ラストオーダー

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ラストオーダー

 撃たれたことに気づいたのは、衝撃から一瞬遅れてからだった。ドンという鈍い衝撃とともに俺は地面にうつ伏せに倒れた。撤退中の仲間たちが俺の横を通り過ぎ、その中のひとりが俺を担ぎ上げて近くの岩陰へ身を横たえてくれたが、彼は俺に憐憫のまなざしをたっぷり注いで、そのままその場を立ち去った。  撃たれた痛みはだんだん俺の体から体力だけでなく、正常な思考を奪っていく。俺はごろりと横になり、空を見上げた。青い空と白く燃える太陽と、ぽかりと浮かぶ雲が見えた。風に任せてゆっくりと動く白い雲を目で追って、あの雲に乗ったらどこへ行けるだろうか、と思った。 「どこへ行けるか、じゃない、俺はどこにいきたいんだ」  呟いた声の大きさに我ながら驚いてあたりを見回す。見回しても、相変わらず味方も敵も人っ子ひとりいなかった。この世にたったひとりだけになった気がして、俺は絶望に囚われる。これが俺の人生の最後か、と笑いもこみあげてきた。そっと目を閉じて白い雲に乗った自分を思い浮かべてみる。雲に乗った俺に見えてきたのは、まっすぐに立って大きな花を咲かせていた白い立葵だった。五月の終わり、ちょうど今頃から徐々に咲き始め、梅雨が終わる頃には澄み切った青空と張り合うように、その花を誇らしげに咲かせる。故郷の母が好んで育てていた花だ。そういえば、この空の色は故郷の空によく似ている。青く、どこまでも青く冴え渡る空。そこに浮かぶ白い雲。まぶたに浮かんでいる立葵の白い花弁がひらひらと揺れて、やがてそれはたっぷりとギャザーをよせた白いドレスをまとう、ある女の姿に変わっていった。  彼女に出会ったのはまだ俺が十五かそこらのガキの頃だった。母親に連れられて食事をしにいっていた、ダイナーに彼女はいた。店員でもないのにメニューを俺たち親子に差し出し、 「ボウヤ、今日は何を頼むの?」  といつも訊いてくれた。  彼女にボウヤとではなく、名前を呼んでもらいたくて、俺は必死で背伸びをした。その結果、彼女とベッドを共にする権利を俺は手に入れた。明け方目を覚ますと、俺はダイナーへ朝食をとりにいく。彼女は座ってコーヒーを飲んでいて、今朝は何を頼むの? と自分の隣のスツールを叩いて訊く。食べたいものを答えると、彼女は店員にそれを伝え、会計は一緒にするように言う。  気だるい雰囲気を漂わせている彼女は、褐色の肌に黒い瞳、黒い髪、すらりと伸びた肢体の、この辺りでは売れっ子の娼婦だった。仕事の時は体のラインを強調するスリムなドレスを着ているが、俺と会う時はその正反対の格好をしていることが多かった。けれど、服の中にある彼女の豊満で淫乱な体まではギャザースカートは隠してくれない。服から零れそうなたわわな胸や、歩くたびにゆれる大きな尻、俺の頬を触る指、真っ赤な唇、濡れたように光る黒い瞳、それら全てが俺の男としての欲望を刺激した。  朝食を食べ終わると、彼女は俺を連れて自分のアパートへ戻る。彼女の部屋へ入ると、彼女はまずカーテンを開ける。空と太陽と雲が見下ろす部屋で、彼女の肌が日差しに輝く様子を美しいと思いながら、俺は彼女を抱き、彼女に抱かれた。  何度も彼女は達し、ふたりの肌に玉の汗が浮かび、俺も自分の精を吐き出すと、彼女は俺の頭を抱いて眠った。彼女の胸の突起に口づけながら俺も眠る。目が覚めるのは、たいてい昼過ぎだった。  目が覚めると彼女は昼食を作ってくれ、俺は世界で一番うまい食事だと思いながら食べた。それがこの日の彼女とのサヨナラの合図だと知ってからは、一番うまいが一番食べたくない食事だと、思いなおした。食べ終わってからも俺は彼女を組み伏せようとするのだが、彼女は断固として受け付けない。スリットが入ったミニスカートのドレスを着る彼女を俺はぼんやりと眺めながら、彼女はこれから仕事をするのだ、と思っていた。彼女が他の男に抱かれて嬌声をあげるのが我慢ならなかった俺は、いつか彼女を娼婦という仕事から解放するために、働くことを決意した。  