名も無きペーソス

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「お父さん、お父さん!」 ベッドの上で荒々しく呼吸を繰り返し、今まさに命を終えようとしている父親。 すがり付いて悲痛な声を上げる母親。そしてその隣で子供のように泣き続ける姉。 奈都子(なつこ)は病院の個室で、呆然とその光景を眺めていた。 確かにこの病室の中に居て、目の前のベッドでぜぇぜぇと下顎呼吸を繰り返しているのは奈都子の実父であるし、絶えず涙を流す二人も奈都子の実母と実姉だ。 それなのに奈都子は自分が今ここに存在していないかのように思えて仕方なかった。 現実味のない景色が奈都子の気持ちだけを置きざりにして流れてゆく。 「お父さん!」 たまらず姉もベッドに飛び付いて、父親の震える腕を両の手で握りしめた。 奈都子は土気色の父親の顔をじっと見る。 見れば見るほど自分の知らない感情が、次から次へと溢れ出そうとする。 ごくり、生唾を飲み込んだ。 心電図モニターが視界の端で弱々しく跳ねている。 消毒に混じる、死のにおい。 泣き声。父親が胸を大きく上下させるたびに漏れる不快な呼吸音。 くらくらと目眩を覚えた奈都子は目を伏せた。 ――なんだこれ、お前が描いたのか。 父親の声だ。もうどんなものだったか本人にも思い出せないが、幼き奈都子は絵を描いた。 奈都子は絵を描くことが好きだった。特別才能があるわけではなかった。ただ描いていることが好きだった。 「へぇ、ヘタノヨコズキだな」 当時の奈都子には何を言われたのかわからなかった。しかし意図だけはうっすらと理解出来た。 それでも父親が自分の絵を見てくれた、ただそれが嬉しかったから胸がどきどきした。 少しだけ誇らしくて、その絵をセロテープで壁に貼った。 もっとたくさん描いて、もっと上手く描いて、いつかまた父親が見てくれるように。 奈都子は自由帳に毎日絵を描いた。 「こんなもん描いてるからだろう」 数日後、父親は壁に貼られた絵を乱暴に剥がすとびりびりと引き裂いてこれでもかと力を込めて丸め、奈都子の顔に投げつけた。 恐怖と絶望。あの日の誇らしげな気持ちごとグシャグシャになってしまったように思えた。 涙を流せば「泣けば済むと思うな」と怒鳴られ、泣かずにいれば「話を聞いているのか」と泣くまで頬を打たれた。 父親の怒りのスイッチが入るのは、いつも些細な理由からだった。 幼い奈都子や姉には何が理由なのかわからない日も多かった。 だんだんと、それは父親の中の都合次第であって、決して奈都子や姉や母親の問題ではないのだと気付いていった。 仕事で何かがあったのかもしれないし、単純に疲れていたのかもしれない。 とにもかくにも八つ当たりなことに代わりはなかった。 姉は早くに家を出て就職した。 母親は父親の機嫌をうかがいながら暮らしていた。 そしていつも嵐が過ぎ去るのを待っていた。 奈都子もそれに倣って学生時代を過ごした。 機嫌の良い日の陽気な父親に安堵し、これが本当の父親の性格なのだと思い込もうとした。 すぐに期待を裏切るように、父親が暗鬱な雰囲気を纏いドスドスと足音をたてて近寄って来ても、これは仕方のないことだと受け入れようとした。 「あんたがちゃんとしないから」 母親は決まって奈都子にこう囁きため息をついた。 奈都子も、ああ、私がちゃんとしないからだと己に言い聞かせ続けた。 「誰の金で大きくなったと思ってるんだ」 頬を打たれ、髪を切られ、教科書をぐちゃぐちゃに破かれながら、奈都子はいつだって私がちゃんとしないからだと考えていた。 考えてはいたが、ずっと自分の中にある形容しがたい悲しみがあることを感じていた。 いつからあるのかもわからないし、何に対して、どんな風に悲しいのかもわからない。 だが悲しみを感じていることだけは間違いないのだ。 奈都子は悲しみの正体を探る気力もないまま大人になり、家を出た。 そのまま知らず知らずのうちに実家とは疎遠になった。 時折、母親が電話をかけてきて姉があれをくれた、これをしてくれた、それだのにお前は……と説教混じりの電話が来る程度の仲だった。 「お父さん!」 心電図はいよいよ反応を示さなくなる。 姉と母親は泣き喚く。いつの間にか医師と看護師が部屋にいて、その様子を見守っている。 「いやぁ、いやよ、そんなぁ……」 あんなに不快だった父親の荒い呼吸が止まっている。脱力しきった身体。変わらず土気色の顔色。 母親の嗚咽。膝をつき、わあわあと声を上げベッドに突っ伏して泣く姉。 「最期まで耳は聴こえていますから……」 看護師の声が機械仕掛けのアナウンスのように淡々と響く。 「どうぞ声をかけてあげてください」 看護師が言い終わるより早く、母親は叫ぶ。 「お父さん、ありがとうねぇ、お父さんっ」 「大好きだよぉ、ありがとう、お父さん、やだよぉ」 母親に続いて姉も声を上げる。 奈都子はというと、すっかりこの寸劇の行く末を見つめる観客になっている。 父親が死んだ。それなのに奈都子の中に沸き上がっていたのはあの時の悲しみ。 「妹さんも、お声を……」 遠慮がちに看護師に促されるが、奈都子は一歩二歩とベッドに近寄ってそのまま何も言えずにいた。 父親の亡骸を見下ろしていたが、心の中で向き合っている父親は絵を破ってくしゃくしゃに丸めている。 悲しい。どうして。どうして? どうして怒りを私たちにぶつけたの。どうして庇ってくれなかったの。どうしてそれを飲み込めたの。 あの日あの時、奈都子を悪戯に傷つける父親と、冷めた目で奈都子を見つめ、ため息をついた母親、必死に父親の機嫌を取って作り笑いを浮かべていた姉に対して渦巻く悲しみ。 「ありがとうとかでもいいんですよ」 押し黙った奈都子に痺れをきらしたのか、看護師がそっと囁いた。 奈都子は少しばかり体面を気にして何か言おうとしたが、母や姉が叫んだような言葉はどれも喉の奥でくるくると空回り続けている。 姉は涙を拭い、未だ泣く母親の肩をさすっていた。 父親は微動だにせずそこで横たわっている。 ありがとう、大好き、いかないで……何を言えば正しいのかはわかっていたのに、幼き奈都子が静かに首を横に振る。 「……悲しい」 奈都子はようやく、それだけぽつりと呟いた。 母親と姉のすすり泣きに掻き消されるほど小さな声で。 気付けば涙を流していた奈都子の肩をそっと看護師がさする。 奈都子がいくら泣こうが黙ろうが、怒鳴り付け頬を打つ人はもうこの世にいない。 しかし今、取り繕った言葉を言えなかったことすらあの日の奈都子には悲しいのだった。 END
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