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滝壺の様に外壁から水が流れ水路へと巡る水の街アクアヴイルには悪魔憑きが住む。
曰く、悪魔憑きは孤児院を経営する心優しく可憐な乙女を拐かし暮らしていると。
曰く、悪魔憑きは十五歳となり成人し働くのだと云う。無論街の職人は悪魔憑きの少年を雇う気は無く、むしろ街から出て行くか、蔓延るモンスターに喰い殺されてしまえと願う毎日。
~~~~~
夜明けの朝日が登り孤児院の寝室を照らす中、長身で痩躯の少年が一人。
ツンツン頭のアッシュブロンドに程良く鍛えられた体、右手から肘に掛けて巻かれた赤い布に黒のインナー姿の少年が、本から窓にレッドアイの瞳を移す。
「ん? 朝か」
少年から低い声でポツリと紡がれる。
当たり前の様に迎える朝日に少年は本を閉じては椅子から立ち上がり、手早くインナーの上に鎖帷子を着込み、蒼いフードコートに袖を通し黒の革グローブを両手に付ける。
『ツヴァイてばまた夜通し本を読んでよく飽きないわね』
ツヴァイの脳に呆れが含まれた美声が響き渡る。無論寝室には誰も居ない。
そもそも孤児院にはシスターでツヴァイにとって姉同然のセレンの二人暮らし。数年前には老婆パトラと元傭兵のハルドが暮らしていたものの天命を全うしこの世を旅立った。同年代の孤児は貴族、商人、子を為せなかった夫婦に引き取られ現在の二人暮らしに至る。
ツヴァイは右手を撫でながら精神に意識を向ける。
真っ白な空間、謂わばツヴァイの精神の中にスカーレットの髪に悪魔の特徴とも言うべき角と翼と尻尾に赤いキャットアイの瞳がツヴァイを捉える
胸元に露出の高い黒いインナーと赤いスカートを着こなした女性悪魔がツヴァイに漸く来たと言わんばかりに妖美に嗤う。
見た目だけは十代半ばに見える悪魔にツヴァイは、肩を竦めながら言葉を紡ぐ。
「退屈な夜を過ごすには読書しかないんだよ、イリス」
『不眠症も大変ねぇ、あたしだったら美容の大敵で耐えられないけど』
ツヴァイが不眠症を患ったのは最近の事では無く、赤子の頃からだった。というのもツヴァイは生まれて間もなくモンスター蔓延る森の中に捨てられ、通り掛かりの魔術士に悪魔イリスを封印され現在に至る。ことの経緯をセレンとイリスから聞かされているものの、当人からしてみれば勝手な話だ。
加えてツヴァイの不眠症はイリスを身体に封印した代償であり、本人の意思で眠る事の出来ない呪いでも有る。
しかし自身の意思で眠る事は不可能だがスリープの魔術を自身に施す事で数時間の睡眠を取る事が出来る。
敢えて魔術を施さなかったのは単にツヴァイが読書に夢中で忘れていただけで有り、
ーー自業自得も良いところだな。
自らの失敗を皮肉り精神から意識を逸らし寝室を後にした。
〜〜〜〜〜〜〜〜
ツヴァイは孤児院の隣に建てられた教会に足を運び礼拝堂に向かう。ステンドグラスから差す朝日に照らされた神を模した石像の前に、膝を折り神聖な空気に包まれながら祈りを捧げる女性が、
「神よどうかあの子に祝福と慈愛を……アーメン」
慈しむように聴き心地の良い声を発する。
腰まで届き一目を惹くブロンドの髪が礼拝堂の窓から入り込む風に揺れツヴァイの瞳を奪う。
--見慣れた背中、それでも唯一安心させる背中。
『あら、ツヴァイたら相変わらずセレンが大好きなのね』
面白く無さそうに拗ねるような言葉にツヴァイは肩をわざと落とし、
「唯一の理解者を嫌う道理が何処に有る?」
『あら、てっきり恐れ多くも街一番の美女であり聖女と謳われる彼女に恋愛感情を宿しているものだと思っていたわ』
ツヴァイがセレンに感じる感情は安心感と陽だまりのような暖かさであり、唯一の家族に向け親愛と言ったものだった。
背後から聴こえるツヴァイとイリスの声にセレンは静かに立ち上がり、振り返っては翡翠色の瞳で真っ直ぐにツヴァイを見据える。