とはいえ、学校もまともに行っていないような俺ができる仕事などそうそうない。巡り巡って俺は軍隊に入ることになった。戦争もなく、のんきに訓練だけする毎日。上官の理不尽なシゴキ。全てが無意味に感じて、俺は軍隊を辞めた。結局彼女を救うだけの金もなく、無駄な時間を数年費やしただけだった。  除隊してからしばらくは、部隊があった街で酒と女に明け暮れて過ごした。それにも飽きた頃、母親の危篤を知る。故郷へ戻った俺を迎えたのは、母が育てていた大量の立葵だった。様々な色の花が俺の目をくらませた。母の死は静かに訪れ、穏やかな顔で母は天国へと召されていった。最後に残してくれたのは、立葵が咲き誇る庭のある小さな白い家だけだった。家を処分することに決め、家の中を片付けた。質素な暮らしを心がけた母らしく、何もない家だった。ガランとした家の中から、庭の花を眺めた。それから俺は昔通っていたダイナーへ向かった。そこは相変わらず商売をしており、店主も同じだった。 「ボウヤ、何を頼むの?」  彼女の声が聞こえたような気がして、俺は振り返る。けれどそこには彼女の姿はなく、俺は頭を振ってビールを飲み干した。  夜になって、俺は彼女が客をとっていた通りへ行ってみた。そこで知ったのは、彼女にはずっと待っていた恋人がいたことと、その恋人の後を追って、彼女も死を選んでいたことだった。彼女が可愛がっていた少年、と俺のことを覚えていた年かさの娼婦が教えてくれた。俺はその娼婦を抱き、彼女の墓前に供える花代にしてくれ、と娼婦が提示した金の倍額を渡した。その娼婦が彼女の墓に花を供えたのかどうか、そもそも彼女に墓があったのかどうかも、俺はわからない。ただ、少年の頃の幼い初恋が終わったという虚しさだけが、俺の胸に残っていた。  それから俺は、軍隊時代のつてを使っていわゆる傭兵稼業へと身を投じた。アフリカ、中東、中南米、中央アジア。俺たちの戦場はいつでもどこかにあった。戦場で怪我をしてしまった俺は、いつもならすぐに次の戦場へ旅立つのだが、久しぶりにフランスのとある大都会に出かけた。傭兵になる時に最初に頼った男が、既に引退して小さな店を出しているので、そこへ立ち寄ることにしたのだ。  店に入ると、久しぶりだな、と野太い声で俺に声をかけてきたのが、店主のフィリップだ。九十年代屈指の傭兵と言われ、当時の戦場には必ず彼の姿があったとまで言われている。首筋に大きくついた刃物でできた傷は、彼が本当の意味での死線をくぐりぬけてきたことを意味していた。 「いらっしゃいませ」  バーカウンターの中の細い男が俺に声をかけ、フィリップの隣の席に座った俺の前に立った。 「何をお飲みになりますか」 「ビールだ、ビール! なあ、ラウル?」  フィリップは俺の肩を力任せに叩き、自身のジョッキを掲げた。バーテンダーは俺にも同じジョッキを出し、どうぞ、と言った。見た限り、バーテンダーは東洋人に見えた。だが、彼の口から流れる英語はネイティブ同然だった。他の客と会話する時のフランス語も、実に流暢なものだったが、その無表情さや近寄りがたい空気はどこか日本のゼンだのサムライだのといった単語を彷彿させた。  だがそんなことも、フィリップとバカ話に花を咲かせているうちに忘れていた。フィリップのジョッキには常になみなみとビールが注がれており、それが空になって放置されていると、フィリップはバーテンダーを怒鳴りつけた。 「おい、小僧! 俺のビールがないぞ!」 「失礼いたしました、オーナー」  騒がしい店には似つかわしくない静かな声で、彼はフィリップに謝り、新しいビールを持ってくる。フィリップはジョッキを抱え、飲み、だらしなくカウンターで寝てしまった。 「いいのかい?」  俺はバーテンダーに訊いた。 「いつものことですから」  彼は平然として答え、俺に訊ねた。 「何をお飲みになりますか?」  気づけば、俺のビールのジョッキは空になっていた。俺はそれを断り、手洗いの場所を訊いた。用を足して戻ってくると、フィリップの姿はなく、代わりに彼女がいた。 