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翌朝、目覚ましの音が鳴るなり、クミコは目を覚ました。
夜のうちにやけに冷え込んだのか、布団に入っていても顔が痛いくらいに冷たい。恐る恐る掛け布団を外す。
「ひゃあ、冷たい」
クミコは思わず声を上げた。まるで部屋の空気が凍っているようだった。
「なんだ、どうした」
いつもなら遅れて目を覚ます夫が、声をかける。
「あなた、今日は寒いわよ」
「なんだってそんな当たり前のこと、ひゃあ、冷たい」
クミコの言葉にあきれて、寝返りを打とうとした夫が叫ぶ。布団の隙間から冷気が侵入したらしい。ざまは見ろだ。
「それにしてもなんでこんなに寒いのかしら」
寒くて仕方がないので、布団をかぶりながらリビングまで這っていく。
「どこか、窓でも開けっぱなしなんじゃないのか」
後ろから同じ格好の夫がついてくる。芋虫の行列だ。
なんとかリビングまでたどり着いた。クミコは急いで、暖房のスイッチを入れる。ヨシオはというと、いつもの習慣が抜けていないのかテレビのリモコンに手を伸ばしていた。
「ひゃあ、冷たい」
「なんだこりゃ!」
クミコとヨシオが同時に叫んだ。
クミコはエアコンから出てくる冷気に、ヨシオはテレビの画面に。
「どうしたのよ、あなた。それより、このエアコン壊れてるみたいなんだけど」
「そんなこと言っている場合か、地球は今日から氷河期に突入したらしいぞ」
ヨシオの言うテレビを見てみると、たしかにニュース番組のアナウンサーが緊急ニュースを伝えていた。宇宙からの中継なのか、真っ白な地球がテレビに映る。
「まるで雪玉だな」
「これ、本当なのかしら」
ずっと床を這っていたクミコが、景色の確認のため立ち上がる。
「わお、真っ白だ。しかし寒い」
寒さに耐えきれず、すぐしゃがむ。窓から見える住宅地は、白いペンキで塗りつぶしたように純白に染まっていた。
「地球は白かったってことだな」
「なにそれ寒い」
夫のギャグは氷河期でもつまらない。
画面の向こうのスタジオも寒いのか、アナウンサーがダウンコートを三枚も着込んでいる。それでも震えが止まらないらしく、歯をガタガタさせながら必死に原稿を読もうとしていた。
「あっはっは、可哀想に。放送事故だ」
クミコが口をあけて笑う。笑うと冷たい空気が肺の中まで入り込んできて、胸に激痛が走る。クミコは、氷河期においては二度と人を馬鹿にしませんと誓った。
「しかし、まいったな。電車は動いているのだろうか」
毛布にくるまりながら夫が通勤の心配をする。クミコは笑いそうになるのをこらえて言った。
「都会は雪に弱いからね。動いてないんじゃない」
「困ったな。こんなとき車を持っていれば」
「車があってもチェーンがないと危なくて乗ってられないでしょ」
「そうかな? 運転には自信があるんだけど」
ふたりして布団をかぶっているあいだも、エアコンからはいっこうに暖気が出て来なかった。テレビではアナウンサーがガタガタ震えながら、真っ白い地球を映している。
「ねえ、やっぱりこのエアコン壊れてるわよ。買ってからそんなに経ってないのに、いやになっちゃうわ」
「そんなに言うんなら、電気屋に電話すればいいさ」
「そうね。……あら、やだ。今日は電気屋さん休みよ」
「だったら明日電話すればいいだろう。それよりも朝食はまだか。電車が動いていなくても駅までは行かないといけない。なにか食べていかないと持たないぞ」
「こんな寒いのに作れるわけないじゃない。あ、昨日のあなたの夕食が冷蔵庫にあるわ」
ナイスなひらめきだった。昨日予約して炊き上がっているであろうご飯と、夕食の残りを家族三人で仲良く食べればいい。
「めっちゃ寒い」
