2024/04/25/04:59

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あのひとが死んで3ヶ月。 お父さんはやっぱり泣くし、お骨も寝室にある。 私はずっと体調もアタマも悪くて、短期記憶が消えてしまう。 長弟は可愛くて、彼と話すとホッとする。 彼があれほど感情的になったのは初めてのことだった。 「マザコンといわれても構わない、自分は許さない」 と怒りを露わにした、あのとき。 「兄弟がいて良かった」 と言ったあのとき。 彼をかたどっていたのは、正にあのひとで、あのひとは死に瀕して初めて人間になった。 あのひとが死んだとき、長弟は悲しいのか怒っているのか、間に合わなかった自身を責めていた。 「今日みんなお見舞いにきて、生きてる間に会えたじゃん。良かったと思うよ」 慰めの言葉なんて、いつだって陳腐だ。 だけど私だけしか正気な家族がいなかったから。 無理、してた。 私は「お姉ちゃん」だから、と、笑顔でいなきゃ、と、あのひとの名を口にして初めて泣いたお父さんは、それでも気丈に振舞っていて、だから私はやはり笑顔を見せるんだ。 アッシャー家に属する私たちはみんな、結局のところ女帝の加護の元で、女帝の支配に安心していた。 「こうして少しずつ死んでいくんだろうな」 お父さんは、寝てる時間の増えたあのひとの側を離れて応接間に行ってから、淡々とそう言っていた。 自殺した兄が何に悩んでいたのかわからない、と、高架沿いに車を走らせながらお父さんが言っていたときを思い出した。 あのひとは、お父さんのことを 「不幸だったのよ。試験に合格した年に結核になって1年遅れたし、両親も幼いときに亡くして。家族運がなかったの。だから家族がたくさん欲しいのよ」 第四子を産んだあと、あのひとが言っていた。 あのひとが37のときだ。 あの時代には珍しい高齢出産だったと、今は思う。 第三子を産んで、仕事を一旦辞めた。 その子からは幼稚園に通えるようになり、密かに私は羨ましかった。 保育園でひとり、カタツムリを眺めて迎えを待っていた私は、なんて不公平なんだと苛ついていた。 私はずっと寂しかったのに、この子たちは全然寂しくないと思っていた。 「いらない子」な私は、精神的自立が他の兄弟と比べ早かったと思う。 あのひとはそんな私を「オンナ」と見做し、そして虐待が始まる。 やがて育った妹も、私と同じ扱いを受け出し、私たち姉妹は互いを守りながら息を潜めてアッシャー家で生きていた。 いつ、何が女帝の地雷を踏むことになるのかわからなくて、突然始まる責苦に怯えて育った。 なのに、死に瀕したあのひとは、まるきり一生分可愛がって育てたかのように、私たちを見ると笑顔を見せていた。 ずるい。 けれど、死にゆくあのひとを責めても、最早何の意味もなく、私は明るく振る舞い、妹は泣いていた。 あのひとが、もうアッシャー家には帰れないであろう入院をした当初、妹は、死の床についたあのひとに顔を見せられないと言っていた。 曰く 「いつも苛つかせてしまっていたから、母は私の顔を見たくないと思います」 と言う。 そんな彼女に私が 「お母さんは、私にはいつも『妹の方があんたよりずっと美人よ』って言ってたよ笑」 と返すと、すぐに妹は病院に駆けつけ、そしてやはり泣いて帰ってきた。 呪いだ。 死して尚、こんな思いをさせる、あのひとの呪いだ。 私は『お姉ちゃん』だから。 笑っていないといけない。 明るく振る舞い、父を安心させなきゃいけない。 思い出話に付き合って、長弟と笑い合わなきゃいけない。 末弟は他の兄弟を俯瞰しそして、さりげなく優しい言葉をかけてくる。 あのひとのことを話さないのは、末弟だけだ。 兄弟の中で最も甘やかされて育った彼だけが、空気のように優しい。 それが一番悲しい。
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