「マルガリータ」  俺は思わず初恋の女の名前を呼んだ。それから、彼女はもう死んでいてこの世にはいないのだと思いだし、申し訳ない、とその女性に謝った。 「いいえ、いいのよ」  笑った彼女が飲んでいたカクテルが、ちょうどマルガリータだった。そこから俺たちは話をして、お定まりのように俺が泊まっているホテルで愛し合った。初恋のマルガリータと同じ褐色の肌の持ち主の彼女はリュリュと名乗った。朝になるまえにリュリュは帰っていき、俺はお互いの欲情の名残を残すホテルの部屋で、煙草を吸った。翌日、何故か俺は、故郷の村に向かう飛行機に乗っていた。  引き払った実家は他の人間が住んでいたが、庭の花はそのままになっていた。青い空に映える立葵が、おかえりと迎えてくれる母に見えて、俺は思わず涙をこぼしそうになった。凛々しく背筋を伸ばして立っている立葵は、誰に恥じることもなく、女手ひとつで俺を育てた母の背中のようだった。胸が苦しくなって、俺は実家を後にした。  次に向かったのは、あのダイナーだった。彼女――マルガリータと出会い、待ち合わせた店だ。薄汚れた白い壁の店があるはずのその場所には、洒落たレストランへ変貌しており、俺は故郷を後にした。もう戻ることはないだろう、と思った。  それから俺はフランスのフィリップの店へ行った。フィリップは変わらず野太い声で俺を迎えて入れてくれ、変わらずビールを浴びるように飲み、酔いつぶれた。俺はバーの上のフィリップの部屋までフィリップを運び、バーへ戻った。 「軽いな、随分」 「……もう、長くないそうです」  バーテンダー氏が、密かに眉をくもらせて囁いた。 「何故神様はいい人間から、自分の傍へ連れて行こうとするのでしょう」  ぽつん、と彼は言い、何を飲みますか、と俺に訊いた。 「マルガリータを」  かしこまりました、と頷いた彼は、シェイカーを振って俺にカクテルを差し出した。白い液体が注がれたカクテルグラスの縁の塩が、涙の味に思えた。マルガリータの死、母の死、やがてやってくるだろうフィリップの死、数え切れない仲間の死。彼ら全ての魂を悼むために、俺は塩を舐めた。  店を出る前に、俺は彼に訊いた。マルガリータはライムジュースでもレモンジュースでも作るって聞いたけど、これはどっち? と。レモンジュースです、と答えた彼に、何故と更に訊いた。 「先日、女性と会話をなさっているあなたは、女性の首の真珠を褒めていらっしゃいました。そんな真珠のような白いドレスを着ていた女性を知っている、と。それにマルガリータとは、ギリシア語の真珠からとられた名前です」  だから、真珠の色になるようにレモンジュースで作りました。彼はそう答えた。 「ありがとう。うまかったよ」  俺が言うと、彼はにこりと微笑んだ。 「またいらしてください」  バーテンダーの言葉を胸に、俺は新しい戦場を探すことにした。働き先を探しているうちにフィリップはこの世を去った。フィリップの葬式に参列し、俺は声を出さずに泣いた。一粒だけ落ちた涙の味は、マルガリータの塩の味だった。  そして俺は新しい戦場へと旅立った。それがここだった。  白い雲は、俺を天国へと連れて行くことに決めたらしい。それでいい、と俺は思い、目を開けた。青い空と白い雲は変わらずそこにあった。 あの時舐めた塩の味が、自分の舌にあって俺は驚いた。泣いていた。いつの間にか、俺は泣いていた。涙の筋を残して死ぬのは格好悪いと思ったが、涙は後から後から流れてきた。  ボウヤ、何を頼むの?  愛しい彼女の言葉が聞こえてきて、俺は叫んだ。 「マルガリータ!」  最後に聞こえてきたのは、かしこまりました、というバーテンダーの声だった。  赤く燃えていると思っていた太陽が、いつの間にか白く白く光り輝き、俺を包み込んでいた。あの夜飲んだマルガリータのように白く、俺の愛したマルガリータのように美しかった。  俺の人生のラストオーダーが、届くことはなかった。 ――了
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