ちょうど二階から息子のダイキが下りてきた。遺伝なのかなんなのかわからないが、息子も布団にくるまり、這いつくばりながら階段を下りている。室内は朝と変わらぬ寒さ。南極に身ひとつで放り出されたような環境だ。
「うわっ」
ダイキが階段から転げ落ちた。手も足もかじかんでいるなか、布団を背負ったまま階段を下るのは難しい。
「寒い!」
痛いよりも先に寒いが出るのが異常なところだ。ただ、その寒さもやがて痛みに変わるのだから、手に負えない。
「とにかく、朝食を食べるぞ」
夫が気合を入れて冷蔵庫から昨日の夕食を取り出す。同じニュースを流しつづけるのも芸がないと思ったのか、テレビでは各地の被害状況を放送していた。白い地球は小さいワイプに追いやられている。車がスリップして三人が死んだだの、発電所の作業員が高所で足を滑らせて亡くなっただの、暗いニュースばかりだった。
「こういうときこそ、明るいニュースを届けてほしいものだわ」
「母さん、なにこれ。この白いのがいまの地球? 僕が見た地球とずいぶんちがうや」
「いまの地球は真っ白なのよ。窓の外を見てごらん。真っ白だから」
「どれどれ、うわ、寒い! 本当だ真っ白だ」
ダイキの顔にちょっとした喜びが浮かんだ。まだまだ子どもなのだろう、雪が降って嬉しいとみえる。大人になると雪は邪魔でしかないのだが、その分クミコの息子はまだ純粋さを保っているということだ。
「おい、みんな早く食べろ。もう時間がないぞ」
夫が怒鳴る。テレビに映る時刻が出勤間近であることを示していた。しかたないのでクミコもダイキも夫のもとに集まった。とてもテーブルでなんて食べられないので、床に置いた朝食を三人で囲む。今日の朝食はクミコが昨日作ったホワイトシチューだ。
「食べ物まで白い……」
「私だって今日から氷河期だって知ってたら、もっとマシなものを作ったわよ。カレーとか、あといろいろ」
「いろいろってなんなのさ」
布団の塊が三つ集合して、どこぞの儀式みたいだった。
「あれ、あなた。このシチュー温めた?」
目の前のシチューからは湯気の湯の字も出ていない。明らかにさむざむとしていた。
「電子レンジが壊れているんだ。何回やっても温まらない」
「なんですって。エアコンだけじゃなく電子レンジまで! 修理にいくらかかるのかしら! 十万くらいするかしら!」
「壊れたものは仕方ないだろう」
「まあ! まったく! 他のやつは大丈夫なんでしょうね。洗濯機とか掃除機とか。この家のローンだって残っているのよ」
「そんなことわからないさ」
夫はクミコの話に付き合うのをやめるため、スプーンでシチューをすくった。ダイキもシチューに手を伸ばす。どうやら男どもは出勤通学する決心をつけたようだ。会社や学校は暖かいかもしれない。そんな希望を持っているのだろう。
「失礼しちゃうわ」
主婦の日常をなんだと思っているのかしら。クミコはそう思ったものの、貴重な食糧を前にハンガーストライキなどやっている場合ではない。テレビによると、この寒さで何千人の死者がすでに出ているそうだ。画面に映る地球と、同じ色のシチューにスプーンを伸ばした。
スプーンがシャリシャリと音を立てる。シャーベットみたいな感触だ。なにより手にしたスプーンが冷たい。素手で氷を握っているようなものである。
「ねえ、これ食べて逆に体が冷えないかしら」
クミコがふたりに聞くと、スプーンを手に持ったままのふたりと目が合った。同じことを考えていたようだ。
「正直、わからないな」
「海の水を飲むと逆にのどが渇くとは聞いたことあるよ」
男たちが意見を述べる。クミコはテレビなら、こういうときのお役立ち情報をやっているかと期待した。だが、ニュースは死者の数が増えましたと言うだけで、とくに変わった内容は流していない。白い地球もそのままだ。
