スタートライン

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スタートライン

 今の優希の気分を一言で表せば、「最悪」だった。  思えば朝から今日はついてないことばかりだった。目覚ましは電池切れで鳴らない。慌てて着替えるとストッキングは伝線する。駅までのバスは目の前で発車する。電車は人身事故の直後で満員電車もいいところ。やっと会社に着いたら着いたで、コピー機が壊れるところから始まって、あらゆるトラブルが優希を襲った。  その一日の集大成といわんばかりに、システム部から突然の会議開催が申し渡された。その連絡がきたのが、定時の十分前。  勘弁してよ、という文句を飲み込み、優希は会議用の資料を慌ててかき集め、作成した。  会議開催時刻は六時ちょうど。会議の内容からしても、一時間はかからない、という触れ込みだった。 今夜は恋人との二週間ぶりのデートの約束があった。八時に銀座で待ち合わせだ。銀座まではどんなに急いでも三十分はかかる。会議を終えてからでも十分間に合う、と優希はふんで、会議に臨んだ。 そして今はちょうど八時。クライアントに提出するプレゼンの修正のための会議は、一向に終わる気配をみせない。最初は、プレゼン内容の確認だったはずなのに、いつの間にか大幅修正になっていた。優希が営業のメイン担当のため、席を外すこともままならない。遅れますのメール一本、送ることができなかった。 遅れますじゃなくて、今日は無理です、が正しいかもと優希が心の中でぼやいた時、システム部の部長が腕時計を見て手を上げた。 「ちょっと休憩にしよう。家に連絡も入れたいし」  彼の申し出に全員がほっとした顔をした。 「では、十五分休憩を入れて、八時十五分から再開で」  進行役の優希がそう言うと、メンバーはぞろぞろと会議室を出て行った。優希も列の最後について自席へ戻った。携帯は自席のバッグの中に入れっぱなしだった。早く連絡をいれなければ、とそればかり考えていた。 「ごめんなさい、信彦さん。突然会議が入っちゃって。寒いのに、本当にごめんなさい」  休憩用のスペースで、優希は見えもしないのに頭を下げて、携帯の向こうの恋人に謝罪した。 『そんなところだと思ってたよ』 「本当にごめんなさい。あの、会議、まだ終わりそうにないの。今日の埋め合わせは必ずするから」 『そう? じゃあ何をしてもらおうかな』  ハハ、と信彦は朗らかな笑い声をあげた。  よかった、怒ってない。優希が胸をなでおろした時、信彦がねえ、と優希に呼びかけた。 『僕は今、銀座にいる。待ち合わせのスポットだから、みんな誰かを待ってる。でも、このままひとりで帰らなきゃならないのは、僕だけみたいだよ』 「えっ?」 『やりたい仕事して、楽しそうにしてる優希を見るのは嫌いじゃない。輝いてて、素敵だといつも誇りにすら思ってるよ』  淡々とした口調で語る信彦の声が、どこか遠くから聞こえる気がした。 『僕はしがない区役所の事務員だから、一流企業の営業でバリバリやってる優希が、眩しいし羨ましいのかもね。僕の家は親父が仕事人間でね、母がいつも泣いて苦労してた。それを見ていたから、僕は仕事一辺倒にはならないようにって頑張ってきたつもりだ。僕は今まで、何度君に約束を反故にされても、仕事がだからしょうがないって、何にも言ってこなかったよね。だけど、ごめん。もう限界だ』  いつになく雄弁な信彦の声をぼんやりと聞いていた優希は、ごめん、という言葉で我に返った。 「ま、待って。このプロジェクトが受注できて、うまく軌道に乗れば――」 『それはいつ? 何日、何週間、何ヵ月後? そして次のプロジェクトが始まったら、また同じことの繰り返しだろ? ねえ優希。僕はもう、待つのは疲れたんだ。君の部屋に置いてある僕のものは、処分してくれていいから――ごめんよ、優希』  ぷつりと切れた携帯を耳に当てたまま、優希はしばらく立ち尽くしていた。不思議と涙は出てこなかった。  フラれたっていうのに泣けないなんて。そう思うと逆に笑いがこみ上げてきて、優希は肩を震わせて笑った。ひとしきり笑うと、今度こそ目頭にじんわりとしたものが溢れそうになったが、それをぐっと堪えた。 