ぼっちな俺と世話焼き美少女が五百年の恋を叶えるまで

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ぼっちな俺と世話焼き美少女が五百年の恋を叶えるまで

1.  都心と違って、ここは「聞こえる」。  こんなことなら、俺だけ東京に残ってもよかったかもしれない。  寒い季節が終わり、暖かではあるが強すぎる風が吹き抜け俺の髪を揺らす。  季節の変わり目ってやつは、あまり好きではない。なんだか、元あったものを失う気がして物悲しくなるからだ。  もう一つ、現実問題として、天気が荒れるのもいただけない。  なんて愚痴りながらも、車がなんとか二台通ることのできるくらいの幅がある舗装された道路を、てくてくと目的もなく歩いて行く。  古びた町工場、錆が浮いた鉄柱、電線にはハトが並び、静かな町並みが続いていた。  ところどころにビニールハウスや畑が顔を出すが、隣にある駐車場の方がスペースが広かったりしてくすりときたり。  引っ越ししてきたばかりだから、どんな街かと散歩してみたわけだが、同じ日本だしそう風景は変わらないな。  はああ。春休みもあと一週間かあ……引っ越しでバタバタしていたからあっという間だった。  歩きまわっているうちに夕焼け空になっていて、そろそろ家に帰るかと思った時――  ――ヒヒーン。  カラスの鳴き声に混じって馬の嘶きが聞こえる。  ――げろげろ。  今度は蛙だ。  思わず「はああ」と大きくため息をついてしまう。  左右を見渡すが、馬も蛙の姿は見えない。  蛙なら見逃している可能性もなくはないが、馬はいくら俺でもそこにいたら分かる。  ――ヒヒーン。  まただ。右手の細い路地の方か?  路地は石畳になっていて、合間から草が生え放題になっていた。石自体もところどころ欠けていて年季を感じさせる。  なんだか、俺だけの場所を見つけた気になって、くすりと微笑み路地に足を踏み入れた。  路地の先は、中央に石畳。左手にお清め所、奥に小屋と錆が浮いた鐘が見える。  どうやら、ここは忘れ去られた神社ってところかな?  一人になりたいときにここを利用できるかもしれない。  となれば、散策しないとな。  歩き始めてすぐに明日にしようかなと思いなおす。  古びた神社には電灯さえ備え付けられていなかったから、暗いのなんの。  夕焼け空だった空は太陽がほぼ地平線の下に落ちつつあるしなあ。  明日また来るとしようか。  ――ヒヒーン。  またか。  嘶きは小屋もといお堂の裏手からか。  ひょっとしたら、本当に馬がそこにいるのかもしれない。  誰かがコッソリとここで馬を飼育していたり……いや、ないない。  なんて一人心の中で突っ込みながら、お堂の裏手に。 「うーん。やっぱり馬はいなかったか」  嘶きは未だに聞こえるが、杉の木があるだけで馬の姿は見えなかった。  俺は「聞こえる」んだ。  霊なのか、雑音なのか分からないけど、姿が見えない動物の鳴き声が聞こえる。  幼い頃は見えている動物と見えない動物の音の区別がついてなくて、随分両親を心配させたものだ。 「もし」 「ん?」  若い男の声。 「もしや少年。(それがし)の声が聞こえるのか?」 「うわあああ!」  人の声!  人の声だけが聞こえる!  ま、まさか人の声まで聞こえるなんて……。    狼狽し、後ずさる。  ドン。  そこへ誰かがぶつかってきた。   「っつ」 「きゃ」  尻餅をつき、ぶつかってきた人が俺に覆いかぶさってしまう。  こんな漫画みたいな展開で人とぶつかるなんてって。  うわあ……。  ふんわりとしたいい香りが俺の鼻孔をくすぐり、頬が熱くなってきた。  だって、俺に覆いかぶさっているのは女の子だったんだもの。  仕方ないだろう。  俺、今まで女子とこんなに密着したことなんてないんだから。   「ご、ごめん」 「こっちこそごめん」  お互いに謝罪し、女の子が立ち上がろうとした時、後ろから心配気な声が聞こえる。 「そなたら、大事ないか?」    再び若い男の声。  だけど……あれ、女の子が反応した?  彼女も「聞こえる」のか。   「あなたとは違うわよね」 「うん。俺は喋っていないよ。後ろだ」  確認するような彼女に対し、口を結び軽く頭を左右に振る。 「ま、まさか。お侍さんなの!?」 「お侍さん?」  彼女が驚きから立ち上がるのと止めてしまっていたから、頭だけ起こし……え。   「さ、侍と馬が!」    視界に映ったのは杉の木だけじゃあなく、栗毛の馬と馬の手綱を握る袴姿の若い男だった。  男は長い黒髪を後ろで縛り、腰には刀らしきものを携えている。  涼やかな顔をした端正な男だが、どこか儚さや物悲しさを感じるな。   「あ、ごめんごめん。すぐにどくから」 「あ、うん」  ちょっとだけ残念だなあと思っている間にも女の子はさっさと立ち上がってしまった。  それとともに、視界から侍と馬の姿が消える。 「消えた……」 「消えたわね……」  同じ感想を漏らし、顔を見合わせた。  うわあ。彼女、思った以上に俺好みでドキドキする。  ふわりとしたウェーブで茶色がかった黒髪に、猫のように大きくて少しつり上がった目。  右耳だけに星型のピアスをつけていて、ピンク色のルージュとチークが彼女の真っ白な肌に映えている……と思う。  つい彼女に見とれていたら、ははーんっと言った風に彼女は両手を腰に当て少しだけ前かがみになる。 「な、何だよ」 「分かったかもしれないわ」 「み、みつめてなん……う」  不意に手を掴まれ、思わず彼女を見やる。  対する彼女はしてやったりと得意気に口角をあげた。   「ん、お、おおお」 「見えたのね? さすが、私! 機転が利くじゃない」 「ど、どういうこと?」  ――ヒヒーン。  俺の質問を遮るように馬の嘶きが。   「よっし! 聞こえる! バッチリ」 「ん、んっと」 「まだ分からない? あなた『聞こえる』んでしょ?」 「あ、そういうことか! あるんだな、そういうことって……」 「そう。私は『見える』の。あなたは『聞こえる』」 「手を繋いだら、『見えて聞こえる』ようになるのか」  彼女は目を輝かせ、コクリと頷きを返す。  彼女のヘーゼルがかった瞳は俺にとって非常に眩しく映る。  自信に満ちた、真っ直ぐな、その瞳は。   「私、陽毬(ひまり)向井陽毬(むかい ひまり)よ」    唐突に自己紹介を始める彼女――陽毬に苦笑しつつもドキリとしてしまう。  だって、俺の右手から伝わる彼女の体温が、ほら、こう、ね。   「俺は日向(ひなた)日向陽翔(ひなたはると)だ」 「ふうん。よろしくね。陽翔」  いきなり呼び捨てかよ。  ま、まあいい。悪い気はしないけど、頬が少し赤くなる。   「よろしく。向井さん」  陽毬は握ったままの手を上下に振るった。つられて俺の腕も動く。  と、そこへ――。   「(それがし)は、浅井長十郎(あさい ちょうじゅうろう)と申す。愛馬(こっち)隼丸(はやぶさまる)でござる」 「ご丁寧にありがとうございます。陽毬です。長十郎さん」 「日向です」  涼やかなイケメン侍こと長十郎も自己紹介を行うのだった。  お互いに名前を名乗ったが、全員初対面同士……いきなり親しげに語ることなんてできるわけがない。  当然ながら、微妙な沈黙が。   「長十郎さん、お侍さんなんですか?」  無かった。  陽毬はすぐさま興味深げに長十郎に問いかけたのだ。  何というか、尻尾があれば思いっきり振ってそうな感じで。   「武士と名乗るのもおこがましいが……嘆かわしいことにこの身は一応士分にある」 「へええ。お城とかに住んでいたんですか?」 「いや、殿の住む城へ参じていたのだよ」 「あ、あのお……」  遠慮がちに二人の会話へ割り込んだら、二人の目線が一斉に俺に集まりドギマギしてしまう。  俺は社交的な方ではない。  いや、正直に言おう。学校で友達同士で楽しく会話をするような生活なんて送ったことがないんだ。  休憩時間? そいつは睡眠時間だぜ。  というのが俺だ。  それが、初めて見る侍装束の年上男子と同じ歳くらいの可愛らしい女の子に注目されたとあっちゃあ……分かるだろ? 2.  「どうしたの?」  そんな俺にグイグイと質問を投げかけて来る陽毬。 「あ、いや、えっと。このまま立ち話もなんだなあと思ってさ」 「そうね! 浮かれて気が付かなかったわ。やるわね。陽翔」  陽毬は、俺の手を握っていない方の手の親指をグッと突き出す。  細く小さな指だなあ。 「すまぬ。(それがし)。この杉の木から離れることは叶わぬ」  眉間に皺をよせた長十郎が、かぶりを振る。彼の動きに合わせるかのように隼丸もひひんと小さく鳴いた。 「それって……」  理由を確かめようと口を開いたものの、さすがにこの先をはっきり告げるのは憚られ口をつぐんでしまう。  これには陽毬も同じようで、快活に長十郎へ話かけていた彼女もじっと押し黙ったままだ。   「なあに。簡単なことでござる。この下に某が埋まっているからでござるよ」 「長十郎さんは遥か昔にここで亡くなったお侍さん、なんですね?」  「やっぱりなあ……」と心の中で呟き、絶句する俺とは対照的に陽毬は遠慮がちにではあるが長十郎へ問いかけた。 「いかにも。それ故、杉の木から一歩までしか動くことができぬのだ」    カラカラと笑う長十郎。  長い時の果てに達観したのか、彼から悲壮さは見て取れない。   「なあに。死者が迷うておるだけだ。心配めさるな。呪うたりはせぬ。(それがし)、亡霊となりても生前の正気を保っておる」 「は、初めてお会いしたところで、信じてもらえるか分かりませんが、浅井さんからは邪気を感じません」  長十郎にとって何気ない一言であったが、俺はつい彼へ縋るように言ってしまった。  生まれてこの方ずっと、「声」を聴いているんだ。動物のものばかりだったけど……。  だから、俺は彼に悪意があるかどうか何となく分かる。  何故かは分からないけど、俺が聞こえる「声」に怖気を感じるようなものは殆どなかった。  もし、怖気を感じれば、俺の肌に――。   「言うじゃない。私も陽翔と同じ意見です。私はずっと『見て』来たんですよ。だから」 「カカカカ。愉快なお人らだ。いつ(それがし)が牙を向くか分からんというのに」  長十郎は腰の脇差へ手をかける。  一方でちょいちょいと陽毬に握った手を引かれた俺は、彼女と顔を見合わす。  うん。そうだよな。  お互いににやっと微笑み合い、長十郎へ目を向ける。   「こいつは一本取られた」  長十郎は脇差に当てた手を額へ持っていき、楽し気に笑う。  だって、声色から俺たちを斬ろうなんてことを全く感じ取れなかったんだもの。それどころか、愉快そうに嬉しそうな声色が伝わってきた。 「だって、ねー」 「うん」 「霊は私達の体を素通りするんだもの。脇差を抜いても何も変わらないわ」 「そうなのか?」 「え? 分かってたんじゃないの?」 「いや、俺は今初めて『見た』んだぞ」 「そ、そっか。そうよね。じゃあ、どうして?」 「声だよ。俺はずっと『聞こえて』いるんだからさ」 「確かに!」  分かったから、握った手をブンブンと振るんじゃあない。  これ、きっと手を握っていなかったら背中をバシバシ叩かれているような気がする。  陽毬とはさっき会ったばかりだけど、この子は俺と正反対なのかなあと何となく思った。  物おじせず言いたいことをハッキリ言う。だけど、人への気遣いも忘れない。こう、クラスの中心的な存在のような?  何だか、少し陽毬が遠くなったような気がした。しっかりと手を繋いでいるんだけどさ。   「どうしたの? あ、ラインの登録は後でね! 先に長十郎さんのことを聞きたいから」 「お、おう」  ちょっと違うかも。彼女はクラスメイトの顔と名前を全て覚える感じの人なのかもしれない。  俺みたいな「居眠り組」まで巻き込んで、クラスみんなで笑って……。  何だかいいな。そういうの。   「あ、ひょっとして。スマートフォンを持ってなかったりする?」 「いや、そんなことないさ」  戸惑っていることをスマートフォンを持っていないからだと勘違いされたらしい。 「はっはーん。分かった」 「な、なんだよ」  陽毬はにまあっと口元に手を当てる。  とっても邪悪な笑みなんだけど。   「下心からID交換をするって思われたくないんでしょ。全く、男の子ってこういうところあるからなあ」 「違うわい!」 「冗談、冗談。そんなムキにならなくても。面白いわね。あなた」 「ほっとけ」    憮然とする俺に彼女は不意打ちを食らわしてきた。   「陽翔が『聞こえる』からID登録しようと思ったのは否定しないわ。だけど、それだけじゃあ、登録しないわよ。あなたも同じことを考えているのかなと思ったんだけど」 「それって」 「ずっと『見てきた』のよ。あなたに悪意が無いってのも何となくだけど分かるわ。ちょっとぼんやりし過ぎで事故に遭わないか心配だけど」 「俺は、動物の声しかこれまで聞いてこなかった。だけど……」  そこで一旦言葉を切り、すーはーと深呼吸を行う。  落ち着けえ。俺。 「向井さんが俺とID登録をしていいって思うのなら、俺はずっと『見てきた』君が悪い人じゃないって思ったんだ」 「な……」  かああっと頬を赤らめる陽毬。 「不意打ちのお返しだ」 「全くもう。人をそんなにすぐに信用したら、いつか大怪我するわよ」 「なんて忠告をしてくるんだから、向井さんは大丈夫だ」 「……っつ。本当にもう!」    握った手を離したかと思うと、彼女はくるりと手首を返しちょいちょいと手招きする。  もう既に近いんだが、これ以上どうしろと? 「スマホよ。スマホ。さっさと出しなさい」 「あ、そういうことね」 「先にちゃっちゃとやっちゃいましょ。こうして話をしている間に登録できちゃうし」 「そうだな。もっともだ」  ポンと手を叩き、ズボンのポケットに手を伸ばす。 「不可思議な絡繰りよの。提灯のように光っておる」  なんて長十郎が呟いているうちに、陽毬とのラインID交換を済ませた。 「ほら。スマホを仕舞い込んだらとっとと、手を出す」 「はいはい」  ポケットに入れた手を出したら、陽毬にグイっと腕を掴まれ流れるような仕草で手を握ってくる。  な、慣れておるな。  俺が自分から彼女の手を握るのは結構ハードルが高いから助かる。  うん、彼女も俺と同じ気持ちだったらしい。  このまま帰りたくないもんな。    顔をあげ、真っ直ぐに長十郎へ目線を向ける。    「長十郎さんのこと聞かせてもらえますか?」  せっかく出会ったこの侍のことを知りたい。  もう暗くなってきてしまったけど、明日まで待っていられないじゃないか。  明日に陽毬と会えるのかも分からないしさ。   「某の身の上話が聞きたいと。さして面白味のあるものではないのだがな」 「差支えなければ聞かせて欲しいです」    陽毬が「是非是非」と長十郎に話を促す。 「今日はもう遅い。明日に……と行きたいところだが、その顔、余程某のことを聞きたいと見受けられる」 「はい」 「今日のところは手短に語ろう。なあに、某はずっとここにいる。焦ることはない」  確かに長十郎の言うことももっともだ。  彼の半生を語り聞かせてもらったりなんかしたら、深夜になっても終わらないかもしれない。   「今日は触りだけでもいいかな?」 「うん。じっくりと聞きたいものね」 「だな」  陽毬と頷き合い、長十郎に目を向けた。 「某は――」  俺たちの様子を見て取った長十郎は語り始める。   3.  長十郎は下級役人の出で、武士としての家格は下から数えた方がはやかったのだそうだ。  彼は隣国へ伝令の役を仰せつかい、使者として隣国へ赴く。  無事、隣国へ書面を届けた帰りに不幸にも隼丸が(つまづ)き、彼は地面へ投げ出されてしまった。 「その時の怪我が元で、この通りよ」  朗らかに笑い、自らの胸を叩く長十郎。 「それからずっとここにいるんですか?」  長十郎へ尋ねると、彼は顎に手を当て頷く。 「うむ。迷い出てしまってな。稀に某の声が聞こえたり、姿が見えたりする者もおったと思うのだが……」 「ここは人通りも全くないですしね。昔からだったんですか?」  今度は陽毬が確認するように尋ねる。   「然り。このお堂は某の時代でも既に打ち捨てられておったくらいだからな」 「それじゃあ、滅多に人が通ることも無かったんじゃ」 「然り。しかし、お主らに会う事ができた。某の言葉を聞いてくれた」  淡々と語っているように見えるが、長十郎の胸のうちを想像すると胸が締め付けられる思いだった。  何十年、いや、何百年ここで彼が亡霊として過ごしてきたのか分からない。  彼は誰とも喋らず、ずっとここで一人だったのだ。  俺たちと会話できることが、どれほど彼にとって救いになったのか想像を絶する。  いや、でも……逆に彼へ辛い気持ちを抱かせることにならないだろうか?   「明日、絶対にここに来ます。もっとお話を聞かせてください」 「もちろんだとも! 某はずっと、自らの死について誰かに伝えたかった。それが今、叶ったのだ。お主らには感謝してもしきれぬよ」  陽毬の言葉に長十郎は嬉々として応じる。  よかった。  俺の杞憂で。  話をしてしまったことで、却って苦しめる結果になるんじゃないかと思ってしまった。   「それじゃあ、そろそろおいとまします」 「今日はありがとうございました」 「達者でな」    俺と陽毬がペコリと頭を下げると、長十郎は右手を上げ左右に振る。  隼丸もひひんと俺たちを見送るように嘶く。    ◇◇◇   「はああ。いろいろあったなあ」  自室のベッドにゴロンと寝転がる。  ベッドと学習机、本棚の大物家具三点セットは、引っ越し屋さんが置いてくれたものだった。だけど、部屋にはまだ段ボールが満載だ。  引っ越して来て一週間が経過しているが、まだ二箱くらいしか段ボール箱を開けていない。  といっても、高校の転校手続きは済んでいるし、部屋の片づけなんて急がなくても問題ないだろ。    あの後、古びた神社から出たところで陽毬と別れ真っ直ぐ自宅に戻ってきた。  陽毬と長十郎、それと隼丸。  普段の俺からすると出会いが多すぎて、正直少し気疲れしてしまったことは事実だ。  中学以来、あれほど長い時間女子と喋ったことなんてなかったし……。  それに。  自分の右手を上げ、じーっと見つめる。    柔らかな手だったよなあ。それに彼女の体温が手を通じて。  ――ブーブー。 「うお!」  図ったようにスマートフォンが揺れるもんだから、変な声が出てしまったじゃないかよ。 『明日、十時に富丸前のファーストフードで作戦会議しよう』  着信は、陽毬からだった。 『富丸前? 駅前かな?』 『うん。駅の裏手に富丸商店ってお店があるの。あれ? 知らない?』 『引っ越ししてきたばっかでさ』 『そうだったの! じゃあ、長十郎さんの話を聞いた後にでも街を案内するわ』  案内、案内か。  でもそれって、デート……いやいやいや。俺と陽毬が並んで歩いてみろ。  そんな風には見えないって。  並んで歩いている姿を想像し、ため息を吐くと共に納得した。  だけど、口元が緩むのが止まらない情けない俺である。  しょうがないじゃないか、少しくらい鼻の下を伸ばすことなんてさ。   「口は悪いが、可愛いんだもの……」  ハッ!  起き上がり、左右を見る。  ホッと胸を撫でおろすが、ダラダラと冷や汗が流れて来た。  な、何ちゅうことを呟いてしまったんだよ、俺。  いくら一人だからって、浮かれすぎだろうに。    よくよく考えてみると、そもそも俺……男子とか女子とか関係なくファーストフードでお茶しながら喋るとかなかったもんな。 「だああああ!」  無し、無し。今の無しな!  悲しくなんてなってないもん。ゴロゴロとベッドを寝転がり、気分を落ち着ける。  う、ううむ。  落ち着けても別のことが気になってくる。  陽毬、長十郎……二人のことが浮かんでは消えた。  明日また話すことができるじゃないか。特に長十郎については疑問に思うところが沢山あるけど、陽毬と会ってから……彼女と二人っきりで会う?  あ、あああ。  何かループしてる。こいつはダメだ。  もう無心にソシャゲをして、タップしまくるくらいしかないな。  しかし、ソシャゲをはじめて10分と立たないうちに寝てしまった。    ◇◇◇    ――翌日。  珍しく朝6時前とかに起きてしまう。ソワソワして眠れないとか、そんなこともなくやたら早く寝てしまったからなあ。  せっかく早く起きたのだから、というわけで約束の時間よりかなり早めに外へと出る。  通勤ラッシュの時間がちょうど終わった頃だったので、駅に向かう人はまばらだ。  俺の引っ越ししてきた小暮市は人口18万ほどの大きくもなく小さくもない地方都市だった。  小暮駅は南口と北口があるようで、線路は高架になっていた。俺の家から駅に向かうと南口に到着する。  南口はちょっとしたロータリーがあって路線バスの停留所が四つ。ロータリーを囲うように街路樹があって、小奇麗な印象を受ける。  道の端っこで立ち止まり、スマートフォンを取り出した。 『うん。駅の裏手に富丸商店ってお店があるの。あれ? 知らない?』  陽毬のメッセージを確認し、疑問が浮かぶ。    駅の裏手ってどっちだよ……。  駅には南口と北口がある。「裏」はどの入口なんだ?  まあ、時間もあるし駅の周りを探索してみようかな。    見つけた。駅の東側だったのか。  富丸商店って看板があるスーパーがある。富丸商店は平屋で間口が広く、表に野菜の入ったカゴが並べられている庶民的なお店だった。  この近くにファーストフードがあるんだったよな。  グルリと周囲を見渡そうとした時、  ――ぐあぐあ。  アヒルの鳴き声が聞こえた。  こんなところにはアヒルはいないよな。  いないと思いつつも気になってしまい、左右を見渡す。  うん、やはりいない。 「はああ」    こういう人通りが多い場所では滅多に聞こえないんだけどなあ。  でも、ひょっとしたらアヒルがぐあぐあよちよち歩いているかもしれない……なんて興味を引かれてさ。   「陽翔」 「ん?」    後ろからの声に振り向くと、陽毬が顔の辺りで「はあい」とばかりに手をひらひらとする。  ふ、不意打ちだ。  ちょっと近いし……。   「早いじゃない」 「ついでだから散歩でもして、と思ってさ」 「なあんだ。それならそうと言ってよね。案内するって言ったじゃない」 「あはは」  右手を頭の後ろにやり、曖昧な笑みを返す。   「少し早いけど、いいかな?」 「うん」 「じゃ、行きましょ。こっちよ」 「お、おう」  言うや否や歩き始めた陽毬の後を慌てて追いかける。    余談だが、ファーストフード店は富丸商店の右隣りにあった。   4.   2Fの窓際の席で向い合せに座る俺と陽毬。 「つ、冷たかったわ……」 「そ、そら……」    じーっと俺の頼んだホットコーヒーを見つめてくる陽毬である。  彼女が注文したのはシェイク(苺味)だった。3月は寒暖差が激しい季節だけど、今日は一段と肌寒い。  さすがにシェイクはまだ早かったらしい。   「……」 「飲む?」  黙る彼女に冗談めいて聞いてみる。 「いいの?」 「うん」  ところがどっこい、彼女はホットコーヒーに手を伸ばしふーふーしながら躊躇せずコップに口をつけた。  それ、飲みかけなんだけど……いいのか? 「じゃあ、これあげる」 「いや、それはちょっと……」  陽毬がジェイクをズズイと前に押し出してくる。 「大丈夫。ストローを替えるから」 「いや、ストローはむしろ……いやそんなことじゃあなくて、冷たいじゃないか」 「ちょっと待ってて」  ホットコーヒーの入ったカップを机に戻し、彼女は階下に消えて行き――  カップと砂糖、フレッシュを手に持ち戻ってきた。  どうやら彼女は俺のためにコーヒーをわざわざ買ってきてくれたらしい。   「はい」 「いや、俺はそっちでいいよ」    自分の飲んでいたコーヒーを指さす。  対する彼女はかぶりを振り、俺に新しい方のコーヒーを差し出してくるのだった。 「私はこれでいいの」 「あ、いや……」 「出来立ては、熱すぎるじゃない」  陽毬は俺から目を逸らし、ボソリと呟く。  猫舌らしい。 「な、何よ」  黙っていたら、陽毬がじとーっと俺を恨めしそうな目で見上げてくる。  その仕草にドキリとしてしまった。  拗ねた顔が子供っぽくて、普段のクールな彼女とのギャップで……。   「あ、ごめんごめん。弄る気はなかったんだよ」 「どうだか。まあいいわ。さっそく作戦会議をはじめましょう」 「おう」  といっても特別に何か準備するわけじゃあない。  このまま会話をするだけなんだけどね。   「長十郎さんについてどう思う?」 