曇りも悪意も無く、確かな愛情を向ける眼差しにツヴァイは漸く朝が訪れたのだと実感しては、微笑むセレンに言葉を投げる。
「おはよう姉さん」
セレンは頷き、ゆっくりと声を紡ぎ再び聴き心地の良い声が礼拝堂に響き渡る。
「ふふ、おはようツヴァイ。ついでにイリス」
『ついでって酷くない!?』
ツヴァイの身体からイリスが幽霊の様に体を透けさせ現れては、セレンに食って掛かる。
肉体を持たないイリスは精神体となりツヴァイの内と外を自由に行き来する事が可能なのだが、彼女は普段ツヴァイの中で自堕落に日々を無駄に過ごす。
それこそ悪魔と人間の契約を交わす事もなく一切力を貸す事も無い。
内心居候悪魔と評するツヴァイの目前で繰り広げられるいつもの朝、永い時を生きる悪魔と聖女の如く慈愛を宿すシスターと見慣れた光景。
しかしセレンは不安に表情を曇らせ叫ぶイリスを素通りし歩み出す。
「……ツヴァイ、本当に【退治屋連盟】に入るの? その、やっぱり辞めた方が良いんじゃないかしら」
「姉さんの心配事は重々理解してる。……でも、コレは姉さんと静かに暮らす為に必要な事なんだ」
セレンと何処か静かな土地で暮らすには資金がいる。その為にツヴァイは十五歳という成人を迎える日を耐えながら待った。
あとは職に就き稼ぐだけなのだが……悪魔憑きであるツヴァイが唯一職に就けるのはこの街では【退治屋連盟】しか残されていなかった。
最初から詰みの状態で有り、選択の自由など無い事に怒りを感じずには居られないが、怒りを露わにしたところで街の人々の思う壺になる。
危険な賭けでは有るが退治屋として功績を立てる事が出来るなら、もしかしたら悪魔憑きである自身も認められるのではないかと僅かな希望をツヴァイは抱く。
依頼に応じてモンスターを討伐するだけの仕事、セレンが心配するところは生命のやり取りと街の【退治屋連盟】の企みだった。
思考に没頭するツヴァイを他所にイリスは彼の精神に戻り、セレンが言葉を漏らす。
「人には選択の自由が有るのに如何してツヴァイには選ぶ権利すら与えられないのかしら」
「それは……俺が連中の言う通り悪魔憑きという名の化け物だから」
「そう、ね。悪魔憑きはいずれ身に潜む悪魔によって変異現象によってモンスターに成り果てちゃうものね。
でもツヴァイには直ぐに聖骸布で処置をしたのに……」
赤子のツヴァイを発見した時には既に右手から肘に掛けて黒く変色し瘴気を帯びていた。すぐさまセレンが聖骸布を処置したのが功をなしツヴァイの変異現象は進行せず停滞したままで有る。
それでもツヴァイが悪魔憑きという事実は変わらず、庇護すべきツヴァイに差別意識を向けたのがシスター・パトラをはじめとした大人達だった。
『あのババアがいずれ変異現象でモンスターに成り果てるって言いふらしたからね
あたしのツヴァイを陥れて良いのはあたしだけなのに』
イリスから発せられた言葉に神聖な礼拝堂の空気は凍り、セレンが笑顔を浮かべる。
「あたしのツヴァイ? いつツヴァイはイリスの所有物になったのかしら?」
--また始まった、毎朝飽きもせず良くやる。
ツヴァイは騒がしい喧嘩を止める為に懐から唐辛子を取り出し、口に放り込みゆっくりと噛み始める。すると口内と舌に辛味と刺激が伝わり、
『〜〜ッ!? か、からぁっ!!』
口元を抑え悶絶し哀れにも精神の中で愉快に転げ回るイリスの姿にツヴァイはほくそ笑む。
「いやはや、味覚が共有されているというのも実に厄介だなイリス?」
「ツヴァイ、次はタバスコも如何かしら?」
『お、お願い、やめてぇぇえ!!』
ツヴァイとセレンのみにしか聞こえないイリスの悲痛な叫びに2人は笑い、朝食を摂るため礼拝堂を立ち去るのだった。
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