だれもなにも言わず、布団の集団は沈黙した。二分ほど固まったとき、
「もうそろそろ出ないといけない」
ヨシオが口を開いた。
「まあ、あなた。朝食はどうするんです?」
「そんなの保留だ。保留」
夫がサラリーマンの処世術を繰り出す。そのまま、夫は布団のなかで、もぞもぞとスーツに着替え始めた。
「ああ、カバン持ってくるんだった。失敗したなあ」
ダイキの通学カバンは二階に置きっぱなしだ。氷河期のわが家で、氷のように冷たい階段を登らなければいけない。致命的なミスである。
そのあいだにヨシオはスーツに着替え、さすがに布団を着て会社へ行くわけにはいかないので、コートの類をあさりだした。
「あ、親父。僕の分も残しといてくれよ」
「わかってるよ」
夫はテレビのアナウンサーと同じ三枚のコートを着て、立ち上がった。
「うう、ちょっと寒い」
服のなかに大量のカイロを仕込んでいるが、それでも寒いらしい。
「あなた、大丈夫なの?」
「とにかく行くしかないんだ。だいぶ、日が昇って来たし、日なたは暖かいだろう。そのはずだ」
夫は自分に言い聞かせた。この寒さで、まったくその存在を忘れていたが、太陽はたしかに存在していた。いつもは大きく思える太陽も、この部屋の寒さを考えると線香花火のように頼りない。空からポトッと落ちて、あの白い地面に吸収されてもおかしくないと思えた。
「いってらっしゃい」
「ああ、遅延証明くらいはもらってくるさ」
夫が玄関のドアを開ける。冷たい風が吹き込んでくると思って、ダイキとクミコは身構えた。しかし、存外風はない。外の世界も、ただ屋内と同じ寒くて痛い空気が漂っているらしい。ドアの外は憎らしいほどの晴天であった。
「じゃあ、僕も行ってこようかな」
ヨシオが外出したのを見て、息子が言った。父親が大丈夫なら、自分も大丈夫だと思ったのだろう。のそのそと二階に上がり、カバンを持って降りてくる。
「気を付けてね」
「うん」
息子は簡単に返事をすると、学校へ向かってしまった。いよいよ家のなかにはクミコひとりである。心なしか寒さが増したような気がして、布団を握る手に力をこめる。テレビでは今週の天気なるものが放送されていた。
これから先一週間は晴れるらしい。ただ、冷え込みがきついので体調には気を付けるようにテレビは言った。太陽が昇っても画面の白い地球は青くならない。
「どうやって気を付ければいいのよ」
クミコがひとり言を言う。
今日一日、布団にくるまって生活してもいい。しかし、せっかくの氷河期初日だから、外に出てみよう。そう決意すると、クミコは夫や息子がやっていたようにコートを何枚も引っ張り出してきた。それを着込んで立ち上がる。
「ちょっと寒い」
夫が言っていたことは本当だった。普段ならサウナみたいになって着ていられない厚着も、氷河期の前にはやや分が悪い。
その寒さにめげず、クミコは玄関へ足を進めた。途中でテレビがつけっぱなしだったことに気がついたが、面倒くさいのでそのまま外出する。テレビでは、ようやく学者先生と連絡がついたのか、今回の氷河期についてご高説を垂れていた。
「ひゃあ、冷たい」
クミコがドアノブにかけた手をいったん引っ込める。手袋を貫通して金属の冷たさが襲ってきた。指先がしびれる。
「なんのこれしき」
ひとり言で自分を励ます。もうクミコには話し相手がいないのだ。定期的にしゃべらないと、上唇と下唇が凍ってくっついてしまうんじゃないかと不安になる。クミコは体当たりするような格好で、勢いよくドアから飛び出した。
「うわあ、真っ白だ」
外に出た寒さよりも、目の前に広がる美しい景色に心を奪われた。何者にも邪魔されない白い世界にクミコはただただ感動した。朝からの氷河期生活で、はじめてよかったと思えた。宇宙から見た地球は白かったが、地球から見上げる空はちゃんと青い。
