その人がやったんじゃありません

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 その男が捕まったことを知ったのは、いつものように家政婦の奥寺さんの用意した朝食を食べながら朝刊に目を通したときだった。  紙面の隅にちいさく、「住田町ひきにげ事件の犯人逮捕」の記事が出ていた。  男は43歳のサラリーマンで、事件の夜酒を飲んで運転し、78歳の女性をはねたということだった。 「酔っ払って運転するのが悪い」  私はそう呟いた。  そう、どう考えてもこの男が悪い。車のへこみは自宅のガレージにぶつけたのだ、なんて、いくら主張したところで信じてもらえないのも無理はない。前方不注意、自業自得、危機管理能力なし――。  警察は男を危険運転致死傷罪で立件する方針だということだ。 「この男が悪い」  またそう言って新聞を置き、立ち上がってコート掛けから上着を取ると、まだ朝食を食べている息子と娘に、言った。 「パパは仕事に行ってきます。人士、学校から帰ったら、ちゃんと宿題しなさい」  上の息子の人士がケチャップだらけの口で「はーい」、と答える。 「杏奈、幼稚園の送り迎えは奥寺さんがしてくれるから、よく言うことを聞きなさい」 「…………」  下の娘の杏奈は、眉間にしわを寄せて目玉焼きと格闘している。  奥寺さんというのは家で雇っている家政婦さんで、杏奈の送り迎えや食事の支度など、ほとんどすべてを引き受けてくれている。奥寺さんがいなければ、わが家の生活は成り立たない。  玄関へ向かうと、二人の子供がいつものように「いってらっしゃーい」の声で送り出してくれる。  外へ出ると空はどんより曇っている。私はひとつちいさくふっと息をついて歩き出す。  大丈夫。何も問題はない。放っておけばいいだけだ。すべてはそれで片がつく。ジョーカーの位置がわかるババ抜きみたいなもんだ。  その男が冤罪であることを知っているのは私だけなのだから。
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