「――さ、仕事しよ」  腕時計の針は、会議再開の時間を指していた。そういえばこの腕時計は、昨年のクリスマスに信彦からもらったものだった。新規プロジェクトに参加することになったお祝いも兼ねて、と贈られたのだ。まさかその新規プロジェクトが原因で、フラれることになるとは思わなかった。 「三枝さーん、会議再開ですよ」  優希の後輩男性社員が声をかけてきた。彼は入社二年目で、プロジェクトに参加するのはこれが初めてのはずだった。キックオフミーティング後の飲み会で、このプロジェクトにかける意気込みを熱く語っていたのを、優希は覚えている。 「今いきまーす」  アイメイクが落ちない程度にハンカチで目を押さえ、ついでに紙カップのコーヒーを買って、優希は会議室に向かった。  最悪な気分の原因――待ち合わせに間に合わないという焦り――がなくなり、すがすがしい気分で会議室のドアを開ける。先ほど、休憩しようと提案した部長が、では始めようと優希に微笑んだ。こくりと頷いて、優希はホワイトボードの前に立った。 そのふたりは、十二時を過ぎた頃にやってきた。週末の夜中に男女で連れ立ってきたのでカップルかと思ったが、ふたりはカウンターに並んで座るとやおら仕事の話を始めた。 何にするかと私が声をかけなければ、いつまでもふたりは仕事の話で盛り上がって、注文を忘れていそうだった。 「とりあえずビールですか、三枝さん」 「ビールはもういいや。ジントニックを」  それぞれの前に注文の飲み物を差し出すと、男性のほうがタンブラーを捧げ持った。 「乾杯しましょう、受注のお祝いと、プロジェクトの成功を祈って」 「何度目よ」  三枝という女性は笑いながらもグラスを持ち上げ、乾杯とグラスを合わせた。証明が暗くて気づかなかったが、ふたりはどこかで飲んでから来ているようだった。あっという間にふたりとも一杯目を飲み干して、空のグラスをカウンターに置いた。 「お仕事でいいことでもあったんですか?」  私が水を向けると、男性はパッと目を輝かせて話し始めた。 二ヶ月以上かけて社内でチームを組んであたっていたプロジェクトが、数社コンペの末に受注できた。受注の決め手は、隣に座る女性の熱意と誠意のこもったプレゼンで――。 「恥ずかしいからやめてよ」  褒められた当の女性は、もう相当酔っ払っている様子の男性を止めた。 「オレ、嬉しいんです。初めての参加プロジェクトがこんな大きなヤツで、しかも受注できて。なんだか、社会人二年目にしてやっと、仕事人になれたみたいな。スタートラインに立てた感じなんです」  すると女性が急にしんみりとしてしまった。 「スタートラインか。あたしもそんなとこだな。このプロジェクトのおかげで、独り立ちしたって感じ。仕事も、女としても」 「女としても?」 「三月の中頃の会議の日にさ、彼氏にフラれたんだ」  男性の表情が強張った。それはそうだ。今まで陽気に飲んでいたのに、突然恋人との別れの話になったのだ。私も、どうフォローを入れるか一瞬考えた。 「でもね。それで吹っ切れたんだ。それまであたし、中途半端だったから。彼のことは好きで、仕事も好き。彼は仕事をしているあたしが好きって言ってくれてたからそれに甘えてた。だけど心のどこかで、そんな自分が悪者だと思ってたんだよね。やっぱり女は家で男の帰りを待ってるべきで、仕事に命かけるなんておかしいんだって、思ってた」  彼女は溶けた氷しか入っていないグラスを覗いて、照れたように笑った。 「だけど、今回のクライアントのあの事業部長さんがあたしを評価してくれた時、仕事やってきてよかったって思ったんだよね。だから、あたしにとっても、これがスタートラインなんだ」  男性に向かい微笑んだ彼女の顔は実に晴れやかで、すがすがしかった。 「何かお作りしましょうか?」  気持ちのいい彼女の笑顔に、私もつられて微笑みながらふたりに訊いた。 「何か、スタートとか出発とか、そんな感じのカクテル、ないですか?」  男性が私に訊いてきた。ありますよ、と私は答えた。 「どちらかといえば女性向けな味ですが、ちょうどそんな名前のカクテルがあります」 「じゃあそれを。三枝さんもそれでいいですか?」 