「どう思うと言われてもふんわりし過ぎてどう返せばいいか」 「じゃあ、まず最初に。わざわざ言わなくてもだけど、念のため確認するわね」 「うん」 「長十郎さんって幽霊よね」 「間違いなく幽霊だと思う。そうじゃないかと思っていたけど、俺が『聞こえる』のは幽霊の声だとは……」  半ば確信していたさ。俺が聞こえるのは生きている動物じゃあないと思っていた。  姿形は見えないのに、声だけが聞こえるのだもの。  だから、昨日、長十郎と隼丸を見た時にもすぐに現実として受け入れることができた。  彼は元人間だから会話もできるし、自ら幽霊以外の何者でもないことを証言してくれたものなあ。 「そっか。陽翔は『聞こえる』んだったわ。だから、幽霊に今まで確信が持ててなかったのね」 「そそ。『見えた』から確信できたよ」 「ごめん、陽翔」 「謝るところあったっけ……」  首を捻ると、陽毬にまたしても恨みがましい目でじとーっとされてしまった。 「な、何故、その態度……」 「何でもないわ。話を戻すわよ」 「うん」 「長十郎さんは幽霊で、ずっとあの杉の木の下で長い時を過ごしてきたのよね」 「そこだよ。浅井さんの気持ちを確かめてからにしたいけど、悠久の時をあのまま過ごしたくはないんじゃないかと思うんだ。だから」 「成仏よね」  俺の言葉に陽毬が言葉を重ねる。  い、いいところを取られてしまった。ちょっとだけ悔しい。   「幽霊と話をするのは初めてだから推測でしかないけど、幽霊ってのは」 「この世に未練を残しちゃったから、天国へ行けない魂よね」 「そ、そう。それで」 「長十郎さんに未練のことを聞きたいわね」  す、全て先んじて言われてしまった。ちょっとくらいは俺に言わせてくれてもいいじゃないか。  こんな時はコーヒーでもやけ飲みするしかないな。うん。   「熱っ!」  余りの熱さに口に含んだコーヒーを吐きそうになった。  勢いよく行き過ぎたぜ。まさかこんなに熱いとは。   「あはは。子供っぽいところあるのね」  陽毬がすっとハンカチを机の上に置く。  あれ、口からコーヒーが出てたのか……。  確かめようと手で口元を拭おうとしたら、彼女が机に右手をついて体を伸ばす。  何だろ? と思っている間に、彼女は俺の口元へハンカチを。   「な、なな……」 「せっかくハンカチを出したんだから、使いなさいよ。手で拭おうとしたでしょ」 「ほ、ほっといてくれ」  な、何ちゅうことをするんだ。  今、指先が俺の頬に少し触れた気がするぞ。 「長十郎さんの未練って何なんだろ。気になるわ」 「そ、そうだな」  俺はさっきのハンカチの方が気になって仕方ないわ。 「未練を解消したら成仏して天に昇ることができるなら、協力したい」 「うん、私も!」 「ずっと、杉の木の下で縛られて時を過ごすなんて酷い話だと思うから」 「陽翔」 「ん?」  陽毬が右手を斜め前に掲げる。  手を出せと?  おずおずと彼女の真似をして手を前に出したら、彼女がぱーんと手を合わせてきた。  な、なるほど。ハイタッチしたかったのね。 「乗りかかった船だもの。私達に出来るなら何とかしたいわね」 「そうだな! やるか」 「ええ」  こうして、俺と陽毬は長十郎成仏大作戦を決行することを誓い合ったのだった。    ◇◇◇   「本当にいいの?」 「うん。今一番やりたいことは、浅井さんと話すことだから」 「正直、私もそうよ」 「だろ?」 「ええ。そっちじゃないわ。右よ」  ファーストフード店を出た俺たちは、真っ直ぐに長十郎のいる神社に向かう事にしたんだ。  陽毬は俺に駅前だけでも案内するって言ってくれたんだけど、もう俺の頭の中は長十郎の未練のことで一杯でさ。  だから、彼女に頼んで真っ先に彼の元へ向かっていいかって聞いたんだよ。  彼女は彼女で俺と同じように長十郎のことが気になって仕方なかったようだし、意見が一致したってわけなのだ。    っつ。  う、腕を掴まないで……ちょっとだけ恥ずかしい。   「だから、右だって」 「ご、ごめん」  さりげなく数歩前に進んで彼女の手を自分の腕から離す。 「もう、子供ね。そんなに急がなくても長十郎さんは逃げないわよ?」 「分かってるって。だけど、な」  陽毬に向けにやりと笑みを浮かべ、歩く速度を上げる。  突き当りを左に曲がろうとしたところで、後ろから俺を追いかける彼女に「右よ」って言われてしまったことは秘密だぞ。    そうそうここだ。この道だよ。  曲がったところで、昨日見た道に来たことが分かった。  あれだあれ。あの細い道を入ると古びた石畳になっていて……。   「お先―」 「あ……」 「ぼーっとしてるからよ」 「ちいい」  追いかけようとしたら、足場が悪くつんのめってしまう。   「気をつけなさいよ。この道、古すぎるし整備されてないもの」 「おう」  腕を組み呆れた顔で首を傾ける陽毬であったが、何のかんので立ち止まり、俺に声をかえてくれた。  さすがにこの隙に追い抜こうとするのは憚られ、彼女へ先に進むように告げる。  流石俺、大人なところがあるじゃあないか。ははは。   「置いていくわよ」  容赦ない陽毬の一言が飛んできた。 5. 「そなたら、二人とも息を切らせていかがいたした?」  長十郎が杉の木へ片手をやり、眉をひそめている。  結局、全力疾走になってしまいお堂の裏手に着くころには完全に息が上がってしまう。  陽毬は余り運動が得意ではないのか、その場でへたり込んでいるほどだ。俺も彼女ほどじゃあないけど、肩で息をしてぜえはあいっている。  立ち上がるまで彼女と手を繋ぐのはやめておこうと思ったんだけど、彼女は息絶え絶えながらも手を伸ばし指先をピンと俺の方へ向けた。  すぐにでも長十郎の声が聞きたいんだなと察した俺は、彼女の指先へそっと手を添えたってわけだ。  俺としても彼女と触れていないと長十郎の姿が見えないから致し方ない。  自分から彼女の指先に触れにいって少しドキドキしているのは秘密にしておいてくれ。   「ちょ、ちょっとした事情がありまして」  息を整えつつ、長十郎に応じた。 「息災であればそれで良し」  カカカと腕を組み声を出して笑う長十郎は、本当に楽しそうで彼の実情を思うとなんだか胸が温かくなった。  俺たちのおバカな行動でも笑ってくれたんだなあと、ちょっと嬉しくなる。 「陽翔」 「ん?」 「引っ張って」 「お、おう」  彼女の指先に添えた手を戸惑いつつも握り、グイっと引っ張り上げる。  思った以上に彼女が軽くてビックリした。  あ。  どうやら力が強すぎたようでぼふんと彼女の頭が俺の胸に当たる。  彼女はよろめくが何とか体勢を立て直し、片手でパンパンと自分の服をはたく。   「っつ。勢いよく引っ張り過ぎよ」 「ご、ごめん。いろいろごめん」 「いろいろって。他にもあったの?」 「い、いや。引っ張った以外には何もない」 「ふうん」  な、何だよ。そのいやあな目は。  口元に手のひらを当てて、わざとらしい……。   「ま、まあ、何だ。浅井さん。今日もお話を聞かせてください」 「下手過ぎる誤魔化しね」 「う、うるせえ」  わざわざ突っ込まれなくても、自分だって分かっているさ。  で、でも、そこはな。生暖かく放っておいてくれるのが優しさってやつだろ。    俺たちのやり取りに対し目を細め楽し気に見守っていた長十郎が、口を開く。   「いくらでも話をしようぞ。数百年、誰とも会話しておらぬかったからな」 「長十郎さん……」 「す、すいません」  余りにも悲しい一言に俺も陽毬もうつむいてしまう。   「何。某は嬉しいのだ。死後、これほど朗らかな気分になったことはない。お主らには感謝しておる」  そう言えば、長十郎はずっと楽しそうに口元に微笑みを称えている。  最初に見た時だけ戸惑った厳しい顔をしていたが、その時だけだ。  彼は俺たちと会話をすることができて嬉しいと言ってくれている。  俺にとって「声」ってのは少しトラウマで苦手だったけど、この人の声は不快じゃあない。  むしろ、もっと彼の話を聞きたいと思わせてくれるんだ。   「長十郎さんは、転倒してここで……だったんですよね」  陽毬が言葉を濁しつつ、確認するように尋ねる。 「うむ。何から話せばいいものやら。某の半生を聞いてもつまらぬだろうし、とりとめも無くなる」  そうだよな。何から聞こうか。  どんなものを食べていたとか、お城ってどんなところなんてことを聞いてみたいな。  未練に繋がる話を聞きたいことは当然として、いきなり確信を聞くのもちょっと……。 「でしたら、恋のお話とか聞かせていただけますか?」    何て考えていたら、陽毬が少女らしい質問を投げたあ。それ、男が語るになかなかしんどい内容だと思うぞ……。  最初の一発目からそれって。    対する長十郎は「ふむ」と頷き、杉の木を物憂げに見上げる。   「余り聞いても楽しい話ではないが。それでも良いか?」 「もちろんです!」  陽毬……食いつき過ぎだろ。  思いっきり身を乗り出しているし。   「こんな某でも、()いてくれる女子(おなご)がいた。牡丹(ぼたん)という名でな。名前の通り笑うと花が咲くように愛らしい娘だった」  ぎゃああ。のっけから痒くなるう。  でも、それは最初だけだった。彼の話はまるで時代劇の一幕のように思えたんだ。(当たり前といえば当たり前なんだけどね)    牡丹は反物屋に奉公する寒村出身の娘だった。  よく働き器量良しで裕福な長者か誰かに見初められて妻妾として迎えられることも夢ではないと言われていたらしい。  そんな牡丹と長十郎が最初に出会ったのは、彼が十九、牡丹が十六の歳だった。  出会いは偶然で、軒先の掃除をしていた牡丹の元を長十郎が通りかかり、彼が木桶に誤ってぶつかり倒してしまったことから始まる。  木桶には水が満タンに入っていて、運悪く牡丹の草鞋を濡らしてしまう。  「すまぬ」と詫びる長十郎に、しゃがんで拭き掃除をしていた牡丹がすっと立ち上がり振り向き、「お気になさらず」と笑顔を見せたのだった。   「某は牡丹のその顔に一目で好きになってしまっての」  長十郎は懐かし気に顔を綻ばせる。  だが、下級役人の子である長十郎は裕福ではないから、牡丹を妾にするなどもってのほか。  夫婦(めおと)になるには身分という壁があった。  それでも、長十郎は諦めきれなかった。彼女と夫婦になりたい。彼女の笑顔と共にありたいと。  牡丹は長十郎の身の上が分かっていたので、「困ります」と彼を拒絶していたが、彼の誠実さと熱心さに惹かれて行く。    長い時間をかけ、長十郎は自らの主君を含めた周囲の人々を説得して理解を得て、牡丹を年輩の同僚の養女としてもらうことで身分の差を解消し、ついに彼女との結婚を認められたのだった。  喜ぶ二人。  桜の散る頃に婚儀をあげようと約束し、長十郎は隣国へ伝令に向かう。   「その帰り道、某はここで倒れた」 「そんな……嘘……」  陽毬は両手を口に当て、かぶりを振る。   「牡丹さんは浅井さんを探しに来なかったのかな……」  思ったことがつい言葉に出てしまった。   「そうよね。心配した牡丹さんが」  俺の一人言に陽毬が反応する。  二人で目配せし合い、頷き合う。 「某は亡霊となりて以来、牡丹の姿を見てはおらぬ」 「探しに来なかったんですか?」  そんなはずはない。だって、長十郎のことを牡丹も好きだったんだろ?  「なあ、陽毬」と彼女に目を向けて、すぐに彼女から顔を逸らす。  だって、彼女のヘーゼルの目が赤くなって目に涙をためていたんだから。  見ちゃいけないものを見てしまったような気がして、顔を背けてしまった。   「来てはおらぬ」  しかし、長十郎は俺の期待とは裏腹に言葉を返す。   「で、でも。牡丹さんは長十郎さんのことを愛していたんですよね?」  今にも泣きだしそうな顔で陽毬が縋るように長十郎に尋ねる。   「愛していた……と某は信じておる。某は今でも牡丹を」 「浅井さんを見つけることができなかった……のでしょうか」 「分からぬ。あの後のことは。某はここから動くことができぬ。確かめようにも確かめようがないのだ」  ギュッと口を結び、杉の木を撫でる長十郎。  憂いを帯びた彼の姿に胸が締め付けられる。  死後、長十郎は牡丹と会うことが叶わなかった。これが彼の未練となり、幽霊となってしまったのだろうか。  亡霊の長十郎はついぞ牡丹に会うことが無かった――。  それって裏を返せば。   「浅井さんがここで亡くなったことを誰も知らないんですか?」  確認するように彼に尋ねると、彼は杉の木から手を離し虚空を見つめた。 6. 「分からぬ。亡霊となりて、この木の下で世を眺めておったが、ついぞ武士の一人にさえ見かけなかったのだ」 「誰か一人くらいはここを通りかかったんじゃ」 「うむ。もちろん誰一人通らぬことはなかった。だが、某の遺体はそのまま風化しておる」 「……」  やっぱりそうか。  長十郎は自分の生きた時代に遺体が発見されることはなかった。  もし、彼の遺体を発見した者がいたとしたら、牡丹に話が伝わる可能性が高い。  それが叶わなかったから、長十郎の遺体は風化したんだ。  誰も、何も、彼の死を知らず。  朽ち果て……それでも尚、彼はここで数百年の時を過ごし……。   「それって、牡丹さんも長十郎さんの死を知らぬままってことじゃない……ずっと長十郎さんがどこかで生きていると信じていたってわけよね」  ドキッとした。  陽毬の目からぽろぽろ涙が流れるままになっていたからだ。  長十郎が倒れた後、何か事情があり、彼を捜索する者がいなくなったのだろうか? 歴史は闇の中、長十郎が知らぬなら推測することしかできない。 「きっと……いや、向井さん」    彼女の手をギュッと握る。 「どうしたの?」  陽毬はハンカチを目に当て、笑顔を作ろうとするが目から流れ落ちる涙が止まっていない。 「俺たちで、探そう。牡丹さんを」 「あなたにしてはいいことを言うじゃない。私も牡丹さんを探したいって思っていたところよ」  ニカっとワザとらしい笑みを浮かべたら、彼女も泣き笑いで返してくれた。   「すまぬの。つまらぬ話だっだろうに」 「いえ、そんなことはありません! ね、陽翔」 「もちろんだよ。それでですね、浅井さん」  彼の名を呼び、大きく息を吸い込む。   「牡丹さんに浅井さんのことを知らせたいんです。覚えている限り、牡丹さんの身の上を教えてくれませんか?」 「もちろん構わんが……何分、昔のことだが良いのか?」 「はい。浅井さんが『良し』とするのでしたら、俺は探したい。牡丹さんはきっと浅井さんの身を案じていたはずだから」 「主らが牡丹を探してくれるというのなら、是非もない。お願いできるか?」 「はい!」  陽毬と頷き合う。  よかった。彼女も俺と同じ気持ちで。  一人暴走してしまったと思っちゃったから、彼女も頷いてくれてホッとしたよ。   「絶対に見つけようね。陽翔」 「うん。意地でも探し当てる」 「あはは。普段、頼りないのに、ちょっとだけ頼もしく見えちゃったわ」 「失礼な」  会って二日目で頼りないって言われてしまうとは……ま、まあ事実だから仕方ない。   「そういや、陽毬」 「なあに?」 「そのハンカチ」 「ちょっとコーヒーで汚れているけど、問題ないわ」 「え、えっと」 「ふうん」 「だから、その顔やめろって!」 「あはは」  全く……。  でも、陽毬の目からもう涙は流れていない。  泣いているよりいやらしい笑みを浮かべていた方が彼女らしい。  思わずクスリとしてしまったら、何故か長十郎もつられて朗らかに笑うのだった。  ◇◇◇    この後、長十郎から牡丹のことを聞いたのだけど……。現代にまで繋がる情報は殆どなかった。  そらまあそうだよなあとは納得できるが、現実問題、どうやって牡丹を発見するか雲を掴むようなものだ。  だというのに、陽毬はフォークにさしたハンバーグを口に運びご満悦な様子。   「んー。おいし」 「お、おう」 「陽翔、食べないの?」 「すぐ食べるさ。牡丹さんをどうやって見つけようかって考えていてさ」 「考えるのは後々。腹が減ってはというでしょ」 「そうだな」  彼女の言う事ももっともだ。空腹では碌なアイデアも浮かばないよな。うん。  長十郎と別れた俺たちは、駅前のファミレスに入った。  彼から聞いた情報を俺たちなりにまとめたかったからだ。誘ってくれたのはもちろん陽毬。  彼女へ「この後相談したい」って言おう言おうと思っていたら、彼女からファミレスに誘ってくれたんだ。我ながら情けない。  食事まで摂ってなんて考えていなかったから、嬉しい誤算だった。  もちろん、女の子と二人で食事なんて人生初である。いや、二度目だ。  昼にファーストフード店で軽い食事を摂ったからな。すげえ俺。二度も女の子とお食事なんて。    ……。分かっている。  分かっているから、これ以上何も考えたくない。   「牡丹さんをどうやって探すのか考えているのは分かるけど、おもしろい顔がますますおもしろくなっているわよ」 「た、食べるさ」  自分の心のうちを見透かされたような気がして、あからさまにびくうっと肩を揺らしてしまった。  いい感じで勘違いしてくれてホッとしたよ。    おおっと、また思考が逸れかけた。  じゅーじゅーと音を立てなくなった鉄板に乗ったハンバーグへナイフを通し、口へ運ぶ。  うめえ。  前を向くと陽毬のしつこいくらいふーふーする姿が子供っぽくて可愛い。  いいね。やっぱり、こういうのって。  舞い上がるなと言われても、やっぱりさ。  分かっているさ。彼女は牡丹のことを相談するために俺と食事をしていることくらい。    食事が終わり、ドリンクバーに二人一緒に向かって……彼女の手の甲が俺に触れたりなんか……しなかったけど、まあ、それはいい。  そんなこんなでコーヒーを持って席に戻る。   「さて、じゃあ、情報をまとめましょうか」 「うん。といっても殆ど情報は無いんだけどな」  長十郎と牡丹が住んでいたのは城下町で、城の名前は葛城(かつらぎ)城という。  それ以外に分かることと言えば、牡丹の務めていた反物屋くらいか。   「あ、えっと。反物屋の名前って何だっけか」 「篠沢よ。篠沢屋呉服店」 「そうだったそうだった。それで長十郎さんは城の傍の長屋に住んでいるとか言っていたな」 「あれ? 陽翔」 「ん?」 「浅井さんじゃなくて、長十郎さんて言ったわよね。呼び方変えたの?」 「うん。牡丹さんと合わせて長十郎さんって呼んだ方がいいかなって思って」  牡丹さんを名前で呼ぶなら、浅井さんじゃなくて長十郎さんって呼んだ方がしっくりくるしさ。 「ふうん」 「な、何だよ」 「長十郎さんだけ名前で呼ぶんだあ?」 「……」  言わんとしていることは分かる。だけど、な。  そいつは難しいってもんだぜえ。   「陽翔」 「へい」 「へいじゃなくて、分かっているわよね?」  分かりません。分かりません。  呼び方なんてどうだっていいじゃないかあ。   「あ、そういうことね。私の名前は陽毬(ひまり)よ。覚えた?」  覚えるも何も、既に心にその名を刻み込んでいる。忘れるわけないじゃないか。  心の中でバッチリ名前呼びだからな。   「お、おう」 「じゃあ、忘れないうちに呼んでみよう? ね?」 「ううう。陽毬さん」 「呼び捨てでいいわよ。私も呼び捨てにしてるし」 「分かった。陽毬」 「うん。それでいいの。私だけ名前で呼ばれないってなんか仲間外れにされちゃったみたいだし」  そういうことだったのか。  可愛らしく口を尖らせる陽毬にクスリと声を漏らす。   「何よ」 「いや、何でもないさ。可愛いと思って」 「もう、あなたに子供扱いされるなんて!」 「そんなこと……ないよ?」    さきほど、執拗にふーふーしていた姿を思い出してしまった。 「今の間は……まあいいわ。話を続けましょう」 「だな」  といっても分かるのは城と店の名前だけなんだけどさ。 7. 「葛城城がどこにあるか、よね」 「そうだなあ」  スマートフォンで検索をかけてみると、該当する城は二つあるようだ。  一つは電車で四つ先とそれほど遠くない。もう一つは気軽に行ける距離じゃあなかった。  もう一つのキーワードである篠沢屋呉服店は、残念ながら既に存在しないようだな。  少なくとも江戸より昔から続いている篠沢屋呉服店って名称の店は見つからない。   「見つかった?」 「うん。まあ、一応な」  猫のような瞳を輝かせ、スマートフォンを覗き込んでくる陽毬。  彼女の動きにあわせて、ふんわりとした髪からいい香りが。  自分のものがあるだろうに、わざわざ身を乗り出してこなくても。 「あ、ごめんごめん」 「いや」  彼女の頭とごっつんこしそうになり、慌てて頭を引く。 「まるで見当がつかないけど、近い方の葛城城に行ってみる?」 「見当はつくと思っているわ」  え?  名称しか分かってないんだぞ。そもそも、牡丹がその地で亡くなったかどうかさえ、確実じゃあないし。  お墓に牡丹って書いているわけでもないよな。  そもそもお墓があるのかも不明だし。   「どうやって?」 「人に聞けばいいじゃない」 「人って言ってもだな。あ、そういうことか」  ポンと膝を打つ。  俺たちは長十郎に出会った。  てことは、葛城城近辺にもきっと同じように長十郎みたいな幽霊がいるはずなんだ。  過去の人に聞けば、当時の状況が分かるってわけか。   「へっへーん。さすが、私」 「おう。思いつかなかったよ。どれだけ幽霊がいるのか分からないけど、さ」 「行ってみてのお楽しみよ!」 「だな」  俺は今まで動物の唸り声やら鳴き声しか聞こえてこなかったけど、彼女はどうなんだろうか。  人の姿が「見えた」りしたのかなあ。  もし俺と同じで「見えた」のが初めてだったとしても、長十郎という先例がいた。だからきっと、「いる」に違いないと彼女は考えたのかもしれない。  よく思いついたよなあ。  最初に出会った時の機転といい、彼女の頭のキレは俺より全然良いと思う。  俺がぼんやりしているだけだって? それは否定しない。  自分で言っててへこむからこれ以上考えるのは止めておくことにする……はああ……。   「じゃあ、明日ね」 「駅前でよいかな」 「うん。またラインするから」 「分かった」  方針が決まりスッキリしたところで、店を出る。  店の前で陽毬と別れ、帰路につくのだった。  辺りはすっかり暗くなり、そろそろ通勤ラッシュのサラリーマンたちが姿を現す頃合いかな。    ◇◇◇    自室に戻り、ベッドに寝っ転がった。  ちょうどその時、スマートフォンがぶぶぶっと震え着信があったことを主張する。 『明日は8時だからね。ちゃんと起きろよー』 『分かってるって』  陽毬からメッセージが着ていたのですぐに返信しておいた。    ホーホー……。  外からフクロウの鳴き声らしき音が聞こえてくる。  窓を開けて姿を確かめてみようと思ったが、起き上がるのをやめた。  こんな近くでフクロウなんているはずもない。    自室にいても聞こえてくるんだよな……ほんと嫌になる。  でも、以前ほど嫌悪感は無くなっているかもしれない。  このフクロウは長十郎の生きた時代に生きたフクロウなのだろうか? それとももっと後の時代の?  この辺が山の中だった時代に紡がれたものなのかなあ。    なんて考えていると、気持ちが楽になってくる。  俺は長十郎と出会ったことで、「聞こえる」ことも悪くないんじゃないかって思い始めることができているんだ。  もし俺が聞こえなかったら、陽毬と親しくなることもなかっただろうし。  こんな気持ちになれるなんて、引っ越ししてくる前は思いもしなかった。  彼女と長十郎に感謝しなきゃ。  そのためにも、俺は長十郎の想いに応えたいと願う。  既に牡丹は亡くなっていることだろう。だけど、せめて彼女の墓前に長十郎のことを伝えたい。  もう牡丹には伝わらないだろうけど、そうすることで長十郎の鎮魂になれば……と。   「ああああ。しんみりしてきたらダメだろ! 明日は歩くんだ。頑張るぞー」  ワザと声に出して、寝ころんだまま拳を握りしめる。  よし、ソシャゲでもやってから寝るか。  今日こそSSRを引いてやるんだ。ふふふ。    ◇◇◇    ――翌朝。  小暮駅南口に行くと、まだ15分前だというのにふわふわとしたウェーブがかかった髪の女の子――陽毬の姿が見える。  今日の服装も可愛いな。  彼女は喋るとしっかりした感じなんだけど、見た目はそうではない。  服装こそ、春物の薄いベージュのジャケットに膝上のタイトスカート、茶色のブーツといった感じでキリッとしているが、顔かたちがほんわかして可愛らしい系統なんだよ。  猫のようなクリクリしたヘーゼルカラーの瞳、ゆるふわウェーブの茶色がかった髪の毛。  