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診療台
言いたいことが言えないことほど歯がゆいものはない。
特にそれが叫びたいほどのものであれば、なおさらだ。
*
「痛かったら、手を挙げてください」
仰向けに倒された歯科の治療椅子の上にいるオレに年配の女医が声をかけた。その声は、いかにも事務的だが、それだけに彼女の自信をうかがわせる。
しかしだからといって迫りくる歯科用ドリルと、それが必ずもたらすであろう痛みを和らげてくれるものでは決してないのだ。
ボディーランゲージしか許されないこの閉鎖空間で、大きく口を開けさせられた無防備なオレは左右の肘掛けを両手で強く掴むと息を止めて身体を強ばらせた。
*
どうして、こうなった。
定期的な歯垢除去のために来院しなかったからか。
断じて否……とは言い難い。
歯間ブラシも使った方が良いという妻の言葉を無視し続けたためか。
そんなことは関係ない……はずだ。
甘い物を食べた後で、よくソファでうたた寝をしていたからか。
あり得ない……と心から信じたい。
だが理由はどうあれ、オレは今ここにいる。ここに居るのだ。望むと望まぬとに関わらず……などと生やさしいものではない。決して望まないのに居なければならないのだ。それは誰を責めるでもなくオレの……。
「かはっ……」
歯科用ドリルが虫歯が進行した右の奥歯を削った瞬間、右目の下から顎にかけて走った激痛にオレの思考は停止した。びくびくっと身体をのけ反らせ続けるオレを見た女医のドリルがようやく停まった。
「痛い? 我慢できませんか?」
「当たり前だ! いい加減にしろ!」右目に涙をためたオレは、心の中でそう叫びながらも力なく頷くしかなかった。
「そうですか。ちょっとレントゲンを撮りますね」女医はそう言うと、若い歯科助手に顔を向けた。「バキュームしてあげて」
「はい」と静かに応答した助手が口中に溜まった唾液を吸い出すためにノズルを右奥の歯茎に当てた途端、オレは再び激痛に襲われた。ゴムが先に付いたノズルとはいえ、そこは敏感な患部付近なのだ。そんなに、ぐりぐりとノズルを強く押し付け続けるものじゃない。痛みは数瞬で終わることなく延々と続いている。
くそ! こいつ歴戦のエースなんかじゃない! 素人だ! いや素人に近い、ど新人に違いない! 手ごわい虫歯に苦しむ患者には、歴戦のエースを充てるのが歯科医院の鉄則だろうが! それなのに延々と唾液を吸い出すことだけに神経を集中する素人同然の、ど新人を、このオレに……。
心の中の叫びは絶対に相手には届かない。
オレは虫歯に至った自身の過失を責めることも忘れ去り、バキュームに専念する無表情な助手の顔を怒りを込めて、ただただ睨み続けるしかなかった。
*
「うがい。どうぞ」
拷問を終えた助手はそう言うとオレの椅子を起こして席を立った。オレは置かれた紙コップの中身が、ぬるま湯であることに胸をなでおろした。
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