「……ううん、わたしは、ジントニック」  どうしてですか、と男性が彼女を問い詰めたが、彼女は曖昧に笑っただけだった。私はそれぞれのカクテルを作り、ふたりの前に出した。 男性に、カクテルの名前を説明しようとした時、新しいお客が入ってきた。こちらも男女のふたり連れ。新規のお客は、彼女の隣の空いた席に座り、彼女の隣に座った男性が、彼女をふと見てぎょっとした。彼女の顔からも、笑みが消えていた。 「いらっしゃいませ」 「マスターさん、あのね」  少し年が若い女性が、カウンターから身を乗り出すようにして私に話しかけてきた。 「あたしね、新社会人なんです。こっちの、あたしの兄は今年から課長さん。兄弟で新しい船出を祝ってたんですよ」 「それは、おふたりともおめでとうございます」  隣の彼女の暗い顔が気になりつつも、私は女性に微笑んだ。酔いの勢いか、元来人懐こい性格なのか、女性はにこにこ笑いながら言った。 「だからね、あたしたちにふさわしい、旅立ちのカクテル、作ってください!」 「おいマミ」 「そうそう、ついでにお兄ちゃんったら、未だに自分からふった彼女に未練たらたらなんで、それも吹っ切れるような、強いヤツを」 「マミ!」  彼女が話していた三月で別れた彼氏というのが、この男性なのだと気づき、私はどうしようかと考えた。恐らく、どうしていいのかわからないのは、彼女の連れだった後輩男性も同じなのだろう、緊張した顔で自分の横をそっと覗き見ている。 「ねえ、信彦さん」  彼女が突然言った。 「プロジェクト、無事受注できたの。そうしたらあたなに言おうと思ってたことがあるんだけど、聞いてくれる?」 「僕でよければ」  信彦と呼ばれた彼は、彼女のほうを見ることもなく、俯いてそう答えた。 「あなたじゃなきゃ意味がないのよ」 「何かな、優希」 「あたし、あなたが好きなの。でも、同じくらい仕事も好きなの。どっちも同じだけ、命かけて愛してるの。どっちが欠けても、あたしじゃなくなるのよ。だから……」 「――僕はきっと、マゾなんだ。そうに違いない」  信彦はぽつりとそう言った。突然のそんな言葉に、誰もが驚いた。妹のマミなどは、慌てて兄の袖を引っ張ったくらいだった。 「仕事でどれだけ待たされても、すっぽかされても、一緒にいるのに上の空でも、それでも君が好きで、忘れられないんだから。きっとこれからもそれは変わらないだろうって分かってるのに、君と一緒にいたいと思ってるんだから。どう考えても、マゾだとしか思えない。こんな男、きっと他にいないよ、優希。だから、一緒にいよう、これからずっと」  優希は大きく頷いた。 ふと見れば、ジントニックは既に氷が溶けて水のようになっていた。隣の後輩男性のカクテルも、口をつけないまま、氷が溶けてしまっていた。 私は四人分のカクテルを作り始めた。シェイカーに氷と材料をいれ、シェイクする。カクテルグラスにクラッシュドアイスを詰め、シェイカーの中身を注ぐ。トロピカルレッドの鮮やかな液体がグラスを満たし、その上に花とストローを添える。 「どうぞ。みなさんに同じカクテルを、お店からのお祝いです」  後輩男性には、先ほどと同じものだと付け加え、元のグラスを下げた。 「わあ、可愛い――甘酸っぱくておいしい」  マミが真っ先にストローに吸い付き、感想を漏らした。 「このカクテルはバルーション。フランス語で旅立ち、という意味のカクテルです。ウォッカの味が少し前に出ていて強く感じるのですが、甘酸っぱくて飲みやすいカクテルです。新しい道は厳しいかもしれないけれど、気持ちが前向きなら、前に進むのはたやすいんではないでしょうか。三枝さん、先ほどはお気持ち察せずに申し訳ありませんでした」 「ううん、いいんです。そんなの、あたしの勝手だもの」  優希の後輩男性が、彼女が先ほどはこのカクテルを頼まなかった、ということを説明してくれた。 「どうして?」  信彦が優希に訪ねた。 「旅立ちなら、あなたと一緒がいいと思って」  グラスを合わせたふたりの頬は、カクテルと同じ、赤い色に染まっていた。 ――了
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