「あら、クミコさんじゃない」
「あら、こんにちは」
声をかけてきたのは近所に住むママ友達だった。話を聞いてみると、クミコのところと同じく夫が会社に行ってしまって、仕方なく外に出てきたらしい。
「今日は一段と寒いわね」
いつもはスリムなママ友達が、雪だるまみたいな恰好をしていた。もっともクミコも同じような様子だろう。クミコのほうが太っている分、より大きな雪だるまかもしれない。
「天気がいいのが不幸中の幸いね」
「そうよ。これで風なんか吹いてたら凍っちゃうわ、私たち」
ママ友達と一緒にゲラゲラ笑う。肺が痛くなるが、友達の手前我慢する。
「こんな天気になって、また野菜が高騰するんじゃないかって心配なのよ。ただでさえ最近高いでしょう」
「あー」
たしかにそうかもしれない。クミコは思った。エアコンや電子レンジの修理代に、食費まで上がるとなると、夫の給与では心もとない。さっきまで忘れていた寒さが、急に背中をなであげる。
「こういうときって農家は儲かるのかしらね。それとも損するのかしら」
「さあ、どっちもどっちなんじゃないかしら」
なにを言っているのか自分でもわからなかったが、相手も同じようなものだ。これからどうなるかなんて、この白い地球上でだれがわかっているというのか。
クミコとママ友達は他愛もない会話を延々とつづけた。いつものことである。しゃべっているあいだは、不思議と寒さを感じなかった。
「あら、もうそろそろお昼の時間じゃない」
「そういえば、そうね」
空を見上げると、太陽がだいぶ高くにある。氷河期にあっても人間は、影の具合からだいたいの時間がわかるようだ。冬にしては短くなったママ友達の影を見送って、クミコも家に帰った。
「ただいま」
冷え切った部屋に声をかけて活を入れる。だが、無情にも部屋は寒い。朝から幾分マシになったかと思えばマシになった気もするし、変わらない気もする。つけっぱなしだったテレビには、おなじみの白い地球がぷかぷかと宇宙空間に浮かんでいた。
珍しくメールがあったので確認すると、夫と息子からだった。夫は電車が動かないので帰るといい、息子は学校まで行ったが、休校になったという連絡だった。
「最初から行かなきゃいいのに」
クミコは雪だるまスタイルのまま、ごろんと床に寝ころんだ。朝からの緊張がすこし溶けたのか、猛烈な疲れが押し寄せてくる。まぶたが重い。部屋の寒さも感じないくらいに疲れ切っている。テレビの画面に映っている数字は、氷河期の犠牲者の数だろう。クミコが家を出るときよりも、うんと増えている気がした。朝見たときとアナウンサーがちがう。
「寝たら死ぬぞー」
こんな映画があったような気がする。死ぬかもしれないけど眠い。とても眠い。部屋の寒いが、すべて眠いに変わってしまったかのような、夢みたいな感覚だった。クミコはまぶたが落ちるのを黙って受け入れた。自分は悪くない、悪いのは氷河期なんだ。すべての責任を、突然やってきた氷河期に押し付けて寝た。
どれくらい眠ったのだろうか。
遠くのほうで目覚まし時計の音が聞こえる。クミコが目を覚ます。身体のあちこちが痛い。床で寝たかららしい。ちょっと昨日の記憶が飛んでいる。周りを見渡してぎょっとした。夫と息子がクミコに寄り添うように倒れている。恐る恐る息を確認すると、まだ生きていた。
「よかった」
胸をなでおろす。夜明けがまだなのか薄暗い部屋でテレビだけが明るい。テレビに白い地球が浮かんでいた。途端に昨日の記憶がはっきりとよみがえる。クミコは慌てて窓の外を確認しに行った。
「まあ! まあ! 真っ白! 困ったものね!」
氷河期二日目の朝だった。
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