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秀治は雅楽に美奈子のことを話した。
「なんだ、隠し子がいたのかと思ったぜ」
楽しそうに雅楽は言う。
「おそらく、まだガキは出来たことないと思いますけど」
秀治が言うと雅楽は笑う。
「ばぁか。ンなことお前が分かるわけねぇだろ。そのうち腹の膨れたオンナが現れたら楽しいのにな」
雅楽はニヤニヤして言う。
「そう言う日がないことを願いますけど」
恥ずかしそうに笑いながら秀治は言う。
「まぁ、特に今のところ忙しいこともねぇし、帰っても良いぜ」
雅楽は退屈そうに伸びをしながら言う。秀治もホッとした。
「すんません。失礼します」
秀治が頭を下げて、雅楽の部屋を出た。
雅楽は1人になると煙草を手に取り、火をつけ煙草を愉しむ。
あまりにも刺激がなさすぎて平和ボケしそうだった。
雅楽の部屋を出た秀治は、事務所を出てさくらんぼ保育園に向かった。
今日はふたりで過ごす初日だったので、なるべく早く美奈子を迎えに行きたかった。
父親の違う歳の離れた妹が、口には出さないが可愛くて仕方ない。
ただ、自分の立場を考えるとあまり近くに置くのは危険だと分かっている。
保育園に着くと、美奈子は嬉しそうに出て来た。
「こんにちは。美奈子ちゃん、今日も元気でしたよ。お昼寝も時間通りにできているので、お家に帰ったら、夜もちゃんと早目に寝かせてあげてくださいね」
実子から1日の様子を聞いて秀治は美奈子の手を繋いだ。
「あ、あのッ!食事は大丈夫ですか?」
秀治は振り返って実子を見る。
「あー、数日なんで、昼の給食で栄養取れれば良いかなと」
秀治が言うと実子は引きつって笑う。流石に秀治に食事を求めるのは無理かと思った。
「確かに数日でしょうけど、出来るだけお野菜は食べさせてあげてくださいね」
実子が言うと秀治は頭を掻いた。
「野菜か。何が食えんの?」
秀治が美奈子に尋ねる。
「いちご!」
嬉しそうに美奈子は答える。
「それ、フルーツだろ?」
呆れて秀治が言うと美奈子はニコッと笑う。
「あ、どうしてもと言うときは、いちごでも良いと思いますよ。あと、バナナとかりんごとか」
楽しそうに実子が言うと、美奈子が秀治のジャンバーを引っ張る。
「うささんのりんご食べたい!秀治兄ちゃん、うささんのりんご!」
可愛い笑顔で美奈子が言うと、秀治はフッと笑った。
「分かったよ。って、うささんのりんごってなんだ?何かのキャラクター?」
ピンと来なくて秀治が美奈子に聞くと実子が微笑む。
「ウサギに見えるりんごの切り方だと思いますよ」
実子に言われて秀治もなるほどと分かった。
実子の笑顔をふと秀治は見つめた。いつも柔らかな笑顔でニコニコしているなと思った。
「分かった、分かった。うささんな。よし、帰るよ」
秀治は実子に会釈する。
「実子先生!バイバイ」
笑顔で美奈子が言うと、実子はふたりを見送った。
ふたりが仲良く手を繋ぐ姿を見届けると、実子は後片付けを終わらせようと教室に戻った。
仕事を終わらせ帰り支度をしていると、実子は園長に呼ばれて園長室に入る。
「ごめんなさいね、少しだけお話があって。そこに掛けてね」
にこやかな笑顔で、おばあちゃん園長は実子をソファに座らせる。
実子はなにかと少し身構えた。
保護者から、何かクレームがあったかと考えるが特に身に覚えはない。
「緊張しないで。仕事の話じゃないのよ。実はね、知り合いの方からお話があってね」
園長はそう言うと、1枚の写真を実子に見せた。
「高尾浩二さんて言う方なんだけど。どうかしら?実子先生とお見合いしたいって言うんだけど」
誠実そうな優しそうな男の写真に実子はドキッとした。
まさか自分に見合いの話が降りかかると思っていなかった。
「あ、あのッ!私、そのッ」
突然の話で戸惑う実子。
「浩二さんは実家の不動産屋さんに勤務していて仕事も真面目なのよ。歳は25だったかしら。実子先生と同い年よね。次男だから同居の心配もないし」
園長はドンドン話を進める。
「あのッ!突然言われても」
焦る実子。
「もしかして、恋人がいたのかしら?他の先生に聞いたら、実子先生、恋人はいないようだと聞いたんだけど」
あの先輩保育士かと実子は思った。
「お付き合いしてる人は、確かに今はいませんが」
どうしようと思いながら実子は言う。
「もしかして、好きな人がいるの?」
好きな人と聞かれて、秀治の顔が浮かんで実子は真っ赤な顔でドキドキした。
「あ、あのッ。す、好きなって言うか、いえ、その、特には」
後半は小声で実子は言う。
なぜ突然秀治が浮かんだのか実子にも分からない。
まだ数回会話をしただけで、どんな人物か年齢すら知らない。
「もし良ければ会うだけでもどう?実はね、浩二さんが実子先生を気に入っているようなの」
園長の言葉に実子は驚く。
「何度か朝、実子先生を見かけていたようでね。ここ、ちょうど通勤ルートなんですって。それでこのお話が来たのよね」
そうだったのかと実子は思った。見掛けたことがあるかも知れないが、自分はちっとも気付いていなかった。
「会うだけでもどうかしら?実際お話ししてみないとお互いのことも分からないし。どうしても無理ならお断りするんだけど」
実子はどうすれば良いか答えが分からない。
どうして秀治が浮かんだのか、今もチラチラ浮かぶのか分からない。
まだ少ししか話したことがない、どう見ても自分よりも年下の秀治が気になって仕方ない。
「あの、すみません。このお話し、やっぱりお断りさせてください」
実子はそう言うと頭を下げた。
園長は残念そうな顔をしたが、仕方ないと諦めたようだった。
「分かりました。大丈夫よ。あちらには、実子先生には好きな人がいるって言っておくわ」
にっこり笑って園長は言う。
「すみません」
実子は恐縮して園長を見てまた頭を下げた。
人見知りが激しいのが災いして、見合いと言う言葉に萎縮してしまったのだった。
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