小柄な体は、俺の胸辺りまでしかない。  俺は特に身長が高いわけじゃあないんだけどね。   「おはよう」 「おはよう。ちゃんと来れたじゃない。ラインが来なかったから寝てるかもって思ったわよ」 「ごめんごめん。見てなかった」 「あなたらしいわ」 「それって、抜けてるってこと?」 「ご想像に任せるわ」 「ははは……」  頭の後ろに手をやり、スマートフォンに目をやると確かに陽毬からの着信があった。  時間を確認したら、ちゃんと待ち合わせに間に合う時間にメッセージをくれていて、彼女に心の中で「すまん」と謝罪する。   「じゃあ、行くわよ」 「おう!」  陽毬と横に並び改札へ向かう。   『葛川(かつらがわ)ー。葛川ー』  車内放送が流れ、ここが降りる駅だと示してくれた。 「お、案外近いな」 「4駅だもの。すぐよ」  地図情報によると、葛川駅から歩いて20分くらいのところに葛城城がある。    ワクワクしながら駅を降りたところで問題発生だ。   「え、えっと」 「手を繋がないと『聞こえない』じゃない」 「そ、そうだけど、手を繋ぎながら歩かなくても」  かああっと頬が熱くなる。  お堂の裏と違って、ここは人通りもあるし。   「私と手を繋ぐの、嫌?」  上目遣いで瞳を震わせる陽毬。  不安気に俺の手をギュッと握りしめながら。   「そ、そんなことないさ。俺なんかとこんな可愛い子が手を……ゴホン!」 「ちょ、ちょっと。からかうつもりで言ったのに、あなたに不意打ちを食らわされるなんて」 「そ、そんなつもりじゃあ……」 「ま、まあいいわ。行きましょう」 「う、うん」  彼女の手から感じる体温が妙に暖かくて、それが恥ずかしくて……なんてのは最初だけだった。  「見える」ってのはこれほど世界が変わるものなのか。  俺は「見える」世界に圧倒され、彼女と繋いだ手の気恥ずかしさなどすっかり忘れてしまっていた。   「すごいわ。『聞こえる』ってこんなに素敵なことだったのね」  彼女は彼女で感嘆の声を漏らす。  当たり前だが、「見える」方が「聞こえる」より遥かに情報量が多い。  声を発しない動物の方が、声を発する動物より当たり前だが数が多いのだから。  こんなところにも、霊がいたのかと驚く。  でも俺は「見える」より「聞こえる」でよかったとも感じた。  ここまで情報量が多ければ、今よりもっと苦労していただろうから。    だけど、俺の思いとは裏腹に彼女は本当に楽しそうで、子供のようにはしゃぐんだ。  彼女が「見える」「聞こえる」ことをとても前向きに捉えていることがありありと分かる。  それが俺にはとても眩しくて……。   「あの人に聞いてみる?」  彼女が指さす先には、一人の老人が佇んでいた。    8.   老人は幽霊だと一目で分かる。  何故なら、ブロック塀に体の一部がめり込んでいるからだ。  生身の人間だったら、血がどばどば流れるし平気な顔でつっ立っていたりできない。    彼は年のころ60代半ばくらいだろうか。白髪に黒が混じった髪は伸び放題になっていて、口元もまた真っ白な髭が伸びっぱなしになっている。  肘の辺りに繕いがなされた灰色の着物(半纏と表現したほうがいいかもしれないけど)を着ていて細い帯を腰に巻いていた。    さっそく彼に声をかけようとした陽毬へ掴んだ手を引っ張り、彼女を押しとどめる。 「何かあった?」 「先に周囲の確認をした方がいいだろ」  右良し。左良し。後ろ良し。  普通の人から見たら、俺たちはブロック塀に向かって語りかけているように見えるからな。  別に変な人扱いされても俺個人としては問題ないんだけど、陽毬までそう思われるのは気分のいいものではない。  それに……下手したら職質を喰らうかもしれんしな……。   「オールグリーン。オーバー」 「全く……こういうところだけ細かいんだから」 「……ほっといてくれ」 「私のことも思って、確認してくれたんでしょ。それくらい分かっているわよ」  ツンと顎を上に向けた陽毬は、そのまま俺の手をグイっと引き老人の前までスタスタと歩いて行く。 「こんにちは」 「……」  陽毬が挨拶をするも、老人の反応がない。   「こんにちは!」 「……」  彼女より大きな声で今度は俺が挨拶をすると老人の眉がピクリと動く。  お、反応があった?   「お聞きしたいことがありまして。少しだけお話していただけますか?」 「……こりゃ、驚いた。儂の姿が見えるのか?」 「はい。俺の声が聞こえますか?」 「分かる。聞こえるぞ。人の声を聞くのは数十年ぶりかの」  老人は伸ばしっぱなしの前髪に指先を通し、額の上まで上げる。  視界を塞いでいた髪の毛を上にやり、俺たちの姿を良く見えるようにするだめだろうか。  驚く態度とは裏腹に老人は目を細め「うむうむ」と頷いていた。   「して何が聞きたいんじゃ。若いお二人さん」 「人を探しているんです。葛城城の城下町にかつてあったお店に務めていたみたいなんですが」  さっそく老人に尋ねてみると、彼は顎髭をさすり思案顔になる。   「ふむ。死んでからというもの、ここから動いておらぬからのお。儂の時代のことなら分かるがの」 「お爺さんの時代に『篠沢屋呉服店』はありましたか?」 「おお、おお。懐かしい。内職して篠沢屋へ行ったものじゃ」 「場所は分かりますか?」 「もちろんじゃ。じゃが、街の様子もすっかり変わっているんじゃないのかの。目印だけ伝えようぞ」 「ありがとうございます!」  陽毬と顔を見合わせ、喜色をあげ頷き合う。  まさか一発目で当たりを引くとは思っていなかった。   「葛城城西門から進んだところに並木道があっての。そこに樫の木があるのじゃ。ほんで、並木道に入って三軒目が篠沢屋じゃよ」 「樫の木ですか。他にも樫の木があるところってありましたか?」 「ないのお。当時は……じゃがな」 「貴重な情報をありがとうございます」  ペコリと二人揃ってお辞儀をし、老人に礼を述べる。  さあ行こうかとしたところで、陽毬が握った俺の手を引っ張った。    っと。とと。  思わぬ力が入ったことで、よろめきそうになる。 「お爺さん、お名前を教えてくれませんか。あ、すいません。私は陽毬(ひまり)です。こっちのぼへっとしたのは陽翔(はると)」 「儂は喜平(きへい)じゃ」  ん、自己紹介を忘れたってこと?  いや、それだけじゃないようだ。陽毬は淀みなく言葉を続ける。   「お気に障ったらすいません。喜平さんはここに留まる未練や理由(わけ)があるんでしょうか?」 「そうさの。儂のような亡霊が他にもいるのか分からぬが、儂にはこれといった恨みなんてないのお」 「幽霊は何人もいます。私は『見た』だけで、実際にお話するのは喜平さんが二人目ですが……」 「そうかそうか。久しく人と話などしておらんかったからのお。ふぉふぉ」 「喜平さんは、その、天に還りたいとか思わないんですか?」 「儂は死後、原因はとんと分からぬが迷うてここに亡霊として立っておる。それもまた数奇なもんで、悪くないもんじゃよ」 「そんなものですか」 「ふぉふぉふぉ。他にも亡霊がいるらしいが、儂のような亡霊は他にいないじゃろ」  老人――喜平は愉快そうに眉根を上げる。   「お嬢ちゃん、いや、陽毬ちゃんや。儂を気遣ってくれたのじゃろう。だが、心配無用。儂は天に召されることを望まんよ」 「余計なことを聞いてしまい、すいません」 「いやいや、優しい子じゃの。強く願えば、儂も天に昇れるかもしれぬのお。だとも、儂はここから街を見るのが好きなんじゃよ」    好々爺とはまさにこの人のような人のことを言うのだろうなあ。  掴みどころがなく、自由人。  幽霊になってさえこの世の楽しみを見いだせる彼は、変わっているけどとても強い人なんだなあ……なんて。  その生き方をどこか羨ましいとさえ思えてくるんだ。 「また遊びに来てもいいですか?」 「もちろんじゃよ。坊主……ええと名は、まあよい。またの」  俺の名は覚えてないのかよ。ま、まあいい。  いずれ忘れられないくらいにしてやるからな。何度だって来てやる。どうせ暇なんだろ、爺さん。  苦笑していると、陽毬と目が合う。   「楽しそうね」 「まあ、こんな明るい幽霊の爺さんにあったらな」 「そうね。幽霊にもいろんな人がいるのね」 「だな。行こうか」 「そうね。行きましょう」  喜平に別れを告げ、俺たちは葛城城を目指す。    ◇◇◇    葛城城は修復工事中で中に入ることはできなかった。有名な観光地となっている城に比べれば、とても規模が小さい城だけど俺はこっちの方が好きかもしれない。  ちょっとしたお掘りもあるし、城壁だって備えている。  工事が終わっても、人がそうそう増えそうにないしじっくりとお城を観察できるのがよい。  城を一周回るのもこのサイズならすぐだし。    えっと、西門だったか。 「単純に方向が西ってわけじゃあないんだな」 「そうね。入り口が二か所しかないものね」 「駅と同じだな」 「確かに」  俺の言葉に陽毬がポンと手を打ち、同意する。  お城前にある看板によると、南西方向の門が西門らしい。  西門までてくてくとやって来て、城を背に様子を窺う。   「樫の木……ある?」 「住宅地になっていて、ダメね。こんな時は」 「こんな時は」 「ここよ」  陽毬は少しだけ膝をあげ、自分の膝をポンと叩く。  お、そうな。  歩きまわって探すしかないよな。   「すぐそこって喜平が言っていたような気がするし」 「そんなこと言っていたっけ。でも、自転車で、ってわけじゃあないからそう遠くないわよね」 「だよな」  なんて軽く考えておりました。  所詮徒歩で行ける距離だろ、なんて甘く考えていた自分を殴りつけたい。  こんなことなら、一旦駅にまで戻ってレンタルサイクルを借りてくればよかった。    ヒントは西門だけ。  樫の木がまだあるのかさえ分からぬまま、入り組んだ住宅地を歩き回っているだもの。   「だああ。ヒントが少なすぎだよ。樫の木さえ見つからねえ」 「そうね。私だって、すぐに発見できるとは思ってないわよ」  歩き疲れてコンビニ前のベンチに座り込む。  普段から歩き慣れていれば、これくらい平気になると思うんだけど、生憎体がなまり切っている。  陽毬もへたあっと体を曲げ大きく息を吐いていた。 9. 「だよなあ。幽霊を探すって視点に切り替えるのもあるかもしれない」 「それも悪くないわね。この辺りで人の霊を見かけないし、お城の反対側にでも行ってみる?」 「うん」 「気長に行きましょう。コンビニでお弁当でも買いましょっか」 「だな」    お弁当という言葉に反応して、俺の腹がぐううと主張し始めた。  朝から出て、もうお昼かあ。 「ね、何か聞こえない?」 「ん?」  ちょいちょいと耳に自分の手をやる陽毬。  俺も彼女の真似をして耳を澄ましてみる。    チリンチリン――。  とても小さな響きだが、澄んだ鈴の音色が耳に届く。  集中していないと聞けないくらいだから、そもそも音が小さいのか遠いかのどっちかだな。  しかし、この鈴の音。妙に気になる。   「こっち……かな」 「いや、こっちかもしれない」  どうやら陽毬も俺と同じ気持ちで、耳を澄まし音の方向を探っていた。  チリンチリン――。  かすかな音。  自分が地面を踏みしめる音の方が大きく感じるくらいだ。    右だ左だと陽毬と言い合いつつも、鈴の音を追って辿り着いたのは小さな公園だった。  公園といっても遊戯の一つも無く、一人用の男女に分かれたトイレと街灯が二本にベンチが二脚しかない。  公園は広場になっていて、周囲を木々が囲んでいた。   「あっちかな」 「そうね。あの電柱の裏手みたい」  電柱ではなく右手にある街灯まで進む。  すると、木々の隙間から着物姿の人影を発見する。   「あの人」    発見したのは同時だったらしい。陽毬が俺に目配せしてくる。  眉をんーとひそめ、目を細める姿がちょっと可愛いと思ってしまった。  件の人影は美しい艶のある長い黒髪に白装束と、一目みて彼女が幽霊だと分かる。  面長で切れ長の目から伸びる睫毛が儚げで、右手に持った小刀? を静かに振るっている。  小刀の柄には赤い紐で結ばれた鈴がついていて、これが音の原因だったってわけか。  それにしても、鈴を振る彼女の姿はなんだか物悲しくて切なさを誘う。  目を離すと消えてしまいそうな、朧げな印象を与える二十歳くらいの女の人だった。    声をかけるのも戸惑われる透けるような肌をした彼女へどうすべきか陽毬と――。 「こんにちは」  ってええ。躊躇なく行ったあ。  陽毬から声をかけられた黒髪の女の人は鈴を鳴らす手を止め、こちらに顔を向けた。 「鈴の音が聞こえるのですか?」  無表情に彼女はそう呟く。   「はい。鈴の音を追ってここまで来ました。ね、陽翔」 「う、うん」  そこで俺に振るのかよお。  分かった。  ここは俺がしゃきっと聞いてみせる。   「あ、あの。俺、日向陽翔(ひなた はると)って言います。こっちは向井陽毬(むかい ひなた)です」 「ご丁寧なごあいさつをありがとうございます。不躾に聞き返してしまい、申し訳ありませんでした」    しずしずと長い黒髪の女の人はお辞儀をする。  その仕草に見とれてしまいそうになった。陽毬も「綺麗」とか呟いているし。  そうなんだ。彼女は綺麗過ぎる。それがまた現実であることを遠ざけているのだ。  彼女は元人間のはずなんだけど、妖精とか精霊とか別の何かなんじゃあないかって思えてくる。   「私は牡丹と申します。生憎、もてなせるものは何もございませんが」 「牡丹さん!」  陽毬と俺の声が重なった。 「あれが長十郎さんの探していた牡丹さん?」  膝を落とし陽毬の耳元で囁くと、彼女もうーんと首を傾ける。  「葛城城」「篠沢呉服店」「牡丹」というキーワードは合致しているけど、彼女は長十郎に聞いていた牡丹の印象と余りにかけ離れている。  長十郎は笑うと「花が咲いたようだ」と表現していたけど、彼女の場合、吸い込まれるような透明な微笑み……って感じなんだよな。  長十郎の語りから俺の想像していた牡丹は、元気いっぱいでいつもにこにことした生命力溢れる女性だった。 「長十郎さんから聞いていたイメージと少し……違うわね」  今度は陽毬が俺の耳に口元を寄せ囁く。   「今何とおっしゃいました?」  不意に淑やかな声が耳に届く。  聞こえていた?  ハッとなり、落とした膝を伸ばすと俺の肩が陽毬の頭にぶつかりそうになってしまう。  こ、こんな近くにいたんだ。  そらそうだよな。彼女と目線を合わせ囁き合っていたんだもの……。意識すると急に。  俺の思いなんて知りもしない陽毬が肘で俺の腹をこづく。   「すいません。悪く言ったつもりはなかったんです」 「そ、そうなんです」  しっかりと口上を述べる陽毬に対し、なんて情けない俺の発言なんだ。   「いえ、そうではなく、先ほど『長十郎』とおっしゃいませんでしたか?」 「まさか、長十郎さんを知っているんですか?」  牡丹に問い返すと、彼女は頬を朱に染め目を瞑りゆっくりと頷く。 「長十郎様……」  目をつぶったまま艶っぽく息を吐き、彼の名前を口にする牡丹。  もうその姿を見るだけでどれだけ彼女がどれだけ長十郎に恋い焦がれているのか分かる。  たまたま名前が同じだけ……という線も捨てがたい。  俺の知る長十郎と別人だったら、いや、その時は彼女の知る長十郎を探せばいいさ。  うん。   「どうする?」    違ってたらガッカリするだろうなあと内心思いつつ、陽毬に尋ねる。 「牡丹さんから長十郎さんのことを聞いてみたらどう?」 「そうだな。俺たちの知る長十郎さんかそれで判別がつくか」  だよな。聞いちゃった方がいい。  問いかけようとした陽毬へ「俺が喋る」と目配せし、今だに目を瞑り小刀を胸に抱えて彼のことを思い描いている牡丹へ目を向けた。   「牡丹さん。長十郎さんと牡丹さんのことを聞かせていただけますか?」 「長十郎様。逞しく頼りがいがあり、勇ましいお方でした」  ……。あ、いや。のろけじゃあなくて……。  こいつは聞き方がまずかったな。牡丹は久方ぶりに長十郎の名を聞いたことで想いが止まらなくなっているんだ。 「牡丹さん。牡丹さんは生前どんなことをしていたんですか?」 「私はずっと女中をしておりました」 「ひょっとしてその奉公をしていたところって、篠沢ってお店ですか?」 「そうです。陽翔様は篠沢の者なのですか?」  表情の動きが少ないものの、僅かに口元をあげ声色にも喜色が混じる牡丹。  こいつは、大当たりじゃないのか!? 「いえ、違います。もう一つ、尋ねたいことがあります」 「はい。私に分かることでしたらどのようなことでも」 「長十郎さんは伝令に向かわれた? そして、その後、戦が起こった?」 「よくご存じですね。もう……随分と昔のことです」  牡丹は顔を伏せ、着物から伸びたほっそりとした指先を僅かに震わせる。  辛いことを思い出させてしまったようで、胸が締め付けられる思いだ。  だけど、聞かなきゃならない。  長十郎のためだけじゃなく、彼女のためにも。  きっと彼女もこの世に未練を残して、ここに幽霊として佇んでいるのだろうから。  彼女の様子から鑑みるに飄々とした喜平とはまるで事情が異なることは明白だ。  彼女の儚げで朧げな雰囲気は、何か抱えているものがあるからに違いない。  それが、「未練」なんじゃないかって俺にでも容易に想像できる。 「辛いことを思い出させしまい、すいません。ですが、今でなくてもいいんです。長十郎さんが伝令に出た後、牡丹さんに何があったのかを教えて欲しいんです」 「少しだけ……待っていただけますか。私も長く、ここで、誰かに自分のことを語ることなんてありませんでした。ですから……」  彼女もまた長十郎と同じくらい長い時間を幽霊として過ごしてきたんだ。  ずっと長十郎のことを想いながら。 10.  ちょんちょん。  指先で陽毬に肩をつつかれた。  ん。何だよ。人がしんみりとしている時に。   「陽翔」 「ん?」  目に涙が潤んでいる陽毬が俺の手をグイっと引く。   「牡丹さん。お昼を食べてからここへ戻ってきます」 「はい。お待ちしておりますね。お心遣い、ありがとうございます」  勝手に話をまとめた陽毬が戸惑う俺を引っ張り、公園のベンチの前まで来たところで立ち止まった。 「もう。察しなさいよ」 「え、えっと?」 「牡丹さんはしばらく一人にして欲しいって言ったじゃない」 「そういうことか。すまん。気が付かなくて」    牡丹は自分の過去を語るに気持ちの整理をつけたかったんだ。  俺たちには見せたくない顔になるから、「待って欲しい」ってことだったんだよな。   「しっかりと牡丹さんに質問をしていてちょっと頼りになるかも、と思ったらこれなんだから」  全くもうと鼻を鳴らす陽毬だったが、口元に僅かな笑みを浮かべていた。  その時、ぐううという音が。   「さっきのコンビニに戻ろうか」 「そ、そうね」  かああっと頬を赤らめた陽毬が大股で歩き始める。   「速い、速いって」 「気のせいよ」  ツーンと顔を背ける陽毬なのであった。  ◇◇◇    コンビニの飲食コーナーで軽く食事を摂った俺たちは再び牡丹の元へ戻る。 「席を外して頂き、ありがとうございます」  会うなり牡丹はしずしずと頭を下げ、儚げにほほ笑んだ。 「いえ、ちょうどお腹も空いてましたので。痛っ」  陽毬に肘で腹を突かれた。  そんなに強く突っつかなくてもいいのに。まだお腹がぐうって鳴ったことを気にしているのか?  うわあ。思いっきり睨んでる睨んでるよお。  この件には触れないようにしないとな……後が怖い。   「ふふふ。仲がよろしいのですね」 「ま、まあ。はい」 「そこはハッキリと言いなさいよ」 「痛っ」    パシーンといい音が響く。  今度は背中をおお。  だから、こういう時は軽く行くもんだろ? 力一杯にやるものじゃあない。  でも、ぷくうっと頬を膨らませて眉があがっている表情は子供っぽくて可愛い。  陽毬は見た目がほんわかふんわりしているから、こういった表情でもドキリとしてしまう。  ちょっと力がこもり過ぎだけどな。   「何よ。あなたが余計なことを言うからでしょ」 「いや、怒っているわけじゃないから」 「そ、それならいいのよ」  少し赤くなっていたらしい。幸い陽毬は勘違いしてくれたみたいだけど。    そこで俺は気が付く。  俺たちの様子を見守っていた牡丹が柔らかに目を細めていたことを。  その顔は儚く朧げなものではなく、自然なものに見えた。相変わらず表情の変化は少ないんだけど、こっちの顔の方がいいなと思う。  分かっているさ。彼女の過去が辛いものだってことは。  だけど、少しでもいい。彼女の本当の「顔」を見たいんだ。  上手く言えないけど……察してくれ。 「聞かせていただけますか?」 「はい。どこから語ればいいでしょうか」    そう言って長い睫毛を伏せ、小刀を胸に抱く牡丹。 「その小刀? は長十郎さんから?」 「はい。この小柄(こづか)は長十郎様が出立の際に私へ預けて下さったものです」 「そうだったんですか。桜の花びらと鈴が牡丹さんに似合っている、と思います」 「ありがとうございます。桜には特別な想いがありますので、そう言っていただけると嬉しいです」 「想い、ですか?」 「はい。桜は――」  牡丹は静かに語り始める。  長十郎は満開の桜の木の下に牡丹を誘う。舞い散る桜の花びらを眺めた後、長十郎は牡丹に結婚を申し込んだ。  彼がどれほど自分と婚儀を執り行うために奔走していたか知っていた牡丹は、涙し長十郎の胸に飛び込み涙する。 「『再び桜が満開になる頃、婚儀をあげようぞ』と長十郎様はおっしゃってくださったのです。どれほど嬉しかったか」 「そうだったんですか。それで桜の意匠が」 「長十郎様の粋な計らいです。その後すぐに、この小柄を私に託し、彼は隣国へ向かいました」 「長十郎さんの帰りを待っていたんですよね?」 「はい。お待ち申し上げておりました。ですが、その後すぐに隣国との戦が起こりました」 「それで長十郎さんが行方不明のまま……で?」 「それは、分かりません。私は……」  牡丹はそこで言葉を止め、顔を伏せる。  数十秒沈黙が続き、彼女はようやく顔を上げた。今にも泣き出しそうな顔で。   「私は肺の病に倒れ、夏を迎える頃に亡くなったのですから」 「……じゃ、じゃあ。長十郎さんの安否も知らないまま、そのままだったんですか!」 「はい。長十郎様のご武運を祈り、私は……病死したのです」  な、なんてことだ……。  長十郎と牡丹は互いが互いの無事と幸せを祈りつつ、亡くなってしまったってわけなのか。  その悲しみが原因で二人とも亡霊として彷徨っている。 「そんなことって……」  目を真っ赤にして陽毬がブンブンと首を左右に振った。  俺の手を痛いほど握りしめながら。   「長十郎様にお返ししたいと思ったのですが、この小柄を墓に入れてもらうよう頼んでしまいました。お許しください、長十郎様」  沈む俺たちに向けた言葉ではなく、牡丹はここにはおらぬ長十郎に向け謝罪する。 「そんなこと、長十郎さんは望んでなんかいません。彼ならきっと、小柄を持って行って欲しいと願うはずです」 「お優しいのですね。陽翔様は」 「お墓に入れたから、今もそうやって小柄が手元にあるのですよね?」 「分かりません。ですが、こうして小柄が今もここにあることはこの上ない幸せです」  牡丹は愛しそうに小柄からぶら下がる鈴を指先で撫でた。  幽霊になって、彼女に残された物は長十郎との思い出の小柄のみ。    ハッとしたように陽毬が伏せた顔をあげ、牡丹に尋ねる。彼女の顔には涙の跡が見えた。   「牡丹さん、鈴を鳴らしていたのって、桜が咲く時期だからですか?」 「お恥ずかしながら、未練だけで鈴を鳴らしておりました。桜が咲く時期に婚儀をとの未練から」 「そんなことないです!」  力強く背伸びまでして陽毬が大きく首を左右に振って彼女の言葉を否定する。  つまらなくなんかない。  彼女の想いは、純粋で真摯な願いだのだから。   「また、来ます。お話、聞かせてくれますか?」  陽毬が言葉を詰まらせながら、言葉を続けた。   「是非またお越しください。あなた様方とお話できて、とても心が和らぎました。こんな気持ち、久方ぶりです」  え? もう帰るの?  なんて思ったが、俺もまた気持ちの整理をつけたかったところでもある。    手を振り、牡丹と別れベンチの前まで進んだところで、今度は俺から立ち止まった。  陽毬はまだグズグズとしていたけど、そのまま俺へと顔を向けてくれる。 「どうしたの?」 「陽毬。あの二人を何とかして会わせたい」 「気が合うじゃない。私もそう思っていたところよ」 「何か方法があるか探ってみようぜ。図書館とかで調べたら何か分かるかな」 「単純ね。