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注射針
「レントゲンを見ましたが、やっぱり腐った神経を取ってしまわないと駄目ですね。一つ奥の正常な歯の神経も微妙に繋がってますから麻酔しますね」
「ふぇ?」
言うが早いか、拷問の第2段階がはじまった。
女医はオレに心の準備ができる間もなく、全体が鈍く銀色に輝く注射器を口の中に差し入れた。上の奥歯に金属が当たるカチッという微かな音がして下の歯茎を刺される鋭い痛み。そして下顎の骨まで針が達する違和感が脳を駆け抜けた。やがて針が抜けたと思ったら、少し場所を変えてまた刺された。それが2度、3度と執拗に繰り返され、喉の奥に注射針から洩れた麻酔薬の苦味が徐々に広がってゆく。
以前に通っていた歯医者は必ず1、2拍おいてから麻酔をしてくれたものだが、目の前のマスクに隠れた顔にはそんな気遣いの欠片すらない。
突然打たれる注射が患者に与える精神的ダメージがどれほど大きなものか、少しは知ったらどうだサディストめ!
生物学的に男は女より痛みに弱いと言われているのは医者なら知ってるだろ!
それとも「これくらいなら我慢できるでしょ、男なんだから」と歪んだジェンダー感でも持っているのか? 弱い者いじめはやめてくれ、お願いだから!
心の中の叫びは相手に届くことなく、またも諦めの深淵へと次々と吸い込まれていく。
*
「では削りますね。そのあと腐った神経を取ってしまいますから」
再び身構えたオレは、右の下顎にドリルの鈍い振動しか感じなくなっていることに気づいた。麻酔が効いたのだ。
凄いぞ、先生! これでオレは大丈夫。無敵状態になったゲームキャラと同じ。どんな攻撃でもへっちゃらだ。
さぁ、どこからでも来るがいい!
*
「いひゃ……」
ドリルを終え、細い針金状の器具で右の下顎から神経をゴリゴリ削り出される途中のことだった。
オレはまたも激痛に襲われ、身体を強ばらせた。さすがに異変を感じたのか、女医も作業の手を止めてオレの顔を覗き込んだ。
「まだ痛いですか?」
頷くオレに「おかしいですねぇ」と呟いた女医は、またもあの言葉を口にした。
「麻酔しますね」
「ふぇ?」
今度は右の頬の内側に2度の刺す痛み、そして歯茎にも再び同じことがされているのだろうか。だが、オレはもうそれを感じない。
それから再開された口中の大工事は、まさに他人事だった。
女医と助手に全てを委ねたオレは自分の身体が2人の女にほしいままに“侵され”てゆく感覚だけを味わっていたからだ。だが、これは諦めという負の感情ではなく、強いて言えばどこか空虚な安心感とでもいうべき不思議なものだった。だから顔の上の治療用ライトの眩い光を見つめ続けるしかなかったオレは、今日の治療の仕上げとして奥歯に空いた大穴に抗菌剤を充填され、新しい義歯ができる頃に来院してほしいと伝えられても心穏やかに頷くことができた。
*
外の夜気が驚くほど冷たかったためだろうか。歩きながら、オレは本来の自分を取り戻しはじめた。もしかしたら、治療台で感じた空虚な安心感は、たっぷりと射ち込まれた麻酔の為せる業だったのではないかと思えるほどに。
「まぁ、いいか」
心の中で呟いたオレは交差点を渡りながら、右頬を指で押してみた。まったく何の感覚もない。自分の肉体ではないみたいだ。しかしそれも麻酔が切れたら、虫歯とは違った痛みに苛まれることになるだろう。残業の妻は今夜は遅く、オレは幸いにも明日は休みだ。こんな日は鎮痛剤を飲んで早く寝てしまうに限る。そのためには何か食べなくては。
そう。しっかり咀嚼しなくても食べれる何かを……。
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