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ーkiss. 10から3ヶ月後ー
「hair salon Moody」の看板を背に、着ていたグレーのロングカーディガンのポケットに手を伸ばした。スマホのロックを解除して、篠原おとはの名前を探す。発信ボタンを押して、スマホを耳に当てて、足を目的のマンションに向ける。
『もしもし?』
発信音の後におとはの声。
「今仕事終わった。飯食いに行っていい?」
『いいよ、待ってる』
その返事に頬が緩む。俺を待っているらしい。耳から入った言葉をエコーのように繰り返していると、電話の向こうで、何?聞いてる?拓未?と名前が呼ばれた。
「聞こえてるよ」
何とか平静を装って返事をすると、じゃ、とあっさりと電話を切られた。
ポケットにスマホを入れて、早足に目的のマンションに向かう。大理石調のエントランスを抜けて、503号の数字を押すと、返事もなくエレベーターホールの扉が開いた。
いや、電話したけど一応確認しろよ、と思わず応答もないインターフォンに向かって声が出そうになった自分を抑えて、エレベーターに乗り込んだ。
503号、篠原の表札を見てインターフォンに押す。
「は〜い、拓未でしょ?」
「うん、開けて」
ガチャとオートロックの解錠音が響き、扉が開くと大きな瞳の髪の短い栗毛が俺を見上げた。すぐに腕を伸ばす。
「ち、ちょっとっ」
おとはの声が腕の中でしたが、構わず抱きしめた。
「ただいま」
俺の言葉に、もう、と小さく声を漏らして、おとはは腕を俺の背中に回した。かと思うと、強い力で着ていたカーディガンの裾をぐいっと引っ張られた。バランスを崩しそうになると唇に柔らかい物が触れた。おとはは唇にキスをして、パッと体を離した。あっさりとした引き際に彼女の体を捕まえて、抱き寄せた。
「もうっ、拓未?」
自分だけ好き勝手しようとするなんて相変わらずズルい女だな。
「待て。何でそんなに今日は寄ってくるんだよ」
「…何でって、今日は拓未の誕生日じゃないの?」
誕生日。
聞き慣れないフレーズに思わずキョトンとしてしまう。
「誕生日って、俺の?」
4月26日。
確かに俺の誕生日、だけれど、おとはにその事を言った事はなかった。
「陽一郎が言ってたのよ。もうすぐ誕生日だから、祝ってやれって」
ナイスアシスト陽一郎。
思わずガッツポーズをしそうになった。今度、礼を言わないといけない。でも、この前、陽一郎のプロポーズのタイミングや指輪の話で相談に乗ったからお互い様か?人には色々突っ込むくせに意外に陽一郎は小心者だった。
「律みたいに俺はグイグイ行けない」とか何とか言ってたけど、誰とでもすぐに仲良くなって気づけば人の中心でいる陽一郎にそんな一面がある事は逆に安心した。何だ、陽一郎でも上手く出来ない事があるんだって、親近感を持った。おとはに対して必死な俺ばかり見られてて、呆れられてるんだろうなって思ってたけど意外にそうじゃなかったらしい。まぁ、何にせよ、この状況は嬉しすぎて思わず笑ってしまう。
「で、おとはが祝ってくれんの?」
「うん、27歳おめでとう、拓未」
大きな瞳で俺を見上げてくるもんだから、すぐに彼女を腕の中に閉じ込めた。あー、ダメだ我慢できない。抱きしめた腕を少し緩めて、顔をおとはに近づけようとすると、ちょっと、と遮られてしまった。
「ちょっと、待って」
「いや、待てない」
顎を引き寄せて唇を重ねる。
最初は少しだけ抵抗していたおとははすぐに受け入れて、何なら舌を入れたら俺にしがみ付いてきた。左手で頭を撫でて、髪を梳きながら、繋がる口同士から広がる熱に身を任せている彼女に酔いしれていると胸を両腕で軽く押された。唇がゆっくりと離された。
「…何?」
自分の口から不満を含んだ低い声が出た。待てないって言ったよな。
「ケーキ作ったから、それ食べて。あと、拓未、何が1番好きか分からなかったから、煮込みハンバーグにしてみたけど…」
おとはは少しだけ頬を赤めたまま俺を見上げた。これには弱い。
「だから、今は待って。食べた後、ね?」
この鬼悪魔め。
俺を思うように振り回して、誕生日ぐらいは、と思いながらも俺の首は素直に頷いていた。
「分かった。…飯、すっげー嬉しい。でも、おとはも抱きたい。…どうしよ」
「拓未」
おとはは俺の名前を呼んで、腕を引き寄せた。バランスを崩しそうになり、この家に入ってきたときと同じ既視感を覚える。唇にキスされ、続けて頬にキス。
大きな瞳で見上げられて、少し伸びたふわふわな栗毛が揺れた。可愛い。
「ご飯の、後。ね? あとでいっぱいしよ?」
その可愛さと言葉の威力にやられて、仕方なく頷く。鬼悪魔の威力は全然、衰える事はなくむしろ力を増しているように思う。
「…分かった。飯、食うわ」
おとはには一生かかっても叶わない気がする。でも、勝つ気も更々ないし、勝てるとも思っていないけどな。
リビングに向かう彼女の後ろ姿を追いかけると、シロ、チャイロが顔を覗かせた。手を差し出すと2匹はゆっくりと寄ってきた。
入籍日と結婚式、引っ越しの日を待ち遠しく思いながら、1日1日の充実した時間を噛み締めて、出会った時はこんなにも彼女が愛しく大切な存在になるとは思っていなかった様々な気持ちを反芻した。
リビングの机の上には茶色の縁取られた紙に律川拓未、篠原おとはの名前が記入されている。その紙に手を伸ばし、顔の高さまであげて見る。
「拓未、何見てるの?」
おとはに問われ、婚姻届を折りたたみ、汚れないように机の傍に避けた。紙切れだけど、実感もないけど、誕生日を祝ってくれる存在が出来るなんて思いもよらなかった。自分より相手の幸せを考えるなんて想像した事もなかった。
「拓未、座ってて」
おとはが穏やかに笑って、俺を見た。返事をしてリビングの椅子に座ってキッチンを見ると、彼女がケーキを運んできた。
「これ見て!わたしが作ったのよ。意外と簡単だった」
「うわっ、すげ」
生クリームでデコレーションされたケーキに苺やミカン、黄桃、白桃、ブドウが乗せられている。
「美味そ」
思わず言葉が漏れて、おとはを見ると、ふふふ、と穏やかに笑った。
「拓未、誕生日、おめでとう」
「ありがとう、おとは」
低く響いたその声は自分が思ったよりも落ち着き、満ち足りていた。
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