でも、いろいろ調べるには図書館は悪くないと思うわよ」 「おっし」  繋いでいない方の手を前に向けると、陽毬が俺の手をパシーンと叩く。 「やってやろうじゃないの」 「おう!」  お互い笑顔を向け、グッと拳を突き出す。  やるぞおお。  必ず、二人を合わせ、幸せの中、成仏してもらうんだ。 11.  小暮駅まで戻り、富丸商店横のファーストフード店に入る。もちろん、陽毬も一緒だ。  落ち着いて話ができるところと言えば、ここだよねってことでドリンク片手に二階にある窓際の席に座る。    ホットティーをひたすらにふーふーしている陽毬にクスリとしつつ、コーヒーを口に運ぶ。  ちょっと熱いが、これくらいがちょうどいい。 「方法を探る前に、一つ相談があるんだ」 「何、何。言ってみて」  ふーふーし過ぎて頬を赤く染めている陽毬が、顔をあげ目を輝かせる。 「長十郎さんに、牡丹さんと会ったことをしばらく黙っていた方がいいんじゃないかなって」 「なるほど! 驚かせちゃおうってことね!」  パンと手を叩き、グッと親指を前にやる陽毬。 「そそ。牡丹さんにも長十郎さんが幽霊になっていることを秘密にして」  彼女が乗り気なことで俺の頬も綻ぶ。 「いいわね。それ。二人を連れ出して合わせて、感動の再会! よね」 「うんうん」 「お互いが幽霊になっていることを隠しつつ、二人のことは聞かないとね」 「その辺はうまくこう、あれだ」 「あはは。もし知られちゃったらその時でいいじゃない」 「だな!」    ホットティーあらため、ぬるーくなった紅茶をごくりと飲み、陽毬は「んー」と息を吐く。  最初から常温とか、そういうのにした方がいいんじゃないか。ファーストフード店で常温の飲み物ってあったっけ?    なんて考えつつ、スマートフォンで「幽霊、移動」とかで検索してみる。  う、ううう。  怖-い画像が盛りだくさん出て来た。  ブルリと全身に寒気が……ホットコーヒーで体を温めよう。 「何を見ているの?」 「これ……」 「心霊現象なんて見ても、参考にならなさそうよ」 「そういうつもりで検索したわけじゃないんだけどなあ」 「殊更怖がらせるような画像や物語は、『見えない』人が作っているんでしょうね」  両手をひらひらと振るう陽毬に「なるほど」と膝を打つ。  霊だとかポルターガイストなんて言われるものと、俺の実体験には結構な乖離がある。  霊は移動できないし、物理的事象を及ぼすこともできない。  霊が現実の何かを触ろうとしてもすり抜けるし、写真に映ることだってないんだよ。  もし、写真に映るのだったら俺が既にスマートフォンで撮影しているさ。「聞こえる」ところにスマートフォンを向けたことは一度や二度じゃあないからな。    陽毬のこれまでの言葉から察するに、霊の声は録音することもできないはず。  彼女は「見える」のだから、何とかして声を聞きたいと試したはずだ。だけど、俺と手を繋いで初めて彼女は声を聞いた。   「うーん。とすると、どんな資料が役に立つのかなあ」 「そうね。昔話みたいな古くから伝わる伝承とか、習慣とか調べてみるとヒントになるかも」 「えっと、例えばお盆に先祖の霊が帰ってくるとかそんなんかな」 「そそ。その中には過去にいた『見える』『聞こえる』人から伝わったものもあると思うの」 「現代じゃあ、情報が多すぎて切り分けるのが難しそうだものな」 「そうね。過去の風習やお話を調べて、何も検討がつかなかったら手をつけてみましょう」 「その線で行くかあ」  お彼岸が本当に霊がやって来るのだとしたら、移動できているわけだし。  何か儀式を行うと、移動できたり……なんてこともあるかもしれない。  少なくとも誰かが面白がらせようとか、怖がらせようと思って伝わっている話ではないだろうから、何か掴めるかもしれないな。   「そうと決まれば、図書館に行くか」 「もう今日は閉館しているわよ」 「そっか……」  窓の外には夕焼け空が広がっている。結構閉館が早いんだな。 「長十郎さんにも会いたいし、時間が全然足りないなあ」 「そうね。あと四日で学校も始まることだし」  何気なしに言った陽毬の言葉にハッとする。  そ、そうだったあああ。 「学校……」 「陽翔はどこの学校なの?」  そういや、陽毬はどこの高校なんだろう。いや中学生かもしれない。 「ええっと、何だっけ、確か日暮高等学校だっけか」 「え? 同じじゃない! この春からなの?」  どうやら高校生だったらしい。 「そそ。引っ越ししてきたってのは覚えていてくれたんだな」 「当然よ。街を案内するって言ったじゃない。陽翔は何年なの?」 「今度三年になっちゃうよ……受験とか面倒だ」 「あら、年下だと思ってたけど、同じなのね」 「え、えええ!」  意外や意外。  俺と同じ歳だったのか……。  茫然としていたら、キッと目を細めた陽毬から鋭い突っ込みが入る。 「何よ、その顔」 「あ、いや。ほら、ええっと、陽毬はほら、可愛らしいというか」 「もう、子供っぽいって言うんでしょ。確かに背は低いし、顔もこんなんだけど……」 「いや、かなり可愛い方だと思うよ」  しまった。つい口を滑らせてしまった。   「な、な、何を」  予想以上に動揺し指先を震わせる陽毬。  彼女は首まで真っ赤にして、顔を伏せてしまった。   「あ、い、いや」 「冗談にしても、面と向かって言うことじゃないわよお。私、自覚あるんだから……」 「可愛いってことに?」  だあああ。  黙っておくべきところで、突っ込みを入れてしまった!  いやだってさ。押すな押すなと言われたら、押すだろ。汚い、そんな誘導尋問に引っかかる俺では……いや、引っかかてんだけどね。  それにしても、陽毬の動きがいろいろやばい。  ふわふわな髪に手を突っ込み、ブルブルと左右に首を振っている。頭から湯気が出そうな勢いだ。  普段の凛とした態度の彼女と裏腹な仕草に不覚にも心臓が高鳴ってしまう。   「冗談でも悶えている自分にますます悶えるわ……。分かっているの。私に女の子ぽい魅力なんてないって」 「そんなこと……あ、いや」 「あなただって、私が中学生くらいと思っていたでしょ?」 「そ、それは……」  否定できないから、言葉を濁してしまう。  「ほらね」とばかりに彼女はようやく顔をあげ、何故かほっとしたように眉尻を下げた。   「幼くて可愛らしいってことよね……私としたことがつい」 「それは違う!」 「もう……嘘でも嬉しいわよ」  これ以上言っても彼女は理解を示そうとしてくれないか。  俺は彼女が子供として可愛いと思ったわけじゃあないんだけどなあ。じゃないと、こう事あるごとにドキドキしたりなんてしないさ。  いかん。彼女と急接近した時のあのいい香りを思い出して……またドキリと。   「そ、そうだあ。ほら、図書館が閉館しているなら長十郎さんに会いに行こうぜ」  あからさまな話題転換に棒読みになってしまった。  だけど、陽毬は小さくため息をついて、笑顔を見せる。 「誤魔化したわね。まあいいわ。乗ってあげる」 「ははは」 「あはははは。陽翔はほんと分かりやすくて面白いわね。嫌いじゃないわよ。そんなあなた」  ニヤっと悪そうな笑みを浮かべたつもりだろうが、陽毬がやると逆に可愛らしくなるな……。 「……仕返しかよ……」 「さあ、どうかしら。本気で言っているのかもね」 「ち、ちくしょう」  いじるんじゃあなかった。逆に手ひどい反撃をもらってしまったよ。 「そうと決まれば行きましょう」 「おう!」  ファーストフード店を出て、一路、長十郎の元へ向かう俺たち。   12.  長十郎の元へ行ったものの、時間が遅かったこともあってあまり会話できずに帰路につく。 「じゃあ、また明日ね」  T字路を左手に行くと俺の家がある方向。陽毬は右手だ。  そんなわけで、このT字路で彼女と昨日もバイバイをしたってわけ。 「おう。またな」 「うん」  素っ気ない言葉だったけど、それとは裏腹に彼女は顔にくっつくくらい近くに手を寄せ小さく左右に振っていた。  俺も彼女に向け雑に手をひらひらとし、左側の道へと体の向きを変える。   「絶対、見つけようね」  後ろから彼女の決意に満ちた声が聞こえた。   「うん。せめて最期だけでも二人には幸せな気分になってもらいたいものな」  立ち止まり、彼女へ言葉を返す。 「よっし! 図書館でね」 「おう!」  振り向かぬまま、気合が入ったところで本日は解散となった。    ◇◇◇    カレーライスはおいしいなあ。うん、外れがないというか、しばらくカレーライスでもいいくらいだ。  今日は豪勢にカツまで乗っているし。  うめえ。うめえ……。  珍しく食卓に集まった家族とは目も合わせず、一心不乱にカレーライスの乗った皿に集中する。    ダイニングテーブルってさ、なんとなくだけど自分の座る位置が決まってない?  我が家はだいたい座る席が決まっているんだよね。  キッチンとT字になるようにダイニングテーブルが置かれているんだけど、キッチン側に父さんと母さんが向い合せに座っていて、俺が父さんの隣で妹が母さんの隣だ。  え? 何でいきなりダイニングテーブルの説明なんて始めちゃったのって?  別にいいだろ、そんなもの。   「へえ。お兄ちゃんにもついに」  妹の真奈(まな)がスマートフォン片手に嬉しそうに口元に手をやる。  目元と口元のニヤニヤ具合が隠せていないぞ。  そんなことより、カレーライスを食べるといい。冷めちゃうぞ。 「そうなのよお。この子ったら、帰って来るなりニヤニヤしちゃってねえ」 「ほおほお。そうかそうか。陽翔。いつでもいいぞ。家に連れてきても」  母さん、父さん。俺のことは放っておいてくれ。 「ねえねえ。写真見せてよ!」  真奈がほらほらーと手を前に出してくる。 「無いって。だいたい、何でそういう話になってんだよ」    吹き出しそうになったじゃないかよ。  どこでどうなったら、か、彼女とか言う話になるんだ?  俺が珍しく昨日に引き続き嬉しそうな顔して帰ってきたとか、母さんが言い始めて。 「えー、だってえ。お母さんがさあ」 「私の直観が語っているわ。陽翔に女の子の友達ができたって」 「昨日から出かけていたのは事実だけど……、飛躍し過ぎていないか……」  ダ、ダメだ。この家族。  スプーンを動かす速度をあげ、もしゃもしゃと咀嚼する。  ぐう。喉に詰まった。   「はい。水」 「さ、さんきゅ」  真奈が水の入ったコップを手渡してくれる。  その時、ポケットに入れたスマートフォンがブルブルと震えた。   「お。おお。お兄ちゃんのスマホが動いた!」  心底驚いたように手を叩かないでくれるかなあ。  本当に失礼な奴だ。俺のスマートフォンだってちゃんと通知くらいくるんだからな。 「お、俺のスマホだってちゃんと動くわ」  抗議の声をあげると、すかさず妹が切り返してくる。 「あ、彼女さんからかなあ」 「ちゃ、ちゃうわ。ほらあるだろ、ゲームの通知やらが」  自分で言っていて悲しい事実を伝えてしまった。  そうだよ。碌にラインのお友達登録なんて無いし、メールが届くことだってないさ。  いや、メールもあれだなショッピングサイトから来たり……。 「そっか。そうだよね。だけどさあ。こんな中途半端な時間にアプリの通知が来るのかなあ」  ちょ、俺のポケットへ手を伸ばしてくるんじゃない。  伸ばした妹の手を払いのけ、シッシと手を振る。    ◇◇◇    食べたら、即二階の自室へ引きこもった。  全くもう……。  ぶすーっと苦笑してしまうが、ベッドに寝転がったところで昔のことを思い出し「まあ。いいか」と気分が変わる。  小さい頃は俺が「聞こえる」ことで家族に随分と心配させてしまったものな。  こうして、冗談が言い合えて団らんできるようになったのも、父さん、母さん、真奈が俺のためにいろいろやってくれたおかげだ。  さっきのは冗談だよな? そうだよな?    ……。思考が横にそれてしまったけど、そうはいっても弄られるのは余り好きじゃあないんだ。  た、確かに陽毬は可愛いけど、要らぬ詮索はよしてもらいたい。  と言いつつもニヤつきを抑えられずスマートフォンの画面を覗き込む俺。    通知は予想通り陽毬からだった。  むしろ、陽毬以外からラインの通知が来ることは家族以外無い。  か、悲しくなんて無いんだからね。   『今日もいろいろありがとう。明日もよろしくね』    陽毬からのメッセージに 『こちらこそ、ありがとう』  と返信する。    お互いに素っ気ないけど、俺たちらしい。  ん、陽毬から返信が来た。   『陽翔の家はどの辺なの?』 『別れた道をそのまま五分ほど真っ直ぐいったところだよ』 『へえ。すぐだったのね』 『そうそう。陽毬は?』 『私もそう遠くないわ。別れた時点から徒歩で十分以内ってところよ』 『そっか。結構、家近いんだな』 『そうね。同じ街だし、そんなものよ』 『そんなものか』 『うん。でも、近くで嬉しいわ』  そ、それって。  一人悶える。俺であったが、続く陽毬のメッセージでベッドから落ちそうになった。 『長十郎さんに会うのにすぐ呼び出せるしね』 『そうだな』  ですよねえ。  近ければ気軽に長十郎にも牡丹にも会いに行ける。  ははは。 「陽翔。次、お風呂入りなさい」  階下から母さんが俺を呼ぶ声が聞こえてくる。   「へーい。すぐ行く」  ◇◇◇    ――ピンポーン。  こんな朝早くから宅配かなあ。  歯磨きをしていた俺の耳に呼び鈴の音が届く。  時刻は朝の八時半過ぎってところ。宅配にしては少し早いかも。   「はあい」    ちょうど出かけようとしていた妹が玄関の扉を開く。 「おはようございます。突然すいません」 「いえー。わざわざありがとうございます。ご挨拶もできず」  来客か。若い女の子の声みたいだけど、どっかで聞いたことがある気が……。  ご挨拶周りをした近所の人が、わざわざお礼でも言いに来てくれたのかな。  妹と近い年齢だったら、ご近所さん友達ができるのかもしれない。   「お兄ちゃん。お客さんだよお」 「え? 俺に?」  洗面所までわざわざ来てから俺に告げる妹の顔が、何やら不穏だ。  ま、まさか。  やっぱりあの声って。    慌てて口をゆすいで玄関口に行くと……立っていたのは陽毬だった。 「おはよう。陽翔。来ちゃった」  てへっと可愛らしく舌を出す陽毬は昨日となんだか雰囲気が少し違う。 「ま、待ち合わせなら……あ、昨日のうちにどこに何時か決めてなかったな」 「そうなのよ。それで、朝にラインしても陽翔は見てないでしょ」 「俺だって見る……いや、ごめん。来てくれて助かった」  昨日の陽毬の「おはよう。ちゃんと来れたじゃない。ラインが来なかったから寝てるかもって思ったわよ」って言葉を思い出して、まあ納得な判断だと理解した。  ちゃんと昨日のうちに場所と時間を決めておきゃあよかったよお。  後ろの妹の視線を感じるし……。   「そちらは妹さんかしら?」 「うん、妹の真奈だよ」 「真奈です。陽翔の妹やってます」  なんだよその説明。 「はじめまして。私は向井陽毬(むかい ひまり)。よろしくね」 「はい。こちらこそ。陽毬さんは兄と」 「い、行こう。向井さん」  余計なことを喋りそうになった妹の言葉を遮り、陽毬を外へ行くよう促した。     13. 「可愛い妹さんじゃないの。真奈ちゃんだったかしら」 「可愛いか……あれが……」 「モテそうよ。あなたの妹」 「そ、そうかなあ」  外に出てから、なんか陽毬がつんけんしている気がする。 「陽毬。何か気に障ることがあった?」 「別に。何もないわ。図書館は9時からよ。ゆっくり歩いて行っても大丈夫よ」  少し、機嫌が戻った気がする。  あ、そういうことか。   「ごめん。妹の前だったから、名前で呼ぶと後からこう……な」 「そう言う事ね。少し……心配しちゃったんだから。突然押しかけて来て、あなたが気を悪くしちゃったんじゃないかって」 「そんなことない。来てくれて嬉しかったよ。時間も言ってなかったし、図書館の場所も分からないしさ」 「そ、そう。それならいいのよ」  手を差し出してくる陽毬。  家の近くってことで少し戸惑うが、彼女の手をしっかりと握る。  うっすらと彼女の口元があがり――あれ、唇の色がいつもと違う気が。  ピンク色がかっていて太陽の光の動きと共にキラキラと光っているような……ラメかな。  それだけじゃあない。頬もピンクがかっていて、年齢より幼く見える彼女の顔がより可愛らしく魅力的に見え――。   「何? 何か顔についてる?」    しまった。しげしげと見つめ過ぎたか。   「あ、いや。な、何でもない」 「その顔、何か隠しているでしょ!」 「近い、近いって」  覗き込む俺に対し、彼女は背伸びして自分の頭をあげてくる。  彼女の息が俺の顔に当たるほどだ。  慌てて顔を逸らしたけど、自分でもわかるくらいに頬が熱い。  彼女は彼女でポーチのがま口を開けようとしているが、片手だとうまくいかない様子。   「だ、大丈夫だって。何もついてないし、汚れてもいないから」 「そ、そう?」  その顔、まだ疑っているなあ。  し、しかし、さっきからぷるんと瑞々しい唇に目が行って仕方ない。さっき、当たりそうに。   「口に何かあるのね」 「いや、その、口紅? ルージュ? が」 「リップよ。陽翔もつける?」 「待て。さすがに俺は」  俺から手を離した彼女はバックからピンクのラメ入りが見える透明なチューブを取り出す。  あれがリップか。そういや、妹がそんなのを机の上に置きっぱなしにしていた気がする。  ほう、指先に出して、そのまま唇にひんやりとした小さな指先が。   「だああ」 「こら、喋らない。カサカサになっているわよ。リップくらいしたらどう?」 「こ、このリップはいろいろやばくないか。俺が塗るのは」  嫌がる俺に対し、あははと腹を抱えて笑う。  堪え切れないのか口元を指先で塞いでいるけど、笑いが止まらないみたいだった。  あ、あの指先、さっき俺の唇に。  ぶんぶんと首を振って、熱くなった自分の熱を逃がす。   「さあ、私だって使うのが初めてだし、まあいいんじゃない?」 「ん? そうなの?」  普段から使っているんじゃないのか? それとも前使っていたのが無くなって新しい色を選んだとか。  首を捻っていたら、陽毬がポンと手を打つ。 「あ、そういうことね。やっと分かったわ」 「え? 何が?」 「あなたが、そ、その。私の顔を嫌らしく見ていた理由よ」 「い、嫌らしく見てなんてないわ!」 「あはは」  お、俺の肩を掴んでまで笑い転げなくても。  彼女はさっきからずっと笑っているなあ。でも、笑っている顔の方が可愛いから良し。  子供っぽく見えるからって、最初は控えていたのかな?  あ、あああああ。  そういうことか。 「陽毬は陽毬だよ。ピンクのリップを塗ろうが、塗るまいがね」 「何よお。それ。ちょっとだけ頑張ったんだから」 「た、確かに。今日は少しドキッとした」 「ほんと? 色っぽい?」 「いや、それはちょっと……」 「そ、そう……」 「あ、ああいや、どっちでも可愛いから大丈夫だって」 「またそうやって!」  ツーンと横を向いてしまった彼女だったが、手だけは俺から離さない。   「い、行こう。立ち止まっていたら遅くなる」  ようやく再び歩き始める俺たちであった。    ◇◇◇    街の図書館はそれなりの規模があって、少し驚く。  図書館は三階建ての四角い建物で、駐輪場も広い。100台は余裕で駐輪できるんじゃないだろうか。  駐車場もあるけど、こちらは15台ほどしか停めるスペースがなくて、「徒歩か自転車で来てください」と暗に言っているかのようだった。   「ま、まだ手を繋いでいる必要があるだろうか……」 「私と手を繋ぐのは……嫌?」  上目遣いで眉尻を下げられたら何も言えなくなっちゃうじゃないか。  で、でもさ。  ここ図書館の入り口。人通りは無いけど、いいのか?   「お、俺は構わないというか、むしろ、こう」 「あはは。私のことを心配してくれた?」 「え、まあ、うん」  俺たちも高校三年になるわけだし、図書館でお勉強をしている同級生がいてもおかしくない。  小暮高校の最寄り駅はその名の通り小暮駅だからな。つまり、俺の家の最寄り駅でもある。  だからこう、ここで陽毬のお友達にばったんこしても不思議じゃあない。   「別に私は気にしないから、それに」  手を離し、その場でくるりと一回転してグイっと顔を寄せてくる陽毬。  彼女はいつの間にかしっかりと俺の手を再び握っている。 「それに……」 「見つかっちゃっても、『彼氏』ですって言えばいいんじゃない」  可愛らしく舌を出す陽毬だったが、こいつはああ。完全に俺をからかってやがる。 「……ちょ、ま」  分かっているのに、言葉が詰まり真っ赤になってしまう情けない俺だったが……。 「赤くなっちゃって。あれ? まんざらでもなかったりする?」 「ち、違うわ!」  息が首に……。 「街を歩くときは、手を繋いでいたいな。あなたもそうじゃない?」 「ま、まあ。うん」 「でしょでしょ。霊の声が聞こえて、見える。慣れ親しんだ街だけど、とっても新鮮」 「お、俺はまあ、引っ越してきたばかりだから、全部新鮮だけどな」 「確かにそうね。私だけ浮かれちゃってた?」 「いや、俺も結構浮かれているよ」 「そう」    そっけない言葉とは裏腹に陽毬がにへえっと表情を崩す。  屈託のない彼女の笑みが俺にはとても眩しく映る。  俺はワザと、彼女にミスリードを誘った。  嘘はついていないんだけど彼女と事情はことなるんだ。俺は確かに彼女と手を繋ぎたいし、浮かれている。  だけどそれは、霊に関することじゃあなくて君だからだよ。  なあんて、口が裂けても言えるものか。  陽毬と会ってから、「声」への嫌悪感が薄れてきたと思う。  長十郎と牡丹の二人については、むしろ親しみを持っていることも事実だ。    っと。  手を引っ張るなって。   「ぼーっとしていないで、行くわよ」 「へいへい」  入口の自動扉が開く音と同時に、犬か狼の遠吠えも耳に届く。  後者が霊であることは確実だ。  「ねね。聞こえた?」って感じで陽毬が嬉しそうに俺に目線を送ってくる。  やれやれと苦笑し、頷きを返す俺であった。 14.  図書館の中央の席に陣取って、片っ端から本を取り出し机の上に乗せて行く。  これはどうかなあ……ま、いいか。これも追加っと。  数冊持って席に戻ると、陽毬が落としそうなほど本を積み上げて慎重に歩いている姿が目に留まる。  あ、あれは落とすだろ!  往復すりゃいいだけなのに。   「全く……」  自分お持ってきた本を席に置き、彼女を手助けしようと彼女の元へ向かう。   「あ」  しかし、間に合わなかった。  彼女の手から一冊の本がバランスを崩して落ちたかと思うと、雪崩のように残りの本も。  それでも彼女は何とか本が落下するのを押しとどめようと前のめりに。  いやそれじゃあ、落ちるだろ。 「っと」  一冊の本をキャッチしたまではよかった。 「きゃ」  前から押され、そのまま後ろ向きに尻餅をついてしまう。  その上から彼女が覆いかぶさるように。  ほ、本が間にあるから胸には触れていないが……。 「ご、ごめん」  陽毬が伏せた体を起こし、ペタンと座った姿勢になる。   「う、上に……」 「怪我はない?」 「お、おう。陽毬は大丈夫か?」 「ええ。私は平気よ。本も私とあなたの体がクッションになったし」  陽毬はスカートの上に落ちた本を拾い上げて俺に見せる。  その、スカートの下は俺の腰辺りが……。  目線に気が付いたのか、陽毬は本を抱え立ち上がろうとして……あ、無理だよな。やっぱ。  振り子のように勢いをつければ立てるけど、本もあるし俺の体を押さないようにとなると、手をついて立たないと立てないだろ。   「本を預かる」 「ありがと」  右手を床について立ち上がった陽毬は、今度は俺が預かった本のうち半分ほどを受け取る。 「集めるのはこれくらいにして、調べようか」 「そうね」  むっさ動揺した俺に比べて陽毬は涼しい顔をしていた。  何だか俺だけが恥ずかしがってドキッして、ちょっと悔しい。    彼女は無表情のまま席に座るなり、本を開く。  だけど、それ反対側向いてるぞ。  なるほど、顔には出さないけど、あはは。   「何?」 「いや、何でも」 「……まさか自分が漫画のドジっ子みたいなことをするなんて……不覚だわ」 「生きていりゃそんなこともあるさ」 「あなたに諭されるなんて、はああ」  そっちか。そっちで動揺していたのかよ。  いいやもう。  頑張って、資料を漁るぞ。    ◇◇◇    和洋問わず、いろんな祭事があるもんだなあ。  伝統的なお祭りの多くは神様か先祖の霊と関わりがあることが多いことが分かった。  