初日の出B

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初日の出B

 私は老人だが、普通の老人よりは足腰がしっかりしているつもりだ。とにかく心に芯があるのだ。頑固さとも言うが、固い固い芯を持っている。ご近所でも、評判だ。頑固おやじ、と。  夢だったらしい。目を開くと、真っ暗闇に包まれていた。物音はしなかった。冬の張り詰めたような静寂が好きだ。  起き上がって八畳間の電気を点けた。寒気が覆っていて、半纏を纏って、布団を畳んだ。  そこで、自分の心が弾んでいることに気付く。  妻が私のことをよく揶揄して言っていた。貴方は頑固そうに見えて、茶目っ気があるわね、と。こうした日には上機嫌だったことを知っていたからだ。  洗面所で顔を洗って、タオルで拭いた私は、鏡の向こうの老人に問い掛けた。今日は何の日だ? すると、老人はむすっとした顔で、口をへの字にして答える。 「元旦だよ」  そう、元旦だ。行くべき場所は一つしかなかった。  ダウンジャケットを羽織って、アパートから出た。暗い中をゆっくりと進んでいく。隣でミチが一緒に歩いている光景がふと蘇った。 「初日の出なんて久しぶりですねえ」 「何でわざわざこの寒い中、行かなくちゃいけないんだよ。お前一人で来れば良かったのに」 「そんなこと言ってますけど、期待に満ち溢れていますよ、何だか。頑固ですねえ、その素直じゃないところも」 「軽口ばかり叩いていると、今にすっ転ぶぞ」  その言葉の一つ一つが温かく感じた。それが、私達の日常だ。ミチの底の知れないところは私の毒舌に平然と返すその柔軟さだ。  そこでふと背後から「あ」と子供の声が聞こえてきた。後ろからいくつかの足音が追ってきて、家族連れが現れる。 「おじいさん。早いですね」 「僕達も、初日の出を見に行くんです」  男の子が、両親の手にぶら下がっていた。 「私もだよ」  ぽんと、頭に手を置いてやった。嬉しそうに見上げてくる。 「寒いのに元気ですね。足腰もしゃんとしてるし」 「この日を楽しみにしていたんだ」  まさか、素直にそんな言葉が出るなんて、私は本当に楽しみにしていたのだろう。 「紅白を見ながら、初日の出はどうする? って話し合ってたんですけど、結局、行くことにしたんです」 「賢明だ」  その家族は私に付き添ってくれて、ようやく丘の上へと来た。まだ薄暗かったが、近所の人々がそこで早くも談笑していた。  甘酒が振る舞われた。それで見に来る人が多かった。 「おじいさん、どうぞ」  奥さんが紙コップに入った甘酒を渡してくる。 「ありがとう」  笑顔で礼を言って、紙コップに口を付けた。  体の芯からあったまった気がした。ぽかぽかと体が火照り出した。  一番心に芯があるのは私ではなく、こうした家族や人々の笑顔にこそあるのだ。日常を生きていく軽やかな芯だ。  人々の中に立って、明るくなっていく空の下、山々を見つめていた。徐々に空に光が滲み始め、色づき出す。案外早くそれが覗いた。  歓声が上がった。当たり前の日常に歓声を上げる人々は、確かに目を輝かせていた。  私の瞳も、輝いていた。  雪を纏ったような濃紺の山間に、灼熱の輝きが立ち上ってくる。地平線近くの雲が脈打って白く霞み、色の境界をはっきりと刻んだ。そこにぎらぎらとした眩い朱の迸りが現れる。  ゆっくりと時間を掛けて上っていく。  私の心に生命を注ぎ込んで。 「綺麗ですね」  ミチの言葉が耳元で蘇った。いや、蘇ったのではなく、今、そこにいるのだろう。  彼女の温もりを探し、目を潤ませながら、来年も来るぞ、と誓った。  まだまだ私はこれからだ。お天道様に力を分けてもらったのだから、今年一年、元気に頑張ってやる。  生きるぞ。  気付けばそう口にしていた。  隣に立つ男の子が、生きるぞ、と同じように繰り返した。  了
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