浮かべて笑いながら顔を覗き込んできた。 「恥ずかしいの?みんな見てたもんね。陽一郎なんか、呆れ顔通り越して、最後は拍手してたもんね」 「だから、もういいって。言わなくて」 「……双子だし、緑くんに確かに雰囲気は似てるもんね。でも、会ったことない人を勝手に勘違いしたのは拓未だよ?」  しょうがねぇだろ。  もう周りなんて見えてなかった。  おとはが泣いている事で頭がいっぱいだった。  泣き止ませるために、必死だった。 「まぁ、一緒に帰ってきた緑くんは服と荷物で本人は骨だったもんね………」  その言葉に俺はおとはの顔をまじまじと見た。目はさっきの笑いで涙ぐんでいるが、苦々しい表情は浮かべていない。下唇も噛んではいない。  諦めたような遠くを見る目。  コケ野郎を想うときのおとはの表情はこの1年で変化した。おとはの1番の男は帰ってきたが、約束は守らなかった。彼女はそれをどう思っているのかは深くは聞けない。やっぱり俺は2番なのかってもう聞けなかった。プロポーズに頷いてくれたのは、俺がしつこかったから根負けしてくれたのかもしれない。今更、怖くて聞けない。  埋めない、奪わない。でも、手を緩めなかった結果は、結婚した今も、正直不安な部分がある。子供も出来て、新居で新しい家族が増えるのを心待ちにしている一方で、そこだけが気になっている。 「拓未?」  おとはに名前を呼ばれてハッとして、彼女の顔を見た。  一緒にいれるだけで幸せなのに、やっぱり心はどうなんだろうかって、ずっと思っている。 「あ、で、ソラ野郎はなんて?」 「また変なアダ名で呼んで。緑くんの墓ができたからまた参ってやってって話だった」 「……ふーん。了解」  俺は返事をして立ち上がった。 「拓未、」  立ち上がった服の裾を引っ張られ、俺は振り返った。  おとはは真剣な表情を浮かべている。  その顔に緊張が走る。ってまだ緊張するのかよって思うけど、もう条件反射みたいに体に染み付いてる。 「……何?」  返事をすると、彼女は真っ直ぐと俺を見た。 「拓未、本当に、ありがとう。………それから」  言葉を待つ。  待つのはもう慣れた。慣れたけど、得意なわけじゃない。彼女の一言、一句に緊張するのは変わらない。真剣な顔をされたら何を言われるのだろうかと身構えてしまう。 「それから、…………拓未にちゃんと言ってなかったけど…」  言ってないとか、もう変な振りやめてくれよ。  心臓がどくどくどくって鳴り止まなくなる。 「拓未、大好きだよ。でも、1番じゃなくてーーー」  大好き、にすかさず彼女を抱きしめていた。  初めておとはが俺に好きって言った。嬉しくて、ヤバい。子供できた時と同じぐらい嬉しい。え、やったーっとか大声で言いたい。いや、言っていいか。言いたい、でも最後まで聞かないと。 「1番じゃなくて?」  2番かよ。  もうコケ野郎は永久欠番を持って行ったからな。心で毒付く。 「拓未は1番じゃなくて………わたしの特別ね。ずっと一緒にいてくれるんでしょ?」 「特別………」  嬉しすぎて、声が出なかった。  力一杯抱きしめたいけど、お腹の子供を圧迫して苦しくなったらいけない。  代わりに額と頬と瞼にキスを落として頭を撫でた。 「ずっと一緒に居て、また寝る前にキスしてね」 「……そんなの何回もしてーって、寝る前にキスしてるの知ってた?」  毎日おとはが寝ててもこっそりと、彼女の瞼に、頬に、額にキスをして、おやすみを囁いていた。  まさか、それがバレていたとは思わなかった。 「うん、ずっと前にお酒飲んで寝ちゃった時も瞼にキスしてくれたでしょ?拓未は気づいたら特別だった。…………人の愛を教えてくれて、ありがとう」  今度は嬉しさを通り過ぎて泣きそうになった。まさか、嬉しくて涙が出るとかありえない、と思って誤魔化すように彼女の耳に唇を寄せた。 「ずっと、死ぬまで、一緒にいような」  彼女の唇を見つめて、自分の唇を、そっと重ねる。  彼女が望むなら、何度だって、何万回、何億回だって、キスをする。  おやすみのキスも、おはようのキスも、愛してるのキスも。俺の想いを乗せて、2人を死が分かつ、その日が来るまで。 約束したから。
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