これ以外となると、豊穣を願うってのが割にあったけど、これも神様への祈りだものな。    対象が神様のものは全て排除して……先祖の霊も対象が個人に絞られていないものは今回の目的と関係がない。 「そっちはどう?」    一息ついたのか、陽毬が顔をあげ問いかけてくる。 「うーん。霊を呼び出す系のお話になると途端に胡散臭くなるんだよなあ。かといって祭事は対象が『地域』であって『個人』じゃあない」 「そうね。お彼岸とかに先祖の霊が還ってくるとかはあるけど、霊を呼び出すとなると『降霊術』『イタコ』などあるわね」  降霊術ねえ。いくつか文献を漁ったけど99パーセントが「こらあかん」といったものだった。なら、残り1パーセントを利用できないかと思うだろう。  だけど、1パーセントってのは俺の願望だ。  何十冊と漁ったけど、未だにその1パーセントは発見できていない。  これに比べれば、まだ「イタコ」の方が対象が絞られていて、試すにはいいのかもしれん……。  イタコ、または口寄せの本は、本人または呼び出したい人を通じて、その人の「知り合いの霊」を呼ぶ方法が記載されている。  特筆すべきは、「自分の体に霊を降ろす」ってところだな。媒体が魔法陣やら祭壇じゃあないから、自由に動くことができる。   「んー。俺が見たものだと、お盆の時に『霊の道』を作って、そこに霊を導くってのかなあ」 「それができるなら、長十郎さんと牡丹さんが『歩いて』、お互い出会うことができるわね」 「口寄せにしても道を作るにしても、問題がある」 「そうね……」 「数が多すぎる」 「種類が多すぎるのよ」     陽毬と俺の声が重なって、ため息まで同じタイミングで出てしまった。  はああっと机に突っ伏し、俺の体と手に押された本が動く。  動いた本が押し返されてきた!  彼女も俺と同じように机にべたーっとしてしまったからだ。  大人げなく本を押し合いしてしまうが、すぐにその動きはとまる。   「やるしかないわね。少しでも可能性があるなら、試してみましょう」 「だな。幸い、時間はたっぷりある」  長十郎と牡丹は霊になってから、長い時を過ごしているのだから。  今更、すぐに消えてしまうこともないだろう。  だけど、できることなら桜が咲いているうちに合わせてあげたい。  来年の春……でもいいんだけど、俺はともかく陽毬が進学でここからいなくなるかもしれないものな……。  となれば、あと二週間、できれば桜が満開になる一週間後までには解決の糸口を掴みたいものだ。   「相談なんだけど、来週末くらいまでは根詰めてやらない?」 「俺も同じことを考えていたよ」  すっと陽毬が右手を上にあげた。  対する俺は、彼女の右手をパンと叩く。  パシーンといい音が響き、図書館の他のお客さんたちの目線が俺たちに。  す、すいません。ここでハイタッチはまずかったよな。  内心で謝罪しつつも、陽毬と目を合わせ頷き合う。   「やってやろうじゃないの」 「だな!」  パンと頬を叩き、気合を入れ直す。  さてと、全部メモして必要な道具を集めないとな。    夕方まで調査とメモ取りをした俺たちは、100円ショップに向かい使えそうなアイテムを購入する。  足らないものも、ホームセンターに行けば集まりそうだ。    ――その日の夜。  家に帰り着く頃には、明日のことで頭がいっぱいになっていて、さ。今朝起きたことをすっかり忘れていた。  家族が何やら盛り上がっているじゃあないか。いや、父さんはまだ帰宅していないから、母さんと妹の二人だな。  リビングに顔を出すなり、母さんがちょいちょいと手招きしてくる。  うわあ。ゲスイ顔をしているなあ。ここは自室へ退避した方がよさそうだ。   「見たわよお。陽翔。可愛い子じゃないのお」  後ろから母さんの声。  うわああ。そうだった。そうだったよ!  朝に陽毬と妹の真奈が顔を合わせていたんだ。母さんはその場にいあわせなかったはずだが。   「真奈。(陽毬の)写真を撮ったな!」 「陽毬さん、別に嫌がらなかったよ」  真奈はソファーに寝そべってスマートフォンから目を離さぬまま、しれっとのたまう。 「陽毬めええ」  そこは断るか俺に伝えろよおお。  恨みがましく声を出すと、すぐさま真奈から鋭い切り返しがくる。 「あああ。下の名前で呼んでいるんだあ。やーらしー」 「ちょ! 真奈が向井さんを陽毬って呼んだからつられただけだろ」 「へええ。その割には慣れていたねえ。きしし」  きいいいいいい。  この策士めええ。 「陽翔。陽毬ちゃんは年下? どこでナンパしたのお?」 「黙秘します」  寄って来る母さんをシッシと追い払い。  リビングから出ようとしたところで、立ち止まり、   「同じ歳だよ」  とだけ母さんに向け、言葉を返した。  陽毬が気にするからな。そこだけはちゃんと伝えておかないと。 15.  ベッドに寝ころんだところで、とあることに気が付いた。  俺……陽毬の写真一つとってないじゃないか。真奈はちゃっかりパシャリとしていたというのに。  ならば、やるしかない。  陽毬をスマートフォンでパシャリ大作戦を決行するのだ。  ど、どうやって……。ま、待て。いざやるとなると手が浮かばない。  ゴロゴロとベッドを寝転がるが、もちろん何もいいアイデアなんぞ浮かんでこなかった。    この悶々とした気持ちは、そうだな。  おもむろにスマートフォンを握りしめ、勢いよくタップする。 「だああああ。20回やって全部コモンとかありえねえ。SSRとは言わない、せめてSRの一つくらい出てくれよ……」  ますます激しくベッドを転がり――落ちた。 「痛てええ」  したたかに後頭部を打ち付け、別の意味で悶えていると隣の部屋から声だけが響く。   「お兄ちゃん。陽毬さんのことで盛り上がるのは分かるけど、暴れすぎ」 「ち、違うわ。陽毬のことじゃないわ!」 「へえ。やっぱり名前で呼んでいるんだあ」  壁越しだが、妹が今どんな表情を浮かべているのかありありと分かる。  もういい、寝よう。  スマートフォンを放り投げたところで、ブルブルと震える。   『明日は駅前に9時よ』  陽毬らしい余計な装飾が一切ない文面にくすりとした。   『分かってるって』  返信し、今度こそ寝る俺であった。    ◇◇◇ 「ちょ、ちょっと多すぎないか……」 「備えあれば憂いなしよ!」  元気に返事をする陽毬だったが、両手に抱えた荷物でよろけているぞ。  彼女の小さな体には酷だと思う。  俺たちは駅前で集合して、ホームセンターに行った後、自転車置き場まで戻っている。  彼女の荷物を持ってあげたいんだけど、俺の手には彼女以上の荷物が。  でも、すぐそこだし。    両手で持った大きな買い物袋を片手で持ち直し、彼女の手から買い物袋を一つひょいっと取り上げる。 「もう一個もここに乗せてくれ」 「え、でも、そんなひょろっとしているのに」 「大丈夫だって。これでも一応、男だしな」 「頼もしい!」 「こ、こら」  その空いた手は俺の背中をパーンするために空けたものじゃあない。  よ、よろけるからな。容赦なくよたるからなあ。   「あはは」 「あ、危なかった」  右方向へ倒れそうになった俺に対し、彼女が背中で俺の体を支える。  ぐぐっと押し戻してくれたことで元の体勢になることができた。 「ありがとう。男らしかったよ」  自転車の前に荷物を置いた後、上目遣いでそんなことをのたまってくる彼女。  なんでもそうやってお色気目線を送れば俺が騙されると思ったら大間違いだ。   「男らしいなんて思ってないだろ」 「えー。そんなことないわよー?」  陽毬は尾てい骨辺りに両手をやり、ワザとらしく左右に体を揺する。  そんなあからさまに嘘でーすって言わんでも。   「ま、まあいい。荷物を乗せるぜ」    荷物を取ろうと体を前かがみにし、手を伸ばす。 「男らしいはともかく、『ありがとう』ってのは本当よ」  そんな俺の耳元に彼女が口を寄せ、囁いた。 「お、おう」 「照れてる」 「照れてないわあ」  感謝の気持ちで顔を赤くしたんじゃあない。  陽毬が不意に急接近したことで、ほら、な。分かるだろ?  彼女から顔を背け、いそいそと荷物を自転車のカゴに乗せて行く。  うん、入らない。  入らない分はハンドルに引っかけてっと。よし、これでおっけーだ。   「一旦これを、長十郎さんのところまで運ぼうか」 「そうね。その後、私は家に戻って昨日買った物を持ってくるわね」 「頼んだ」 「頼まれたわ」  二人並んで自転車を漕ぎ始めた。  荷物が満載でなかなかバランスがシビアだが、まあ、何とかなるだろ。    ◇◇◇   「これで最後よ」  お堂の裏手に並べた沢山の荷物に並べるように陽毬が手に持った買い物袋を置く。   「よおし、終わった」  ふうと息を吐き、その場で腰を降ろす。  彼女も疲れていたようで、俺の隣にペタンと座った。  どちらともなく手を伸ばし、彼女と手を繋ぐ。  ようやく俺も彼女と手を繋ぐことに慣れてきた。  いちいちドキドキなんてしていられないからな……いや、正直に言うと今でも自分から手を繋ぐと少しドキッとする。  ひんやりとした彼女の小さな手が、どうにもこう。 「お主ら、よくもまあそれだけの品物を持ち込んだものだな」  長十郎は腕を組んだまま感心したように、うむうむと頷く。彼の声に合わせるかのように隼丸もひひんと嘶いた。  荷物を全て降ろすなり、お堂の裏まで全て運び込んだんだ。  長十郎はこれから何をするのだろうと興味深々の様子。    さてと。準備は整ったぞ。  陽毬と目を合わせ、頷き合う。  だけど、まだ息があがっていて何ともこうにも。   「す、少し待ってください」    と長十郎に言うが彼は―― 「某はお主らが来てくれるだけで愉快なのだ。待てとは退屈なことであろう? 某にとってはお主らの前で待つことなど有り得ぬよ」  なんて返してカラカラと本当に楽しそうに笑うのだ。  懐に右手を突っ込み、腹を抑えて笑う彼の姿にくるものがある。  彼はここでどれだけ一人ぼっちで過ごしてきたのだろうか。戦争があったというから、江戸時代より前からなのかな。 「長十郎さんの時代は、誰が天下を取っていたのですか?」  ふと聞いてみたくなった。彼の生きた時代の歴史を。   「そうさの。天下か……難しい。ここは京より遠方だ」 「京に足利家がいたり?」 「室町様はおられたがいい噂は聞かなかった。お、そうそう。上総介(かずさのすけ)様が最も勢いがあるという話がこちらにまで届いておった。私のところまで噂が来るのだ。天下に近いのだろう」  誰だそれ?  足利将軍なら俺でも知っているけど、上総介ってのが誰だかとんと想像がつかない。  室町時代かその後の戦国時代辺りだろうか。  首を傾けていると、陽毬がポンと膝を打つ。   「上総介ってことは戦国時代ね」 「そうなの?」 「うん。あなたでも織田信長と言えば分かるかしら?」 「それくらいなら、日本史を選択していない俺でも分かる!」  そうかあ。織田信長が活躍していた時代だったんだな。   「それで、上総介って誰なんだろ? 有名な人?」 「ちょ、ちょっとあなた……今ので分からないの?」 「え、あ、うん」 「上総介が織田信長よ」 「え、えええ! 違う名前じゃないか」 「いろいろ呼び名があるのよ」  そんなあからさまにガッカリしたように胡乱な目で見つめないで欲しいぜ……。  上総介って聞いてピンとくる陽毬の知識がすごいだけなんだ。俺は決して物を知らないわけじゃあない。  うんうん。 「長十郎さん、長十郎さんのところのお殿様の家紋って何だったんですか?」  お、おおおい。  陽毬。俺についていけないお話をはじめてしまったな。  家紋の質問をして、どこの家かとか分かるのか? 「平四つ目結(ひらよつめゆい)でござる。かつては大勢力を築いておったのだが、防衛の最中、大殿が亡くなり……」 「なるほど。ありがとう。長十郎さん」  合点がいったように可愛らしく頷いている陽毬。  もちろん俺には全く意味が分からない。ははは。 「もしかして今ので分かったの?」 「ええ。長十郎さんは尼子家に連なる人だったみたいね」 「そ、そうなのか。それって素直に殿様の名前を聞けばいいだけじゃあ……」 「……ま、まあいいじゃない。分かったんだから」  そう言って目が泳ぐ陽毬なのであった。 16. 「さてと」  これ以上踏み込むのは危険と判断した俺はよっこらせっと立ち上がる。  息も落ち着いてきたことだし、そろそろはじめるとしようか。  俺が立ち上がると、手を繋いだ彼女の引っ張られるように腰をあげることになる。   「まず何から試そうかしら」 「派手なのからやってみよう」 「ふっ……」 「何だよお」  似合わない顔しやがってえ。口を子供っぽくすぼめても……やべえ、可愛いかもしれん。 「子供(ガキ)ねえ」 「い、いいじゃないかよ。長十郎さんだって、喜んでくれると思うし?」  言い合っていると、長十郎が口を挟んでくる。   「して、そなたら何をしようとしておるのだ?」  もっともな質問だ。  一番肝心なことが抜けていたぞ。   「えっとですね。長十郎さん、散歩したいとか思いません?」 「いつも思っておるよ。ここから動くことができればどれほどのものか、外の様子を見ることも叶わぬからな」 「何とかできないかなと思って、いろいろ持ってきたんです」 「誠か。それは……かたじけない」 「うまく行くか分かりませんが……」 「良い良い。お気に召されるな。そなたらの心意義に某、いたく感動いたした」  カラカラと頭に手をやり首を振る長十郎は、はやる気持ちを抑えきれない様子だった。  彼を見ていたら俄然やる気が出て来たぞ。    まずは、これだ!  買い物袋から取り出したるは小さな円柱の缶。缶コーヒーの小さいサイズの半分くらいだ。  蓋を開けて、外側の透明容器にペットボトルから水を少し垂らして準備は完了と超簡単。あとはこの缶を透明容器に戻せばよい。 「陽毬」 「持ったわよ」  陽毬は100均でかった小さなアクリルボールに糸を通し繋げたアイテムを握りしめて上に掲げる。  数珠に見立てたんだけど、それっぽく見えるから良しだろ。なかなかうまくできていると思う。   「じゃあ、行くぞ」  小さな缶を透明容器に浸す。  すぐにしゅうううっという音が鳴り、勢いよく煙が噴き出した。  もわもわもわと煙が長十郎を包み込む。  煙がむせたのか目に涙を浮かべつつも、陽毬が長十郎の後ろに立つ。   「い、移動できますか? 長十郎さん」  陽毬が聞くが、長十郎は首を横に振る。  だ、ダメかあ。  霊の道をつくる方法の一つだったんだけど、時期が悪いのかやり方が不味かったのかは不明。   「こ、これならどうですか?」  煙の種類を変えてみることにした俺は、線香に火をつけ長十郎へ向ける。  んー。線香の匂いって何だか落ち着かないか? かぐとこう心が休まるというか。  しかし、長十郎は無言でまたしても首を横に振る。    うーん。  道を作るのは難しそうだ。そもそも、煙だと行きたい方向へ上手く移動できないだろうし。  なら、発想を変えたこっちだな。    100均で購入したおもちゃの太鼓と段ボール箱(ホームセンター産)を用意する。  俺が太鼓をぽんぽこ叩き、長十郎に段ボール箱へ入ってもらう。  両足で立つ侍の足元が段ボール箱とは……なかなか酷い絵面だが、そこへ陽毬が赤インクを垂らす。  ぽたぽた……。しかし何も起こらない。   「これもダメか」 「そのようでござるな」  腕を組み渋い顔をする長十郎だったが、足元は段ボール箱のままである。  いたたまれなくなり、長十郎の足元にある段ボール箱をそっと動かす。  すると、何ら抵抗がなく彼の脚を段ボール箱がすり抜けた。  やっぱり、彼は亡霊なんだなと実感してしまう。  彼は何にも触れることができない。彼は時折、杉の木へ手をやる仕草を見せるけど実際には杉の木には触れていないんだ。  触れると手が杉の木にめり込んでしまうのだから。   「長十郎さん、これに手を触れてみてください」  まだだ。まだ終わらんぞ。  買い物袋から藁を束ね人型にした人形みたいな何か(自作)を、長十郎へ向ける。  彼は不気味なそれに躊躇することなく手を触れた。  しかし、やはりというか何というか彼の手は人形みたいな何かをすり抜けてしまった。    この後、いろんな物に触れてもらうが、全て意図した結果にはならず……。   「うーん。そう簡単にはいかないか」 「これは何を意図したものでござるか?」 「うまく行けば、物に長十郎さんが憑依して、俺たちが運ぶって感じで一緒に移動できるようにってものです」 「ほうほう。依り代みたいなものか。陰陽師みたいだの。お主ら」 「ははは。陰陽師みたくカッコよくとはいかなかったですけど……」 「いやいや。なんのなんの。そなたらは存分に粋であったぞ」  長十郎はそう言って褒めてくれるが、試した内容が内容だけに乾いた笑いしか出てこないぜ。  陽毬もあちゃーっと口元に手を当てているし、結果は散々ってところだな。  もう一つ、試しておこう。   「長十郎さん、手に触れてもいいですか?」 「もちろんだとも」  右手を差し出す長十郎の手を握ろうとするが、やはりすかっとすり抜けてしまった。  俺に憑依できたらなあと思ったけど、やっぱりダメか。   「陽毬」 「そうね」  はあと小さなため息をつき、長十郎に向け頭を下げる。   「長十郎さん、また来ます。今度はまた別の準備をしてきます!」 「そうかそうか。某としては実に愉快だったぞ」  大きく手を振る長十郎に合わせ、隼丸もひひんと嘶く。  お別れはいつも同じ感じでクスリとくる俺であった。    ◇◇◇  神社から出て細い道を歩きながら、陽毬へ声をかける。  ふと思うところがあってさ。   「霊って個人差があったりしないのかな?」 「おもしろいことを言うわね」  陽毬がその場で急に立ち止まるものだから、前を行く彼女の背にぶつかってしまった。   「ご、ごめん」 「立ち止まった私が悪いのよ。ありがと」  ぶつかったことで前によろけてしまった陽毬を繋いだ手で支える。  思った以上に軽くてビックリした。  ぽふん。 「う、ごめん」 「こ、これはちょっと恥ずかしいわ……でも、悪くはないわね」 「だあああ。冷静に感想を述べるんじゃないってえ」 「あはは。面白いわね、あなた」 「ひゃああ。指先を首に当てたらあかん、あかんて」 「変な言葉遣いになっているわよ」  胸に当てた頬を離し、陽毬は目に涙をにじませながら声を出して笑い転げる。  余りに笑い過ぎたのか、彼女はそのまましゃがみ込んでしまう。 「笑い過ぎだろ」  手持無沙汰になった繋いでいない方の手で自分の髪の毛をぐしゃっとかき回す。 「だって。あなたの顔が余りに面白くて。『ひゃああ』って何よ、もう」 「そんなこと言ってないもん」 「子供っぽく言っても誤魔化せないわよ。可愛くないし」 「う、ううう。行くぞ。ほら」  座る彼女を引っ張り上げ、今度は俺が前に出る。 「分かったわよ。それで、霊に個人差だっけ?」 「そうそう。牡丹さんにも同じことを試してみないか?」 「いいわね。せっかくいろいろ準備したんだし、牡丹さんにも試してみてからまた考えましょう」 「おう!」  可能性は低いだろうけど、やらないよりはやった方がいいだろ。  万に一つってこともあるだろうし。  ……さっきからこう、視線を感じるんだよ。妙に生暖かい視線を。  また何か変な事を言っていたっけ?   「どうした?」 「なにもないもん」 「……」  聞くんじゃなかったよ!  俺じゃなくて陽毬が言うと様になるから少し悔しい。てか、可愛い。  元々、可愛い系の見た目をしているから、似合うんだよな。でも本人は、絶対そんなセリフを呟かないってことも知っている。   17.  荷物を半分ほど減らし、電車に乗って葛城駅まで移動する。  そのまま真っ直ぐ葛城城を目指し、牡丹のいる公園の隅っこまでテクテクと歩く。もちろん手を繋いで。  道中、ブロック塀に埋まっている喜平にも挨拶をしたんだ。  彼は俺たちの荷物の多さにいたく受けていたようで、ひゃっひゃと指をさして笑っていた。お元気そうで何よりだよ。  こんなことで笑ってくれるなら、もう一度大荷物を抱えて彼に会いに行ってもいいなと思ったりして。    チリンチリン――。  澄んだ鈴の音が聞こえてきた。  桜のつぼみも膨らんできて、満開になる日も近いなあ。なんとか桜の花があるうちに二人を会わせてあげたい。   「牡丹さん、何度見ても綺麗よね」  猫のような目をキラキラ輝かせながら、陽毬が誰に向けたでもなく呟く。  確かに、小柄の鈴を鳴らす牡丹は儚げでとても美しい。  彼女はカラスの羽より尚透き通った黒さを持つ長い髪に、切れ長の瞳とパーツパーツが全て端麗なのだが、それだけじゃあない。  いや、普通に超美人だと思うんだけど、ハッとなるほどの彼女の美しさは「今にも消えてしまいそうな儚く朧げ」であることから来ているのだと思う。  確かに綺麗なんだけど、何だか物悲しくて……上手く言えないけど、幸せになって欲しいなって。  俺のわがままだってことは分かっているさ。でも、俺は願う。彼女の悲しい顔は見たくないと。  既に幽霊になっている彼女にこんなことを願うのはおかしな話だってことは分かっている。単なる俺のエゴだってことも。  だけど、それでも尚、俺は彼女に笑顔を見せて欲しい。儚げな美しさを見たくない。例えそれが、どれほど美しかろうとも、だ。   「陽翔様、陽毬様。来ていただけたのですね」  俺と陽毬の姿に気が付いた牡丹は、鈴を振るのをやめこちらに体ごと向きを変える。  口元だけ薄く浮かべた笑みがなんともまあ、柔らかで今にも消えてしまいそうな……守ってあげたいと自然に思わせるんだよな。 「何よ?」 「いや、何でも」 「ど、どうせ、私は牡丹さんみたく綺麗じゃあないわよ」 「そら、系統が違うからな。牡丹さんには牡丹さんの良さがあり、陽毬には陽毬の良さがあるんだって」 「その表現、何だかいやらしいわ」  汚らわしいとばかりにシッシと手を振る陽毬であったが、繋いだほうの手はしっかりと握りしめている。  俺は儚くて美しい月見草や忘れな草より、ひまわりのような元気一杯の花の方が好きだぜ。  なあんて。  花に例えたのは間違いだったな。俺、ほとんど花の名前なんて知らないし……。   「お二人は本当に仲が良いのですね」 「そ、そんなこと……少しはあるかも」 「少しかよ」 「もうちょっと?」 「そうだな」  変なやり取りに俺と陽毬は吹き出してしまった。  つられて牡丹も口元に手をあてクスリとしている。  ひとしきり笑ったところで、陽毬がさっそく牡丹に話を切り出す。   「牡丹さん。ちょっとご協力して欲しいことがあるんです」 「何でしょうか。これほど笑ったのは久方ぶりです。そのお礼にと言っては失礼かもしれませんが、私にできることなら」 「え、えっとですね」  そこで俺を見るのかよ。  「うむ」とカッコよく陽毬に頷きを返すと、彼女は再び口を開く。  一方で牡丹は優し気な顔でじっと彼女の言葉を待っていた。 「牡丹さんがここから移動できないか、いろいろ試したいんです。ご協力していただけますか?」 「ここから動くことができるかもしれないのですか。是非、ご協力させてください」 「良かったです」 「お二方とも私のために、このような。そのお気持ちだけでも胸が一杯になります」  小柄を胸に抱え、ギュッと握りしめる牡丹。  目を瞑り、何を思ったのかほうと色っぽく息を吐く。   「陽翔。すぐに準備よ」 「おうさ」  段ボール箱はさすがに持ってきていないから、小物類への憑依から試してみるとしようか。  それじゃあ、まずは数珠を持って牡丹さんに。  っておい。  陽毬が横から数珠をかすめとりやがった。   「私がやるわ。あなたがやるといやらしいところに触りそうだし」 「触れないってのは知っているだろうに……」 「触れたら触るって言っているのと同じよ。それ」 「そ、そんなことないさ!」 「どさくさに紛れて、胸とかにタッチしたりするんでしょ」 「しねえって」  陽毬が数珠を持っている方の手で自分のふくらみのない胸元に当て、じとーっと俺を見やる。 「やっぱりいやらしい。どこを見ているのかしら?」 「いや、数珠だが?」  やれやれと肩を竦め首を左右に振ると、陽毬がかああっと頬が赤くする。   「し、失礼ね。私じゃあ興味がないっていうの?」 「だから、見てないって言ってるじゃないか。見てもいいの?」 「そんなわけないでしょ。見たらダメよ。分かった?」 「へいへい」  胸の話はいいから、とっとと初めてくれないものかな……。  ぺったんこなのは分かったから。  そのうち牡丹くらいには成長するのかねえ。無理じゃないかなあ。  べし――。   「痛っ」 「変な事を考えていたでしょ」 「そ、そんなことないわよ?」 「とってもいやらしい顔をしていたわよ」 「そ、そんなことないわよおお」 「その口調。かなり気持ち悪いわ……」 「そ、そうか。それより、牡丹さんがずっと待っていてくれているぞ」 「す、すいません。牡丹さん。この馬鹿がオイタを」  そこで、俺に振るのかよお。  間違っている。それは違う。断固抗議する。  何てのは心の中でしか言えない弱い俺であった。    でも、牡丹ははにかみ「楽しそうですね」とだけ呟くんだ。    やり取りを牡丹にずっと見られていたことが恥ずかしかったのか、陽毬は子供っぽく口をすぼめ赤くなったまま牡丹の元へと近寄って行く。  もちろん、俺の手を引っ張りながら。   「数珠に手を当ててみてください」 「こうですか」  え?  ええええ。  牡丹の手が数珠に、いや、陽毬の手に重なると彼女の手が消えた!   「陽毬、牡丹さん!」  何事かと思い、大きな声で二人の名を呼ぶ。   「大丈夫よ。私は何ともないわ。牡丹さんはどうですか?」 「右手が暖かいです。これが生の暖かさなのですね。久しく忘れておりました」 「そのまま、私に重なってみてもらえますか?」 「いいんですか? 陽毬様」 「はい」 「その前に」  と前置きすると、牡丹は陽毬の手の中に入った自分の手を上にあげる。  すると、牡丹の手が元の形で外に出て来た。  なるほど。  一度入って、元に戻ることができるのか試してくれたのか。   「あ、ありがとうございます。舞い上がってしまい、抜けてました」  陽毬が素直にペコリとお辞儀をする。 「いえ。私が陽毬様にご迷惑をおかけするわけにはいきませんので」 「それでは、改めて重なってもいいですか?」 「はい。よろしくお願いいたします」  陽毬が一歩前に踏み出し、牡丹と顔を見合わせお互いに頷きを返す。  更に一歩陽毬が進むと、牡丹と陽毬の姿が重なった。  ま、まあ。牡丹の方が頭一つくらい陽毬より背が高いんだけどな。  そんなことはどうでもいい。  半分以上、陽毬と牡丹が重なったところで牡丹の姿がふっと消えたんだ。   「陽毬、牡丹さん?」 「ここ、牡丹さんはここにいるわ」  陽毬は自分の小さな胸に手を当てる。   18. 「不思議な感じです」  陽毬の雰囲気が一変した。物静かで柔らかな凡そ彼女らしくない表情と声色だ。 「牡丹さん?」 「はい。陽毬様の体をお借りしております。それにしても本当に暖かい」  遠慮がちに指先だけに力を込める陽毬の体に入った牡丹。  その指先は俺の手と繋がっている。 「俺にも憑依できたりするのかな?」 「試してみないことには……」 「試すといえば、手を離します」  すっと陽毬の手を離そうとしたら、名残惜しそうに人差し指だけで俺の手を追うが完全に手が離れたところで動きが止まった。その仕草は控え目で……陽毬にはない感じにドキリとする。  これが陽毬の姿じゃあなかったら、そこまでドキドキしたりしないんだが……普段の彼女とのギャップがさ。中身が違うのは分かってるんだけど、ううむ。   「聞こえないわ。牡丹さんの声」 「体も動かせなくなった?」 「ええ。私の中に入っているから私の視界には入らない」 「つまり、見えないってことか」 「そうよ。それと、牡丹さんの声が聞こえる?」 「いえ、聞こえないわ」 「体の中に閉じ込められた状態なのかしら。私の体が遮断しているから、霊としては喋ることができないのかも」 「牡丹さん、聞こえますか? 陽毬から出てくることはできますか?」  出てきても俺には見えん。  と思ったら、陽毬から俺に手を握ってきた。   「うお」  牡丹の額が目の前に来たからちょっとビックリしてしまったぜ。 「簡単に出ることはできます。すごく不思議な感じでした」 「憑依ってイメージすると、陽毬と牡丹さんが心の中で会話できたりしそうなものだけど」 「それがまた、できないのよね。目を瞑ると牡丹さんの全身が見えるんだけど。なんて言ったらいいか。四角い部屋の中で牡丹さんが私と向い合せで立っているような」 「きっと俺なら、声だけが聞こえるのだろうなあ。試してみてもいいかな?」  コクリと頷きを返し、至近距離にいる牡丹が俺に体を預けるように体を傾ける。  わ、わわ。  思わず抱きとめようとしたが、すり抜けた。  軽くホラーだなこれ……。   「これ、中に入ってないよな」  手が俺の背中から出ているような気がするし。  陽毬が額から冷や汗をたらりと流していることから、まあ、そうなんだろうと思う。   「陽翔。牡丹さんを受け入れようと強く念じるの」 「そ、そうか。牡丹さん、俺の中にって?」 「あなたが言うと何だかいやらしいわね」 「し、失礼な」  気を取り直し、再度挑戦。  今度は牡丹さんの手の平が俺に触れたところで、彼女の手が弾かれてしまった。  強く念じているはずなんだけど、何だこの現象は。   「性別かも? 無意識に陽翔が牡丹さんを避けている?」 「そうなのかなあ。単純に同性じゃないとダメなのかもしれない」 「もっといろいろ試したいところだけど」  そう言って陽毬は空を見上げる。  空は茜色に染まっていて、もうすぐ日が落ちそうな時間帯になっていた。   「また明日来るとしようか」 「そうね。牡丹さん、また明日来ます」 「今日もありがとうございました。とても楽しい時間を過ごすことができました。またお待ちしております」  「また」のところで薄くはにかむ牡丹が消えてしまいそうな儚さで胸がチクりとする。 「はい!」 「待っていてください!」  だから、精一杯の笑顔で彼女へ言葉を返すんだ。  陽毬も彼女にしては珍しいくらいのこぼれんばかりのいい笑顔で元気よく手を振る。  いつかあなたが幸せに成仏できますように。儚くなくなり心からの微笑みを見せてくれますように。   「行こう」 「ええ」  ギュッと手を握りしめ、陽毬と並んで歩き出す。 「お二人に幸ありますように」  牡丹の祈るような声が後ろから聞こえた。    ◇◇◇    翌日――。  朝から陽毬と待ち合わせをして、お堂の裏手にある杉の木の下に向かう。  俺たちの姿を見た長十郎は、「おおい」とばかりに手を振り愛馬の隼丸もひひんと俺たちに挨拶をする。 「今日は早いのだな」  着物の合わせ目辺りから手を中に入れ、あくびをしたフリをする長十郎。  彼なりの茶目っ気だろうけど、時代が違い過ぎて分からん……。   「早速ですが、試したいことがあるんです」 「ほうほう。昨日の今日で何か思いついたのだな。男子、三日会わざればというが」 「いえ、思いついたのは俺じゃあなくて、陽毬なんです」 「ほほお。才女とは、そなたも尻に敷かれぬよう」  何気ない一言だったんだろうが、陽毬の眉がピクリと動く。 「長十郎さん。私、こう、控え目で後ろから支える……縁の下で。ですので、才女とか言われますと照れますわ」  何その口調……。   「痛っ」  二の腕をつねられた!  近い方の左手は俺と手を繋いでいるから、わざわざ手を伸ばしてだぞ。  そんなあからさまな動きをしたら長十郎に思いっきり見られると思うのだが。  ほら、案の定。   「かかか。そなたらはほんに愉快でござるな」 「は、ははは」  変な笑い声が出てしまったよ。  後が怖いぞこれ……。恐る恐る陽毬の顔を覗き込むと、意外にも彼女はふんわりとした柔らかな表情をしていた。  そ、そうだったのか。  この場を和ませ、長十郎に楽しい時間を過ごして欲しいという思いから、このような態度を取ったのだな。  陽毬……なかなかやるじゃあないか。   「ほら、変な顔で頷かなくていいから、とっとと試す」 「へいへい」  前言撤回だ。  背中を押され、長十郎の前に立つ。   「長十郎さん、早速ですが試させてください」 「ほう?」  集中するため目を瞑り、彼を受け入れようと強く念じる。  そのまま一歩前に進み、彼と重なるように……。   「このまま俺の体に触れてください」 「承知した」  目を開けたら、長十郎の手が俺の肩にまさに触れようとしているところだった。  しかし、いざ彼の手が俺の肩に触れるとそのまま反対側へ弾かれてしまう。  昨日の牡丹と同じように。   「ううむ。陽毬もやってみてもらえる?」 「分かったわ」  俺と入れ替わるように陽毬が前に出る。  彼女の小さな手の平が長十郎の腕に触れるが、ダメだった。 「ううん。男の人ってことで少し委縮していたのかも。長十郎さん、少し待っててください」 「もちろんだとも」  踵を返した陽毬は俺の手をグイグイ引っ張り、大股で歩き始める。   「おいおい、どこまで行くんだよ」 「ここでいいわ」    お堂の表まで出た所で陽毬が立ち止まった。  続いて彼女は左右を見渡し、満足したように頷く。   「陽翔、私の肩に両手を置いて」 「お、おう?」  言われた通りに両手を陽毬の肩に手を置いた。  本当に華奢だなあ。思いっきり抱きしめたら折れてしまいそうだ。いや、俺が力強いのかと言われるとそうじゃあないんだけど……。  し、しかし。この格好はやばい。  陽毬が上目遣いで俺を見つめて来るし、彼女の桜色のぷるんとした唇が妙に目に焼き付いてしまって。   「もうちょっと寄って」 「寄るって、どこを」 「もう、まどろっこしい」  半歩進み踵を上げる陽毬。   「ち、近い」 「よし。大丈夫。多少鼓動が早まるくらいね」  長い睫毛が俺の顎に当たりそうだよお。  こっちは多少どころかえらい勢いで心臓が脈打ってる。  俺とは異なり彼女は澄ました顔で自分の胸に手を当て心音を確かめていた。  俺の気持ちなど知りはしない陽毬は体を離し、またしても俺の手をグイっと引っ張った。   「戻るわよ」 「お、おう」 「練習は終わり。まあ、見てなさい」  な、なるほど。さっきのは長十郎を憑依させるための練習だったってわけね。   19.  「長十郎さん、手を」 「ほう」  開いた方の手を前に差し出す陽毬に感心したような息を漏らす長十郎。  彼は彼女の態度から何かを感じ取ったようだ。  肩眉をあげ、彼にしては挑戦的というか何というか今までと違い少し覇気があると言えばいいのか。 「その笑み、久しく忘れておったぞ。挑まれるような、心地よいものだな」 「そんなつもりはなかったんですけど……」  といいつつ、陽毬は長十郎から差し出された手に自分の手を重ねる。  しかし、期待とは裏腹に陽毬と長十郎の手は重なることがなかった。   「うーん。ダメみたい」 「そうかそうか。これもまた一興」  落ち込む陽毬に対し、長十郎は扇子を扇ぐように右手を振る。  ぐうう――。   「ご、ごめん」 「ははは。生きておればこそよ」  こんな時に腹の虫がなるなんて、我ながらタイミングが最悪だ。  長十郎には大うけなんだけどさ……背を逸らしてまで大笑いしなくてもいいのにい。   「陽翔。お昼にしましょっか」 「そうだな。うん」  ◇◇◇  長十郎と別れ、富丸商店横のファーストフード店まで足を伸ばす。   「はああ」 「さっきから、食べるかため息をつくのかどっちかにしなさいよ」 「そうだな。食べる」  ダブルチーズバーガーをもしゃりもしゃりと食べるも、長十郎との先ほどのやり取りを思い出すたびにため息が出てしまう。   「はああ」 「ほらまた」 「そういう陽毬も、さっきからふーふーし過ぎだろ」 「だって熱いもの」  両手でカップを握り、カップの蓋を開けてずっと息を吹きかけているんだよな。  俺とは違って、陽毬はとっくに食事を終えてるけどさ。   「すまん。俺が」 「長十郎さんは憑依できないタイプなのかもしれないわね。でも、別の手段を探せば」 「俺に気を使ってくれて、ありがとう」 「そ、そんなことないわよ。間違ったことを言っているわけじゃないでしょ」  うううとたじろく陽毬だったが、俺の目を真っ直ぐに見ようとしない。  目だけ俺から逸らしているんだ。  全く、彼女は分かりやすいな。  陽毬に牡丹が憑依できて、長十郎が憑依できなかった理由はずばり性差で間違いない。  霊は憑依できる。  もちろん誰だってというわけではない。  霊感がある人とでも表現すればいいのか……「見えたり」、「聞こえたり」、「その両方ができる」人が願い、霊もまた願えば憑依でるってことだ。  陽毬は異性という緊張感から失敗したと言っていたけど、俺とその……まあそれはいい。とにかく彼女は再挑戦しても上手くいかなかった。  そのことから、同性でないといけないことは確定と見ていい。   「霊を憑依させるに、条件は二つ。受け入れることと同性であること」 「いつもぼーっとしているのに、こういうところだけは鋭いんだから。他の手段があるかもしれないってさっきから言ってるでしょ」 「あるかもしれない。だけど、可能性は極めて低いと思うんだ。陽毬に出来ていて、俺には足りないものは明確だろ?」 「もう、分かっているわよ。だけど、あなたのこう……」  言葉を濁す陽毬に、くすりと口元が上がる。  彼女は言葉はきついところもあるし、何でもハッキリとズバズバくるけど、思いやりのある優しい子なんだと改めて思う。 「何よ」    ぶううと膨れつつ陽毬はようやくホットコーヒーに口をつける。  だけどまだ熱かったのか、眉をひそめすぐに口からカップを離す。   「いや、何でも」 「わ、私が弄るのはいいけど、弄られるのは少し癪だわ」 「な、なんちゅう無茶なことを」 「べ、別にいいじゃない。うじうじ悩まなくなってから偉そうなことを言いなさい」  あはは。  コロコロ変わる彼女の表情を見ていたら、さっきまでのずううんとした気持ちが和らいだ。  そうだな。彼女になら、いや、彼女にこそ聞いて欲しい。   「トラウマなんだ。俺にとって『声』ってのは」    ピタリと彼女の動きがとまった。  彼女は急に真剣な顔になって俺を真っ直ぐに見つめる。   「いいの? 私に?」 「うん。陽毬に。陽毬だから聞いて欲しい」 「そ、その言い方……て、天然って怖いわ……」  な、何だよ。  誰にも声に対する俺の気持ちなんて話をしたことないんだぞ。  耳まで真っ赤にして顔を逸らすことないじゃないか。恥ずかしいのは俺の方だってば。  自分のこっぱずかしい過去を語るのだから。   「俺にとって声は、『面倒』だった。ただひたすら煩わしいものだったんだ」  語り始めると止まらなかった。   「子供の時、物心つく前から、俺は虚空に向かって聞こえた音に反応していた。時に虫の声、時には家畜や鳥のさえずり……」  これまで思っていたことを全てぶちまけるように、バラバラに語られる俺の話に陽毬はコクリと時折頷きを返してくれる。  赤ん坊の時のことは覚えていない。だけど、覚えている一番古い記憶は、牛の鳴き声に導かれトブにハマったことだ。  母さんはフラフラと歩きだした俺を止めようとしてくれたみたいだけど、間に合わなかった。  次は、突然耳元に舞い込んだカエルの低い鳴き声だ。驚いて飛びのいた俺は、あと一歩で車にぶつかるところだった。  両親は俺がいるはずのないモノの声が聞こえていることは何となく察してくれていたのかもしれない。  だけど、俺はハッキリと両親にこのことを告げることはなかった。いや、自分以外には「聞こえない」ことを知る前には、何度か両親に「あそこから音が聞こえる」ってことは言っていたと思う。  随分と心配をかけた。両親は特異な俺に対しても愛情を注いでくれ、妹も俺を奇異の目で見ることなんてなかった。 「俺のためにいっぱい心配をかけた。たくさんの時間を費やしてくれた。嬉しかったさ。でも、『普通』だったらどれほどよかったかって思って」 「うん」 「それが我がままだって分かってる。だけど、そう思ってしまうんだよ」 「優しい人なんだね。陽翔は」  陽毬は慈愛のこもった笑顔を浮かべ、俺の手を両手で握る。 「だけどさ、陽毬に会って、初めて人の声と聞き、姿を見て、変わったんだ。少しづつだけど」  そう。変わったんだ。  長十郎の話を聞いて。彼が笑ってくれて。牡丹にも会って、彼女も儚いながらも微笑みを浮かべてくれて。  彼らが嬉しそうにしているのが嬉しかったんじゃない。  俺は救われた。救われたと思ったんだ。  煩わしい、蛇足だと思っていた「聞こえる」ことで、亡霊とはいえ誰かの笑顔を作り出せることに。  聞こえることが陽毬から必要とされ、報われた気がした。 「私は陽翔。あなたに出会えて良かった。嬉しかったわよ」 「お、おう」  身を乗り出して顔を寄せてくるものだから、思わず目を逸らしてしまった。   「同じ人がいたんだ。私は一人じゃないって思えた。それだけじゃなかったし、ね」 「それって?」 「前も言ったでしょ。私があなたに惹かれたきっかけは、「聞こえる」ことだった。だけど、それだけじゃあ、今も一緒に行動していないわよ」  体の位置を元に戻し、腕を組んでつーんとそっぽを向く陽毬。 「だからさ。俺は長十郎さんを受け入れたい。他の方法じゃあなくて、このやり方でやりたいんだ」 「分かったわ。やってみなさい。期待しないで待ってるわ」 「そこは期待してる、応援するとか言ってくれよ」 「嫌よ。あなたは褒めると伸びないわ」 「そんなことないって!」  あははと笑いあう。  何とかしてみせるさ。 20.  昼食後、長十郎の元へ戻りあれやこれやと試してみるが上手く行かなかった。  ずっと積み上げてきた声に対する嫌悪感は一朝一夕では拭えるものではないってことか。そう甘くはないよな。    翌日も朝から妹に弄られながら外出し、陽毬と一緒に長十郎の元へ。  座禅を組んで精神統一してみたりしたけど、結果は散々たるものだった。    そして、昨日と同じファーストフード店にて。   「だあああ」  テーブルの上にぐたあと突っ伏す。 「気負い過ぎなのよ」  陽毬はふうと可愛らしく息を吐き、首をかしげおどけてみせる。  フワリ――。  俺の髪の毛に彼女の小さな細い指先が触れる。  そのままくしゃりとされ、頬が熱くなると共に包み込まれるような安心感に満たされて行く。   「急がば回れよ。人間、誰しも苦手なことだってあるわよ」 「ありがとな」 「な、何よ。急にしおらしくなって。私ね。あなたと違って、見えることが『支え』だったのよ。だから、あなたみたいに受け入れるよう努力するなんてことは一切していないの」 「自然と受け入れることができるのはいいことじゃないか」 「でもね、苦労しているあなたを見ていると、何だか私だけズルをしているみたいじゃない?」 「そんなことないさ」 「だから、私も挑戦してやるわよ。これでおあいこ。私もやってみる。だから、あなたもやりなさい」 「あはは。そこまでしなくていいって」 「も、もう」 「ちなみに何をしようとしていたんだ?」 「これよ」  蓋を開けたカップを指さす陽毬。中には熱々のホットコーヒーが並々と入っている。 「いやそれ、努力してもどうにもなるもんじゃあないだろ」 「そ、そんなことないわよ。私だって、やればできる……んだから」  子供っぽくふくれっ面になる彼女が可愛くて仕方ない。 「何よ。その父性溢れる目は」 「気のせいだって。頑張らなきゃなって思ったんだよ」 「だから、気負わないでって言ってるでしょ」  陽毬は再び俺の頭を撫でる。  あああ。落ち着くうう。   「大丈夫。もし、長十郎さんを憑依させることができなくても、牡丹さんと会ってもらうことはできるから」 「それじゃあダメだ。二人には桜の木の下で会ってもらいたいんだよ」 「私だってそうよ。でもリミットは後七日よ。そこは分かってる?」 「来年になると俺たちも高校生じゃあなくなるからな。今、毎日会えるこの時に何とかしたい」 「そういうこと。明日から学校だし、一日中付きっきりってわけにはいかなくなるわ」 「そうだったあああ」  がばああっと顔をあげ、頭を抱える。  な、何の準備もしてませんがな。   「そこまで焦ることはないんじゃない? まさか学校の場所が分からないとか?」 「……」 「え? 本気で言ってる?」 「……場所も制服の準備もまだだ。制服は家にあるけど、一回も着ていない」 「今日はちゃんと準備をすること。学校の場所は調べ……ううん、駅前で待ち合わせしましょ」 「念のため確認だけど、手を繋いで登校はしないよな?」 「あ、当たり前でしょ!」  何言ってんだこいつって目で見られても困る。陽毬ならやりかねんと思ったんだよ。  俺は構わないけど、彼女は困るだろ。  いや、訂正。俺もちょっと困ってしまう。  こんな可愛い子と転校初日に手を繋いで登校なんてしてみろ、要らぬ注目を浴びる。  彼女のファンとかの目も怖いしさ……。余計なトラブルは避けたい。  学校とは潜む場所なのだ。忍者のように、気配を消して。   「べ、別に私はいいんだけど、あなたが困るでしょ。そ、その転校初日だし」 「い、いいのか……」 「だから、あなたが困るって言ってるでしょ! だから、ダメよ」 「あ、う、うん」  しまったと手で口を塞いでいるが、首元まで真っ赤になってんぞ。  彼女の好奇心は凄まじいな。学校や通学路で何か「見えて」いるのかもしれん。   「そ、そろそろ今日は帰ろうか」 「学校の準備もしなきゃだしね」 「陽毬は既に終わってんだろ?」 「もちろんよ。あなたが準備する時間のことよ」 「へいへい」  二人揃って階下に移動し入り口の自動ドアをくぐろうとしたころ、彼女が注文カウンターに戻る。  何を思ったのかホットコーヒーを頼んでいたが、彼女にお金を握らせた。  彼女は「何?」って猫のような瞳で俺を見上げたけど、にやっと親指を立て店員さんからカップを受け取る。   「気負わずに、だろ?」 「気障っぽく言っても似合わないわよ」  なんていいながらも、彼女の頬に朱が指す。  俺のイケメン行動にグッときたのか、ふふふ。   「あなたはぬぼおっとしている方が落ち着くわ」  なんてカウンターをしてくるものだから、こっちがドキっとしたよ。   「ま、まあ。ぼおっとしていることは否定しない」 「自然体でいるのが一番よ。私もそうだしね」 「そうだな。それがいい」 「でしょ」 「おう!」  頷きあい、手を繋いだまま自動ドアをくぐる。  カップを持つ手が熱すぎて持ち替えたかったけど、彼女の手を離したくなかったからそのまま我慢することにしたんだ。    ◇◇◇    あ、あああああ。ネクタイがネクタイが。  まあいい。  こう崩していた方がいいはずだ。うん。洗面台の前で何度かネクタイを結び直したがしっくりこない。  ネクタイなんてもんは装着してりゃあ指導も入らないだろ。   「お兄ちゃんー!」 「おー。いま行くー」  妹が呼ぶってことは、結構ギリギリな時間になっているってことか。  ダイニングテーブルに戻ると既に食事を終えた妹がシンクに空になった皿を置いているところだった。  両親は既に出た後かあ。二人とも朝早いからな。  地方に来たら通勤時間が短くなって、父の出る時間も遅くなるかと思いきやそうじゃなかった。  母は朝からパートをはじめたので、出るのが一番早い。戻りも一番早いけど。   「妹よ。準備は万端か?」 「もちろん。お兄ちゃんとは違うのだよ。ふっふーん」  うむ。髪の毛もバッチリ決まっていて、サラサラヘアには跳ねた髪も見当たらなかった。  素晴らしいな。  俺? 俺はぼさぼさしてる。  いいんだよ。俺だし。  あんまりちゃんとし過ぎないことが肝要だ。忍者たるもの、目立たぬようせねばならぬからな。 「鍵は俺が締めとくよ。先行っちゃって大丈夫だぞ」 「お兄ちゃん、大丈夫って……本当に大丈夫?」 「忘れ物はないはずだ」 「高校の場所とか分かる? お兄ちゃんのことだから……」  ドキッとした。  実は分かってませんでしたーなんてことは言わず、おもむろにスマートフォンを机の上にでーんと置く。   「こいつがあるから問題ないのだよ。は、はははは」 「地図情報見ても迷うのが兄である」 「待てこらあ」  ペロっと舌を出し、左手をフリフリしながら妹はそそくさと去って行った。  すぐに扉が開く音がして、彼女が出て行ったことが分かる。 「ほんとにもう」  まあ、陽毬と一緒に登校することはバレてなかったから良しとしよう。  ――ブーブー。  安心した時、スマートフォンが震える。 『陽毬さんに案内してもらうといいよー』  妹からだった。  こ、こいつ……鋭い。  さああっと血の気が引くが、首を左右にブンブン振り食パンをもしゃりと口に突っ込んだ。   21.  駅前の広場まで来ると、すぐに陽毬を発見した。  目立つ、目立つよ。陽毬さん。  両サイドに赤いリボンをあしらい、右の前髪を二本の小さなクリップで留めている。  可愛らしい姿が好きじゃあないと思っていたけど、やっぱり陽毬にはああいうのが似合うと思うんだよなあ。    ぼーっと彼女のことを眺めていたら、こちらに気が付いたのか顎だけを少しあげこちらにスタスタと歩いてくる。  両手を振るとかは無いと思っていたけど、不愛想過ぎないか?  あ、俺のためか。  駅から降りて来る制服姿には俺たちと同じ制服を着た人もちらほらいる。   「おはよう」 「お、おはよう。なんだか雰囲気が」 「だ、ダメかしら?」 「ううん。か、可愛いと思うよ」 「あなたが、綺麗より可愛いでもいいって言うから」 「お、おう」  俺はそっちのが似合うと思うけどなあ、なんて歯の浮いたセリフを言う事はできずまごまごしてしまった。  陽毬もバツが悪そうにそっぽを向いて俺の手を取ろうとし、手を引く。   「癖になってるわね。あなたといる時は手を繋ぎそうになるわ」 「お、俺もそうかも?」 「分かるわ。世界が広がるんだもの」  本当に嬉しそうに目を細める彼女を見ていると胸がチクリとした。  彼女にとって見えることは「支え」だと昨日言っていたよな。  対して、「見える」ようになった俺にあった感情は「戸惑い」だったんだ。  最初、ただ彼女と手を繋げるのが嬉しくてという邪な感情で手を繋いでいたことは否定しない。  今は、それだけじゃないと言い切れるけどな。 「またぼーっとして。行くわよ」 「へいへい」  そう言って振り向いた彼女の短いスカートの裾が揺れたことを俺は見逃さなかった。  小暮高校の制服はブレザーで、他の学校に比べてそう目立った違いはない。  女子のリボンの色は赤だし、男子のネクタイは青。たぶん、最も一般的な色なんじゃないかな。  制服自体の色も紺色だ。  捻りが無いのが逆に目立つかもしれない、とも思う。  陽毬は、特にスカートを短くしているってわけじゃなさそうだけど、膝上10センチくらいかなあ。  スカートと膝から伸びる滑らかで白磁のような肌のコントラストが。   「さっさと動く」 「へいへい」 「全く……変なところばっかり見て。私のを見ても面白くないでしょ」 「あ、いや」    陽毬はつーんと顎を上にあげて、通学鞄を俺に向ける。 「横に並びなさい。後ろにいたらまた見るでしょ」 「お、おう」  しばらく無言で横に並んで歩いているが、それほど他の生徒に注目されることもなかった。 「普通に歩いていれば、そう注目されることもないわよ」 「お、俺の心を読んだな」 「あなた、ちゃんとしたらそれなりにカッコよくなると思うんだけど、ワザと?」 「俺がカッコよくなるとかありえん。格好は少しワザとなところはあるな」 「へえ。どんな拘りがあるのかしら?」 「言ってもいいが、誰にも言うなよ」 「言わない。言わない」  「はーい」と右手をあげるが、信用ならないな……。  ま、いいか。   「目立たないように気を使っている」 「ほんとあなた。勿体ない方向には無駄に努力するのね」 「う、うるせえ。忍者マスターの道は遠いのだ」 「何それ。あはは」  忍者マスターが分からんとは、まだまだ、だな。 「ほら、陽翔。見るならああいう人を見なさい」 「ん?」  グッと心の中で忍者マスターへの道を誓っていたら、出し抜けに陽毬が指をさす。  ほ、ほう。  確かに陽毬が言うだけのことはある。  真っ直ぐで艶のある黒髪を長く伸ばし、首の下あたりで黒髪をまとめている。  切れ長で長い睫毛、透き通った肌から伸びるスラリとした体躯。  涼やかな口元にすっと通った鼻……怜悧な美少女で凛とした雰囲気まで備えていた。  学校一の美少女、女子からも好かれそうな。無表情なのがあれだが、それがまたいいと言われるんだろうなあ。 「陽毬が言うだけあるな。テレビじゃなく学校で、あんな綺麗な子を見たのは初めてかもしれない」 「でしょでしょ」  でも。   「俺は綺麗より可愛いのがいいな……」  ボソっととんでもないことを口走ってしまった。 「な、何よそれ。慰めてくれてんの?」 「い、いや。あ、ほら」  件の美少女が零れ落ちんばかりの笑顔で、手を振っている。  へえ。あんな顔もするんだな。少し意外だった。  でも、俺が陽毬の気を逸らそうとしたのは彼女じゃあない。  手を振る彼女に申し訳なさそうに頭をかいて、近寄って来る冴えない男子生徒に目を向けたんだ。    彼はなんというか、同類の匂いがする。  いや、俺なんて足元にも及ばない忍者スキルを持っているんじゃなかろうか。  あの、完全無欠なぼっち感。俺には分かる。  彼のレベルは……カンストしていると。    別の意味で戦慄していたら、陽毬が一言ばっさりと。   「学校の七不思議よね。ファンクラブまである生徒会長がまさかあんな子とねえ」 「え?」  陽毬の言う通り、美少女は愛おしそうに冴えない彼の手を取り彼だけに満面の笑みを向けている。  ま、マジか。  彼は……ぼっちの中のぼっち。それは間違いない。あのオーラ。只者じゃあないぞ。  きっと彼は授業中に別人格なんか作って脳内で楽しめる神の域にまで到達している……と俺は見ている。   「ほら、さっさと入るわよ」 「おう」  他の生徒たちは美少女と冴えない男子生徒に注目していたから、俺たちは見られることもなく校内に入ることができた。    ◇◇◇   「は、はじめまして。日向陽翔(ひなた はると)です。よろしくお願いします」  若い女の先生に紹介され、ペコリと頭を下げる。  どんな奇跡か陽毬と同じクラスになったんだよ! 彼女の隣だったらいいなあと思っていたら、彼女の隣は空いている……いや、空いてない。  な、なんたるぼっちスキルだ。陽毬の隣の席は、あの忍者マスターが座っていた。  や、やはり俺の目に狂いはなかったぜ。あの人、とんでもねえステルスだ。    パチリと片目を瞑る陽毬に目で合図を送るが、空いている席は、いやワザと空けた席はあの美少女の隣だった。  やり辛いな……。   「よろしくね。日向くん」 「よろしく。えっと」 「雨宮(あまみや)よ。クラス委員長もやっているの。分からないことがあったら何でも聞いてね」 「ありがとう」  ペコリと頭を下げ、席に座る。  それにしても近くで見ると本当に綺麗だな。この子。  この子があのぼっちくんとなあ。何がどうなってそうなったのかマジで謎過ぎるけど、何だか勇気をもらった気がする。  俺だって、手を繋いで陽毬と歩いていることに引け目なんて感じなくていい、そう思わせてくれた。  いや、彼のことに対し上から目線で変な事を考えているとかそんなんじゃないんだ。  むしろ、俺はぼっちマスターの彼のことを尊敬する。(ぼっちスキルのことじゃないぞ。いや、それはそれであの域にまで達したことに敬意を払うが……)  自分が好きだと思った相手にちゃんと想いを伝え、それがどれだけ自分と正反対な人だろうと押し通す。  こんなのなかなかできることじゃないって。    眠くなる教科書の読み上げが続いているが、ふと彼の方へ目をやる。  後ろの席だから相当困難だが、これで気が付かれるような俺じゃあない。   「な。何……」 「日向くん?」    や、やべえ。俺としたことが声を出してしまった。  おかげで先生に名前を呼ばれてしまったよ。 「い、いえ。何でもないです。先生の発音がとても美しくて」 「じゃあ、寝ないで聞いてくれるかな?」 「は、はい」  こ、この先生、なかなか手強いぜ。  ふうと胸を撫でおろす。  あ、あのぼっちマスター。一人ですごろくやってたぞ……戦慄した。  駒が四つ。あ、あれは俺とて真似できない超高レベル。   22.  なんてかんじであっという間にお昼になった。  購買に走る生徒たちをよそに、俺はゆっくりと通学鞄を開く。  お弁当最高だぜ。人並みに押されることもなく、買いに行く時間がない分、より多くの昼休憩が取れる。   「陽翔。お昼、そのまま食べる気?」 「ん?」  隣の席をくっつけようとする陽毬だったが、何かを思いついたように動きを止める。   「そうだ。校舎裏にベンチがあるのよ。そこで食べない?」 「構わないけど」 「そこだと生徒も殆どいないから、ゆっくり話ができるわ」 「おお。そいつはいいな」 「でしょでしょ」  陽毬はお友達と一緒にご飯を食べなくていいんだろうか。  という疑問が涌くが、今日のところは彼女に甘えるとしよう。    校舎裏には古池があって、その付近は生徒の数もまばらだった。  幸い、他の生徒と適度に距離がとることができる位置にベンチがあったからそこに座る。   「敷物とか持ってきたほうがいいかもしれないな」 「そうね。でも、地面にそのままでも私は構わないわよ」 「俺も気にする方じゃあないな」  陽毬が気にしないなら、特に準備も必要ないか。   「しっかし、この学校。初日からみっちり授業があるんだな……」 「夏休みがその分長いとか聞いたわ。まあいいじゃない。来てすぐ帰ると、何だか勿体ないし」 「それもそうか。始業式だけで帰宅なら、来なくてもいい気がするものな。それならいっそ休んだ方が生徒にも先生にも優しいよな」 「そうそう」  会話をしながら、お弁当の包みをしゅるしゅると外す。   「何かいいことあった?」 「ん? 思うところはあった」  自然と顔に出ていたのかな。  お箸を手に取り、ソーセージを突き刺す。   「どんなことだったの?」 「大したことじゃあないんだけど、生徒会長と男子生徒のことでさ」 「雨宮さんと……ええっと誰だったかしら」 「松井だったと思う」 「そ、そう。そんな名前」  人のことは言えないけど、クラスメイトの名前くらい覚えておけよ。  俺? 俺はまだその二人と陽毬の名前しか知らない。   「松井は凄いなと思ってさ。俺も頑張らないとってね」 「頑張らなくても、別に、私は……」  急にしおらしくなる陽毬だったが、何か勘違いしてないか?   「みんな頑張ってんだなと思ってさ。俺も自分の心に整理をつけたい。長十郎さんと牡丹さんに最高の景色を見せてやろうじゃないか」 「そ、そっちね。そうね。限界は今週末よ」 「あと二日か。分かった」 「焦る必要なんてないわよ。もう五百年近く長十郎さんたちは待ったのよ。今更、一年や二年伸びたところでそう変わらないわ」 「ありがとな」  珍しく焦った様子で俺をフォローしてくれる陽毬が愛おしくなって、つい彼女の頭の上に手を乗せてぽんぽんしてしまった。  しまったと思った時には既に遅く、慌てて手を離すも時すでに遅し……。   「も、もう。子供じゃないんだから」 「す、すまん」 「悪いと思ったなら、ちゃんと撫でなさいよ」 「え?」 「ほら」 「お、おう。ありがとな、陽毬」 「ゆっくりやればいいのよ。分かった?」 「うん」  何度も陽毬から釘を刺されているけど、どうしても、さあ。  心地よさそうに目を細める陽毬を見やり、「ごめんな」と心の中で謝罪する俺であった。  手を離すと、陽毬は余韻に浸るようにほうと息を吐く。  何だか妙に色っぽくて、目を逸らしてしまった。   「陽翔。私ね。『見える』てよかったって思ってる。あなたが言う『嫌悪感』のことは理解できるけど、どうしたらいいのかなんてことは力になれそうもないわ」 「いいって。これは俺個人の問題だ。もう陽毬は沢山の事を俺にしてくれたから。充分以上に力になってるって」  突然何を言いだすんだと思ったが、そんなことを悩んでいたのか。  陽毬は空になった弁当箱に目を落としたまま、言葉を続ける。   「あなたが話をしてくれたから。私も話したい。子供の頃のこと」 「うん」 「私ね。あなたと同じで物心ついたときから『見えた』の」  彼女もまた俺と同じで、幼い頃は実際に見えるものと「見える」ものの区別がついていなかった。  両親共働きの彼女の家庭には、面倒見のいい祖母が一緒に暮らしていたそうだ。  祖母は祖父を若い時に亡くし、女手一つで彼女の母を育ててくれた。 「おばあちゃんから聞いたんだけど、私が歩き始める頃に『見える』ことに気が付いていたって」 「うん」  陽毬の「見えること」に気が付いた祖母は、彼女が四歳になるころに彼女の頭を撫でながら「あの人も見えるのかい?」と聞いたそうだ。  「あの人?」と聞き返す陽毬に、祖母は祖父の写真を見せ「この人」と優し気に答えた。  すると、陽毬は「ううん。見えないよ」と祖母の暖かさに目を細めながら言う。   「『そうかいそうかい。あの人はちゃんと旅立ってくれたんだねえ』っておばあちゃんは言ったの。懐かしそうに目を瞑りながら」 「心配していたんだな。お祖母ちゃん」 「うん。私もそうじゃないかなって思う。おばあちゃんはおじいちゃんが自分が足かせになってちゃんと天国に逝けなかったのかと心配していた……んじゃないかって」 「とても優しいお祖母ちゃんだったんだな」 「ええ。お祖母ちゃんのことは、大好きだったわ。亡くなってからも」  幼心に大好きな祖母が嬉しそうにしてくれたことで、陽毬は「見える」ことに抵抗は無くなった。  祖母は彼女をうまく誘導してくれて、祖母以外には「見える」素振りをしなくなるようになる。 「でも、お母さんとお父さんにもこっそりと言っちゃった」  陽毬は彼女らしくない子供っぽい口調でペロリと小さく舌を出す。 「お祖母ちゃんも、それ分かってたんじゃない?」 「うん。そこもおばあちゃんが私の知らない間にうまくやっていてくれていたわ。後から知ったことだけどね」 「両親は何て?」 「お父さんは『先に旅立ったとしても、お前が結婚するまで父さんずっといるからな』って、嬉しそうに悔しそうに言っていたわね」 「あはは」  いい家族だな。  「見える」ことを家族一緒に楽し気に語る……か。 「それで、見えることが『支え』になったって言ってたのか」 「そうね。支えになったのはこの後よ。ここじゃあ何だし、また放課後にお堂の前でね」 「分かった」  計ったように昼休憩終了の鐘がなった。  一体、陽毬に何があったんだろう。少し、いや、かなり気になる。    ◇◇◇    放課後になった途端に飛び出すように学校の外へ出て、陽毬と駅前で別れた。  すぐに制服から私服に着替えて、例の古びたお堂へ向かう。   「さすがにまだか」  ここは男子と女子の着替える速度の差だな。  服を脱ぎすて、適当に服を掴み着替えたし……。   「せっかくだし、先に長十郎さんのところへ行くか」  お堂の裏に行くが、杉の木のところに長十郎と隼丸の姿はもちろん見えない。  陽毬がいないからな。   「陽翔。今日は一人なのだな」  虚空から声だけが聞こえる。   「はい。もうすぐ陽毬が来ると思います」 「そうかそうか。お主らと語り合うことはほんに愉快でのお。参じてくれると嬉しいぞ」  声色だけで長十郎がいまどんな姿なのか何となく想像ができて、クスリとした。   23.  長十郎の姿が見えないまま挨拶だけ交わしたけど、陽毬が来るまでまだ少し時間がありそうだな。 「陽翔。そなた。何か悩んでおるのか?」 「え?」  顔に出したつもりなんて毛頭なかったんだが……あ、でも。連日、長十郎を憑依させようとして失敗続きだったから分かるわな。  それよりなにより。   「長十郎さん、俺の姿が見えるんですか?」 「おうとも。お主ら以外の人の姿も見えるし声も聞こえる」 「そうだったんですね」 「だが、声をかけてもそなたにしか聞こえぬようだ。姿が見えるのは陽毬だけだったか?」 「なるほど。一方通行だったってわけですね」 「うむ。それがまた物悲しさを増すのだがの」 「それは……確かにそうかもしれません」 「だが、何も見えぬ、聞こえぬより数千倍良い」  カカカと豪快な笑い声だけが聞こえてくる。  てことは、声は霊に届くってことか。   「して、どうなのだ?」 「はい。悩みというか自分の中でモヤモヤしていると言うか」 「男児たるものそんなもの。悩み、苦しみ、前に進んで行く」  俺の悩みの内容なんてもうバレバレだから、説明する必要もない。  長十郎は朗々と漫談でも語るかのように続ける。   「だが、抜けた時の爽快感といえば、天にも昇る気持ちだろう? だから、前へ進む」 「そうですね。そうありたいです。長十郎さんも悩んだりしたんですか?」 「そらもう、悩まぬ日など無かった。某は未熟故、なかなかの」 「牡丹さんのことで?」 「牡丹のことだけではないぞ。戦のこと、城内のこと……様々だ」 「元服でしたっけ、お仕事を始める歳って」 「そなたくらいの頃には奉公しておったな」  今と違って人間五十年と言われた時代だけに、成人と呼ばれる年齢も早い。  長十郎の時代の人たちは、中学卒業するくらいの歳になったら立派な成人として扱われるみたいだ。  そんな若いうちから大人に混じって仕事をするとかゾッとする。  でも、彼は仕事を一生懸命続けてきた。最期まで。   「すごいなあ……長十郎さんは」 「伝令もこなせぬ某ではあるがな」 「そんなことないです! 伝令って俺には想像が余りつかないですけど、きっととても大事な仕事なんだと思います」 「ほお?」 「だって、情報って国の政策の中では最重要じゃないですか。その根幹を頼まれるなんて、それもこんなお若いのに」 「買い被り過ぎという物よ」  照れたのか、長十郎の流暢に続いていた言葉が途切れる。   「長十郎さんと秘密の会話?」  陽毬の声が聞こえた。  なるほど、彼は彼女が見えたから右手でもあげて挨拶でもしていたのかな。 「男同士の話だよ」 「長十郎さんも、男の人ってわけね……」 「なんだよ。その呆れたような顔」 「いやらしい話で盛り上がっていたんでしょ?」 「んなわけあるかああ。男に対する考えが少しおかしい」 「へえ。そうなの」 「そうだよ!」  いーっと口を横に伸ばし陽毬に向けるが、彼女は気にした様子もなく俺の手を握る。  ん、買い物袋? 「陽毬、それ?」 「300均ショップに寄って来たのよ。それで少し遅くなったわけ」  じゃーんと買い物袋を掲げる陽毬。  中には赤と青のプラスチックの板のようなものが入っている。   「折りたたみ椅子か。すまん、気がつかなくて」 「そのまま地面でもいいんだけど。こっちの方がいいでしょ」 「ありがとう」 「もっと褒めていいわよ」 「ありがとう」  ん。  陽毬にはああとため息をつかれた。なして?   「陽翔は女心が分かってないのお。それはそれで燃える女子(おなご)もいる。ははは」  長十郎が余計な口を挟んで、大笑いしているじゃないか。 「じゃあ、昼間の続きをしましょうか」  赤色の折りたたみ椅子へ腰かけた陽毬が、立ったままの俺を見上げてくる。  座れってことね。  だけど、ここには長十郎もいるけどいいのかな。  戸惑っていたら、陽毬がポンと手を叩き口を開く。   「いいの。長十郎さんだって自分のことを話してくれたじゃない。だから」 「陽毬がいいのなら、俺は構わない」 「ええ。小学校四年の時のことよ」  陽毬が十歳の誕生日を迎えた二か月後、祖母は帰らぬ人となった。  脳出血でそのまま……だったから、昨日まで元気にしていた祖母が亡くなってしまったショックは彼女にとって計り知れない。  だけど、祖母は亡くなった翌日、縁側にいた。  変わらぬ暖かな笑顔を陽毬に向けて、座っていたのだ。  彼女は涙が止まらなかった。そんな彼女に祖母は微笑みだけを浮かべてじっと彼女のことを見ていてくれたのだそうだ。  それから毎晩彼女は祖母の姿を見に、縁側に通う。  祖母はいつも嫌がる顔一つせず、彼女を迎えいれてくれた。  会話を交わすことはできなかったけど、祖母の顔を見ているだけで彼女は癒された。自分の助けとなってくれた。   「でも、このままじゃあ、おばあちゃんは天国に逝けないと思ったわ」 「天国に逝っちゃうと、お祖母ちゃんと会えなくなってしまうじゃないか」 「それじゃあダメ。いつまでも甘えていたら。私のためにおばあちゃんは残ってくれたのよ。いつまでもおばあちゃんを縛っておくことなんて嫌だったわ」 「そっか」 「だけど、おばあちゃんがいてくれて。私はいろんなことをおばあちゃんに話をした。話ができた。会話は通じなかったけど、確かに伝わったと確信しているのよ」 「陽毬に聞こえないだけで、言葉は全部伝わっているよ」 「そうね」  文字通りの意味だったんだが、陽毬は知らないのかな。一方通行だが、霊は生きている人の言葉も聞こえるし姿も見えるってことを。  いや、今突っ込むのは野暮ってもんだ。  陽毬が小学校を卒業した日、彼女は祖母に「私はもう大丈夫だから、天国から見守っていておばあちゃん」と精一杯の笑顔で伝えた。  すると、祖母は暖かな笑みを浮かべたまま、搔き消えるように姿が薄くなり天に登って行ったらしい。   「私が一人で歩けるようになるまで、おばあちゃんはずっと私を見守っていてくれた。甘えているって分かっていてもそれがどれだけ嬉しかったか、支えになったか」 「だな」 「なんであなたが泣いているのよ。おかしい」 「陽毬だって」  泣いてなんかいないやい。  涙目になっているだけだ。陽毬なんてぽろぽろと涙まで流しているじゃないかよ。   「そ、そうだ。陽毬」 「誤魔化しに来たわね」 「う……無粋な質問だけど、お祖母ちゃんを憑依させることはできなかったのか?」 「その通りよ。たぶん、おばあちゃんが望まなかったんだと思う」 「そっか。陽毬のためになることじゃあないって思ったのかな」 「そうかも……しれないわね」  ふわりといい香りが俺の鼻孔をくすぐる。  陽毬が体を傾けたかと思うと、俺の肩に頭を乗せ顔を俺の肩へ擦り付けるように塞ぐ。  どうしていいものか迷ったけど、彼女をそっと抱き寄せ背中を優しくさする。  本当に陽毬のことだけ考えていてくれたんだな。  彼女は俺の胸に顔をうずめ、祖母のことを思い出しているようだった。  しばらくそうしていたら、落ち着いてきたようで彼女は自然と俺の体から自分の体を離す。   「ありがとう。陽翔」 「いや、こっちこそ」 「フェアじゃないと思ったのよ。あなたも長十郎さんも、自分のことをちゃんと話してくれたでしょ。だから私もって」  赤くした目で笑顔を作る陽毬。  なんて可愛い笑顔なんだって思った。俺も彼女みたいに真っ直ぐに生きて行きたい。  みんなすごいよなあ……俺も少しでも追いつけるようにならないとな!   24.  パンパンパン――。  手を叩く乾いた音が響く。  手を打っていたのは長十郎だった。   「心に響く話だった。見事。見事に尽きる。そなたの祖母は」  長十郎は一言一言を切るように感慨深く語る。  余談ではあるが、長十郎の拍手の音へ隼丸が反応し、ひひーんと大きく嘶いた。  出発の合図が何かと勘違いでもしたのかな。   「自慢のおばあちゃんでした」  ふんわりとした笑顔を浮かべ、陽毬は長十郎に応じる。   「陽毬。それがしにも聞かせてくれて感謝する。亡霊となりて以来、人の身の上話などついぞ聞くことなどなかったからの」 「いえ。長十郎さんも牡丹さんのこと、ご自身のことを聞かせてくれたじゃないですか」  陽毬は首を横に振り、「ね」と俺に目配せをした。  対する長十郎は杉の木へ手をやり、空を見上げる。   「それがしは飢えておった。人の営みに。会話に……そなたらには感謝してもしきれぬ」  誰に向けたでもない言葉だったと思う。  数百年の想いは、重みがある。何と返していいのか、悩むよ。  でも、長十郎は俺たちの返答なんて待っていないって分かるんだ。彼の目はここではないどこかを見ているのだから。   「俺、長十郎さんを必ず憑依させてみせます」  無意識に立ち上がり、彼に向けてではなく自分に向けて呟いた。 「だから、気負わない」 「分かっているさ。今のは決意表明じゃないんだよ。自然と口から出た言葉なんだ」 「よく分からないけど、いい顔しているわ。今のあなた」 「え? そ、そう? 男らしかった?」 「それはないわ」 「……」  バッサリと切り捨てられたばかりじゃなく、呆れたようにため息までつく陽毬に無言の抗議を敢行する。  しかし、そんなことで動じる彼女ではない。  結果、ぶすーっとしたまま椅子に腰かける弱い俺であった。   「まあ、いいじゃない。あなたはあなたらしく。それがいいのよ」  俺と顔を合わせないまま、ぼそりと呟く彼女の一言にハッとなる。   「え、それって?」 「何でもないわ。独り言だし」 「お、おう」  急にとげとげしくなってしまった陽毬にこれ以上追及するのはよそうと思う、やはり弱い俺であった。   「陽翔。今日も試すのか?」  長十郎が空に向けた視線を戻し、俺に問いかける。   「明日、お願いします」 「ほうほう。いい目をしておる」  鋭く目を細め、長十郎はニヤリと口元を薄く上げた。  これから大したことをするつもりじゃあないんだけど、勝負は明日にする。  グッと拳を握り、長十郎を挑戦的な目で見つめ返し大きく首を縦に振った。   「陽翔」  陽毬が俺の名を呼ぶ。  彼女の呼びかけに応じる代わりに、繋いだ手に力を込めた。 「明日、また来ます」 「待っておるぞ。陽翔」  グッと手を握りしめ、長十郎へ向ける。  彼も俺と同じように拳を前に突き出してくれた。  まだ帰るに時間は早いけど、今日はこれでいい。いや、これがいい。    帰り道、細い路地まで来たところで陽毬がむすーっと口を尖らせて俺の手を引っ張る。 「ごめん、もうちょっと長十郎さんと喋りたかったよな?」 「ううん。今日で終わりじゃないし、別に構わないわよ」  なんだかツンツンしているよなあ。  彼女は本当に分かりやすい。何か不満に思っていることがあるんだよな?   「アイスクリームでも食べるか? おごるよ」 「機嫌取りにアイスクリームって、まだ肌寒いのに」 「ご、ごめん、じゃ、じゃあ。たいやきで」 「あなたねえ。私は食べ物で釣られるような子じゃないのよ」 「そ、そうか」 「でもまあいいわ。釣られてあげる」  陽毬が握った手を離し、俺の腕に自分の腕を絡めてくる。 「あ、あうあうあー」 「何よそれ。私でも動揺しちゃうの?」 「あ、あうあうあー」 「……えい」  う、うおお。  胸が腕にあ、あたってるう。ブラジャーのせいか、思ったよりは柔らかくない……なんてそんな場合じゃないぞおお。  しっかし、触れているところ全部が、何でこんな柔らかいんだよお。同じたんぱく質で出来ているはずなのに、いい香りがして……。 「ぐえ……」 「やっと戻ってきたわね」 「お、俺は一体何を」 「さあ?」  グイっと俺の体を引き寄せ、そのまま歩きだす陽毬。   「こ、転ぶ。あと、この路地は二人並ぶと狭い」 「じゃあ、もっと寄らないと」 「これ以上、寄れないだろ?」 「まだまだ、陽翔ならまだ行ける。頑張れ頑張れ」 「そ、そんなこと言ったら、抱え上げるぞ」 「嫌らしい。でも、あなたの細い腕じゃあ無理よ」 「い、言ったなあ」  ならば、やってみせようじゃないか。  お姫様抱っことかいうやつを。陽毬は小柄だし余裕だろ。 「ほ、ほら。馬鹿なことしていないで、行くわよ」 「ど、どああ。押すな、落ちる」 「行ける行ける。陽翔なら逝ける」 「最後、何かニュアンスが違うような」 「気のせいよ」  細い路地から抜けたところで、陽毬は俺に絡めた腕を離す。  手は繋いだまま、彼女は地面を見て独り言のとうに呟く。   「ちょっとだけ妬いちゃったのよ。陽翔と長十郎さんの男同士のやり取りに」 「そ、そっか」 「でもね」  陽毬は顔をあげ、こぼれんばかりの笑顔を浮かべた。  いつも控え目な笑顔を浮かべることが多い彼女にしては珍しい、華が咲くような笑顔に不覚にもドキドキが止まらない。   「それ以上にカッコいいなって思った。男の人同士って何だかいいなともね」 「お、おう」  赤面してしまい、今度は逆に俺が地面にご挨拶する形になってしまう。   「さあ、たいやきが私たちを待っているわよ」 「だな。駅前にあったっけ?」 「あなた……場所も知らずに言っていたの?」 「は、ははは」 「分かったわ。とっておきのたいやきを案内してあげる。覚悟しなさい」 「おー。楽しみだ」  前を向き、二人並んで駅の方向へと歩きだした。    ◇◇◇    たいやきでちょっとしたトラブルがあり、思わず大笑いしてしまったところ陽毬に涙目で睨まれヒヤリとした事件はあったが、それ以外は何事もなく家に帰り着いた。  うん、あっつあつのできたてのたいやきだったんだ。  あとは言わずとも想像にお任せする。    食事を食べた後、夜の街に一人繰り出す。  お堂の方でもよかったんだけど、家の近くにちょっとした公園があるんだ。  そこは、ベンチにブランコ一つという公園と呼ぶに物足りなさ過ぎるものだったけど、人通りも少なく丁度いい。   「さてと」  小さな公園にあるベンチに手を伸ばし、砂を払う。  こういう静かで自然の残る場所は必ずと言っていいほど――。    ――うんもお。  ほら、聞こえてきた。  牛ののんびりとした鳴き声が耳に届く。    ベンチに腰掛け、目を瞑り体から力を抜いた。  季節外れの虫の声、狼らしき吠え声、猫のにゃーんという甘えた鳴き声。  いろんな声が聞こえる。  いつの時代に生きた霊たちか分からないけど、それらは確かに生きていた時があり、生前もこうして様々な声を発していたことだろう。  俺は陽毬の言うように気ばかりが先んじていた。  受け入れよう、受け入れようとうんうんと自室で唸るのでは、何も変わらない。  考えを変えるんじゃあなく、肌で感じること。そんな基本的なことさえ忘れていた。   「牛はどんな人に育ててもらったんだろう。畑を耕す手伝いをしていたのかな」    一人呟く。  じっくりと耳を傾けてみて、ようやく気が付いたんだ。  虫や動物の声も長十郎と本質は同じだってことに。     25.  同じだったんだよ。  霊も今生きている人たちも虫や動物たちも。  虫や動物たちにも生きた時代があった。その時も今と同じように当時の人たちと接していたんだ。  それはまるで「その時」を切り取ったかのような、虫や動物の声は当時の様子をそのままに伝える生の声である。 「みんな、必死に生き、そして死んでいった。うん」  どんな時代だったんだろう?  この公園は100年前にはどんな姿をしていたんだろうか。  農地だったのか、それともただの林の中……?  いや、牛がいるのだから近くに農村があったんじゃないのかなあ。  想像してみると、楽しくなってきた。    改めて分かったよ。  動物や虫の声であっても、決して煩わしいものなんかじゃいってことを。 「当時の様子を生で知ることができるなんて、それを俺だけが知ることができるなんて、悪くないじゃないか」  なあんだ。こんなことにも気が付かなかったのか俺は。  本当に馬鹿だよな。  でも、ずっと分からなかったよりは余程いい。    ベンチに座ったまま一時間ほどいろんな「声」を聞いた。 「名残惜しいけど、そろそろ帰るか」  にゃーん――。  最後は猫の鳴き声かあ。  ふふふと笑みを浮かべ立ち上がったところ、街灯に反射した光る二つの球体が見えた。 「あ、猫はリアルだったのか」  昔も今も変わらないんだなあ。猫の鳴き声って。  それが何故だかおかしくて、ついその場で声に出して笑ってしまった。    ◇◇◇    帰宅すると、ちょうど風呂からあがってソファーに寝そべっている妹と遭遇した。   「お兄ちゃん、何だかご機嫌だね。陽毬さんと逢引でもしてた?」 「違うわ! 一人で公園に行ってたんだよ」 「うわあ……」 「何だよ。その顔」  あからさまに嫌そうな顔をしやがって。 「お兄ちゃん、陽毬さんに振られちゃったの? それで一人公園で……」 「違うわ!」 「じゃあ、ぼっちをこじらせ過ぎて、今更中二病を患った?」 「患ってないから」  コロコロと腹を抱えて笑う妹は急に表情を変え、真剣な顔で言葉を続けた。   「お兄ちゃん、悩みがあるなら聞くよ? 言う事言ったらスッキリするし?」 「そうだな。じゃあ、聞いてもらえるか?」 「おっけー」  グッと親指を突き出す妹に苦笑する俺。 「じゃあ、風呂からあがったらなー」 「らじゃー。お兄ちゃんの部屋に行くねー。えっちいのは片付けておかなくてもいいよー」 「……」    本当にこいつはもう……。ともかく風呂に行くとしようか。    ◇◇◇   「ふいいい」  風呂からあがり牛乳を一気飲みした後、自室のベッドへダイブする。  ――コンコン。  するとすぐに部屋の扉を叩く音が響く。   「うい」 「やっほー」 「乗るな、乗るなあ」 「大丈夫。妹は軽いって決まっているもんさー」 「いや、そんなわけないから。人間だもの、それなりに」 「へえ。陽毬さんでも重いのかなあ?」 「……」 「黙っちゃったあ。えっちい」 「おいおい」  妹を押しのけながら体を起こし、やれやれと大げさに肩をすくめてみせた。  対する妹は、ずっとにこにこしたままだ。 「真奈(まな)、えらいご機嫌じゃないか?」 「そらそうだよお。だって、お兄ちゃんから相談事を受けるなんて嬉しいに決まってるでしょー」 「そうなのかな」 「そうだよお。お兄ちゃん、自分のことを家でも余り話をしないし、ずっと何かを悩んでいたでしょ」 「そうだな。うん、そうだよ。そのことで真奈に伝えておこうと思ってさ」  いずれ、両親にも話をするつもりだ。  うやむやにしたままだった、幼き日からのことを。  陽毬の家族のことを聞いたから、家族に話をしようと思ったのかって?  それは無いと言えば嘘になる。だけど、家族に話をしようと思ったのは、俺が「聞こえる」ことを家族に知って欲しいと思ったからだ。  家族には知っていて欲しい。  彼らは俺のことをずっと想っていてくれている。心配してくれている。  だから、俺は彼らに知って欲しい。  上手く言えないけど……。   「へえ。何々ー?」 「顔を寄せ過ぎだ。喰いつき過ぎだろ」 「あははー。ついつい」 「俺さ、漫画みたいだと思うかもしれないけど、霊の声が聞こえるんだよ」 「すごいじゃない! お兄ちゃん、何でそんな素敵なことをわたしに黙っていたのお」 「え? 疑ったりとか全くしないんだな。『嘘―』とか言うと思ったけど」 「そんな訳ないじゃないー。だって、お兄ちゃん、すぐ顔に出るし。わたしを騙そうとしても無理だからね」 「嘘ついたら、気が付いてた?」 「そらねえ。でも、いいじゃない。そんなこと。例えば、そこにえっちい本があるでしょ?」 「い、いや。そこにはない」 「ほら、顔に出た」  こ、この策士めええええ。  俺の秘蔵の書は絶対に守り通す。 「ねえねえ、どんな声が聞こえるの? やっぱり、女の人の金切り声とか?」 「な、なんでそんなホラーなんだよ」 「だってー。霊と聞いたら、ポルターガイストとか悲鳴とか『うらめしやー』を想像しちゃうじゃない」 「そうかもしれない……だけど、そんなホラーなものじゃないかな。カエルとか牛とか犬とかの鳴き声が殆どだ」 「なんだか、庶民的というか地味だね……」 「そ、そうだな……」  二人揃って声をあげて笑う。  この後、深夜まで妹と霊について喋った。彼女は嫌な顔一つせず、俺の話を聞いてくれたんだ。  時に変なことを口走っていたけど、そこは妹だしな。  最後に彼女は「話をしてくれてありがとう」って満面の笑みを浮かべて部屋から出て行った。  一人になった俺は、ベッドに寝転がり天井を見上げる。  天井は豆電球が淡い光を放っていた。何だかそれがとても懐かしい。幼い頃、妹と二人でなかなか寝られない時、天井を見たら今と同じように豆電球が光っていたよな。  妹は「やっぱり家族っていいものだ」と再認識させてくれた。  両親もきっと彼女と同じように、笑いながら「聞こえる」ことについて話を聞いてくれるさ。   ◇◇◇    翌日、二時間目のことだった。 「松井くん、体育館ってどっちかな?」 「え、あ、う? ぼ、僕の名前を?」  体育の授業となると、女子はおらず陽毬に場所を聞くことができない。  誰かについていきゃよかったんだけど、いい機会だから尊敬するぼっちマスターに声をかけてみることにしたんだ。  すると、彼は超上級者らしい反応を俺に返してくれた。 「間違ってたら、ごめん、松井くんで合ってるよね」 「う、うん。僕は松井。君が僕の名前を知っていたことに驚いただけだよ」  一人称が「僕」とは、こ、こいつワザとぼっちを演出しているのか?  いや、そうじゃない。彼の目は泳いでいて、明らかに対人が苦手だと分かる。  そんな彼がよく学校一の美少女とくっついたな。「学校一の」ってのは陽毬の評だけどな。   「俺は日向(ひなた)。二日目になっちゃって挨拶が遅れてごめん。よろしく」 「う、うん。よろしく」 「よかったら、体育館まで案内してくれないかな」 「うん」  慌てて立ち上がったから、少しつんのめってしまう松井。  だけど、彼はぎこちない笑顔を俺に向けてくれた。    体育館に行く途中、ずっと黙ったままの松井へ俺から声をかける。   「ごめん、迷惑だったかな……」 「そ、そんなことないよ。ちょっと嬉しかった。僕、こんなだからさ」 「俺さ。松井くんが一番声をかけやすいと思ったから。声をかけちゃったんだ」 「え? 僕が?」  松井は心底驚いたように目を見開く。 26.  「俺、前の学校ではぼっちで。親しい友達もいなくてさ。でも、俺も少しは変わらなくちゃと思って」 「そ、そうなんだ。僕もずっとここで一人だったんだ」  うん、知ってる。松井のぼっちスキルを見たらすぐ分かるさ。  俺もぼっちの端くれ。それくらいすぐに察することができる。  でも俺は彼がぼっちだから、彼をぼっちから救ってやろうとかいう気持ちで声をかけたわけじゃない。  自分勝手で申し訳ないけど、彼に声をかけたのは自分のため。  彼に言った通り、俺も変わろうと思ったんだ。俺はずっと人と接するのが、面倒で一人の方がいいと思っていた。    だけど、陽毬、長十郎、牡丹と関わるうちに人と接することも楽しいと考えるようになれたんだ。  だから、他の人とも会話を交わしてみたい。その人がどんなことを考えていて、どんな顔を見せるのか知りたいって。    それなら、人当たりがよくて社交的な人に声をかければいいじゃないかと思うだろ?  俺だってそう思う。だけど、元ぼっちの俺からしたらハードルが高すぎて無理だった。  ごめんな。松井くん。同じオーラを感じた君しか、話かけることができなかった……。   「日向くんはすごいや。僕も雨宮さんと話をするようになって、他の人にもって思ったことはあったけど……」 「雨宮さんって超綺麗だよな」 「そ、そうだよね。僕みたいなのとよく」 「いや、そうじゃない。そうじゃないよ。松井くん。要はここだろ?」  ドンと自分の胸を強く叩く。  でも、その言葉は実のところ彼に向けたものではなく、自分に向けたものだった。  俺なんかと……なんて考えるまい。  一緒に歩いていて周囲がどう思うかなんて関係ないだろ?   猫のような目をした少女の顔を思い浮かべながら、グッと拳を握りしめる。   「うん。雨宮さんもそう言ってくれた」 「ははは。いい子じゃないか。妬けるぜ」 「あ、う、うん」  何となく雨宮が松井のことを好きになった理由が分かった気がした。  彼は素直で何事にも一生懸命なんだろうなと。そんな彼に雨宮は惹かれたのだろう。  俺も頑張らなきゃな。    体育の授業が終わってから、教室まで向かう廊下でばったりと雨宮に会ったんだ。  松井と会話しながら歩いているところでさ、彼女、固まって手に持っていた小さな鞄を床に落としてしまっていた。  そこまで驚かなくてもいいのに……ちょっと松井が不憫になったが、彼は彼でてへへと頭をかいていたし、いいのかこれで?    ◇◇◇    ――放課後。  あっという間に放課後になり、「さあ帰ろうか」というところでグイっと肩を掴まれる。   「陽毬?」 「ちょ、ちょっと、聞きたいことが」 「こ、ここ、教室、ちょっと恥ずかしい……」 「あ、そ、そうね」  俺も教室の中で「向井さん」じゃなく「陽毬」と呼んでいるけど、こいつは初日からそうだし。  だって、「向井さん」と呼ぶと陽毬がツンツンしてしまうから仕方ない。  陽毬はと言えば、さすがに距離感が近すぎたと自分でも思ったらしく、手を離し距離を取る。    そのまま下駄箱まで来たところで、彼女は俺の二の腕をグイっと掴む。  どうやら我慢できなかったらしい。まあ、ここならまだましか。   「どうしたんだよ? そんなに急な用件なのか?」 「雨宮さんから聞いたわよ」 「ん?」 「松井くんと親しげに歩いていたって」 「あ、ああ。そんなことか」 「そんなことかって何よ。良かったわ。あなたに友達ができて」 「そっちかよ! 俺だって友達の一人や二人くらい」  ごめん、欲張り過ぎました。  でも、少しくらい虚勢を張ってもいいじゃない?   「私がいるから、あなたが友達を作り辛いんじゃないかって」 「大丈夫だ。そこは全く心配しなくていい」 「え?」  何故かそこで頬を朱に染める陽毬。 「元より俺は前の学校からぼっちだ。そこは心配するところじゃない」 「もう!」  な、なして通学鞄ではたかれないといけないのだ。  理不尽だ。 「き、着替えたら、長十郎さんのところで待ち合わせな」 「分かったわ」  ぷんすかしつつも陽毬は快く了承してくれた。    ◇◇◇    いよいよだ。  自然と陽毬と繋いだ手に力が籠る。  古びたお堂を見上げ、一人頷く。  今日は陽毬の方が到着が早かった。着替えに時間がかるとかそんなことはないようだ。  昨日彼女の到着が遅かったのは買い物をしていたからだしさ。   「陽翔?」 「あ、ごめん。行こうか」  お堂から視線を外し、陽毬に微笑みかける。  彼女はふっと可愛らしい息を吐き、猫のような瞳を俺に向けた。   「うぐ」  パシーンと彼女に背中を叩かれ、変な声が出てしまう。   「だから、気負わない。ね?」 「分かってるって。ありがとうな」 「景気つけよ。どう? 力は抜けた?」 「おう、バッチリだ」 「きゃ」  繋いだ手を思いっきり振り上げると、ビックリしたのか陽毬が小さな悲鳴をあげる。  たじろく彼女の女の子ぽい仕草にちょっとだけ可愛いなと思ってしまう。   「な、何よ」 「いや、何でも」 「その顔」 「だああ。つねるなつねるな」 「ふん」  二の腕とかならともかく、今時頬っぺたをつねるとかどんな時間軸で生きてきたんだよ。  全く……でも、新しい世界に目覚めそうだからそれ以上はやめてくれよな……。    お堂の裏まで来たところで、長十郎が正座して俺たちを待っていた。   「よくぞ参った」 「そんなかしこまらなくても……」  困惑した表情を浮かべると、長十郎はカカカと愉快そうに笑い言葉を返す。 「ふふふ。ついな。そなたの気合に少しでも応じたいと思ったのだ」 「早速ですが、はじめさせてもらっていいですか?」 「もちろんだとも。よろしく頼む」  陽毬と目を合わせ頷き合う。  二歩前に進み、手を伸ばせば長十郎に触れることができる距離になる。    目を瞑り手を――  伸ばす。    長十郎の肩に触れると、冷気を感じた。  冷気は手から俺の体の中心へと奔る。悪寒とは違う。  何と言えばいいのか、風呂で体の表面から芯までぽかぽかしてくるのと逆の感覚と言えばいいのか。  ひんやりとしているけど、決して居心地の悪いものじゃあない。  暑い夏の日に感じる木漏れ日の下で感じる涼しさみたいな……。    その時突如、目を閉じているはずなのに視界が開ける。  柔らかな木漏れ日が差し込む林の中。  切り株が二つあり、ここだけちょっとした広場みたいになっている。周囲は背の高い木で囲まれ、そこから光が差し込んでいた。   『不可思議なこともあるものだ』  長十郎が切り株に座っていた。さっきまでいなかったはずなのに、不意に姿を現したんだ。   『長十郎さん、どこなんでしょう、ここ?』 『それがしにも分からぬ。そなたの中ではないかと想像するが』 『なるほど。そう考えるとしっくりきます』  長十郎の言うようにここは俺の心の中にある想像の世界だと俺も思う。  だけど、妙に鮮明な風景で本当にここが現実じゃあないと言われてもにわかには信じられないんだ。   「陽翔。どう?」  青い空の上から陽毬の声がハッキリと聞こえる。  空の上といえば相当な距離があるはずなんだけど、陽毬の声はまるで俺の隣にいて話しかけているよう。    そういや俺、目を閉じていたんだったな。  目を開くと、ドアップな陽毬の顔。  俺はと言えば、片膝をつき長十郎へ手を伸ばしていたままの姿勢だったんだけど……彼女が床に手をつき俺を見上げるように。  浅く呼吸する彼女の吐息が俺の鼻にかかる。   27. 「あ、あの……」 「何?」 「そこで喋ると……」 「へええ」  陽毬が嫌らしい笑みを浮かべたところで、思わず目を閉じる。  すると、また先ほどの林の中の広場が視界に広がった。   『長十郎さん、だいたい分かりました』 『ほうほう』  切り株に腰かけたままの長十郎へ向け指を一本立てる。 『ここは俺と長十郎さんが会話できる脳内空間とでも言えばいいのでしょうか。そんな感じです』 『確かにそなたとそれがしはここでお互いに会話が成立するでござるな』 『きっと、陽毬と手を離したら風景は一切見えなくなると思います』 『ふむ』 『でも、声はきっと聞こえます。真っ暗な空間になるかもしれませんが……』 『相分かった。外が見えぬのが残念だがのお』 『俺が目を開けている時も見えませんでした?』 『目を開けている時とな。再びやってくれんか?』 『分かりました』  言われるままに目を開ける。 「長十郎さんと頭の中で会っているのね?」 「ちょ、ちょっとだけ離れてくれると嬉しい……」  何でそのままの体勢なんだよお。  こんなんじゃ、動揺するだけで思考が鈍るだろ。 「嬉しい癖に」 「嬉しくないわけじゃないけど、こう、ほらさ」  漂う香りだけでもクラクラきそうになるのに。  勘弁してくれよ。全く。   「ふうん。まあいいわ。ちゃんと長十郎さんと会えているなら良しよ」 「陽毬も頭の中で牡丹さんと会っていたんだな」 「そうよ。それで、長十郎さんに手を触れてみなさい」 「分かった」  再び目を閉じ、長十郎の前に戻ってきた。 『長十郎さん、握手をしてもらえますか?』 『もちろんだとも』  握手をすると、視界が外に切り替わった。  だけど、体が勝手に動いている。   「こ、これは珍妙な……」 「長十郎さんですか?」  俺の口が俺の意思とは関係なく動く。  なるほど、俺の体を動かしているのは長十郎か。  陽毬がにこやかにほほ笑み、俺の中にいる長十郎へ問いかける。 「如何にも、そうでござるが。この体は陽翔のもの」 「うまく行ったようですね」 「これはそなたらの力か?」 「はい。私と陽翔が手を繋いでいる時だけ、長十郎さんが外に出てくることができます」 「陽翔に体は戻るのか?」  長十郎の焦る気持ちが頭の中に直接伝わってきた。  体を貸している間は、彼の心の内が手に取るように分かるのか。  万が一でも俺に体の主導権が戻らなかったら、と思う彼の優しい気持ちに心が暖かくなる。  ずっと杉の木の下で、自由に歩きまわりたいと思っていただろうに、彼にとってある意味これはチャンスだ。  だけど、彼はそうしようとしない。  ただ俺の体の心配だけをしている。   「はい。陽翔が目を開ければ元に戻ります。体から出る時は、自由に出ることができます。長十郎さんが陽翔の体から『出たい』と念じるだけです」 「ほうほう。目を開けてくれ。陽翔」  聞こえるままに目を開けると、体を自由に動かすことができるようになった。  なるほど。面白い仕組みだ。 『このまま移動できそうですし、長十郎さんに外の景色を見てもらうこともできますね』 『そなたらの気遣い。それだけでそれがしは充分だ』 『そう言わず、たまには連れ出させてくださいよ』 『そなたが構わぬのなら、それがしは大歓迎だぞ』  切り株に座ったまま、腕を組み朗らかに笑う長十郎であった。   『それではそろろろ、それがしはここからお(いとま)するとしよう』  そう言うや否や、長十郎の姿が忽然と姿を消し、それと前後して木漏れ日の世界が消えて行く。  目を開けると、またしても陽毬の顔が。   「だから、近いって」 「ワザとよ。あなたの反応が面白くて」 「長十郎さんもいるんだし、もうちょっと、ほら」 「へえ。二人きりならって、いやらしい」 「何でそうなる!」  ダ、ダメだ。  からかわれていることは重々承知しているが、つい彼女の言葉に乗っかってしまう。   「面白い体験をさせてくれて感謝するぞ。陽翔、陽毬」  定位置の隼丸の隣に立つ長十郎が改めて感謝の意を述べた。 「また来ますね。さ、行くわよ。陽翔」 「え?」 「ほら、宿題を終わらせないといけないでしょ。ひょっとして、お勉強が得意だった?」 「いや、全く」 「それ自慢するところじゃないからね」  何て言いつつ、陽毬は長十郎にペコリとお辞儀して俺の手をグイっと引っ張る。 「また来ます。長十郎さん」  軽く片手を振り、俺も長十郎へ別れを告げた。    ◇◇◇    陽毬が先行し、グイグイと引っ張られながら細い路地の外まで出て来る。   「ど、どうしたんだ? 宿題なんて夜にでもできるだろ」 「全く……鈍いわね」 「な、何が?」 「いい? 陽翔は無事、長十郎さんを憑依させることができた。ならどうするの?」 「えっと、二人を桜並木のところまで連れて来て……あ、あああああ」 「やっと気が付いたようね」  桜並木に二人を連れ出すことで頭が一杯だった。  じゃあ、桜並木って一体どこにあるんだ? と言われると……ハテナマークが。  それに、連れ出す日は俺と陽毬が別々に行動しなきゃならない。土地勘がある彼女に道案内を任せるってこともできないんだ。  桜が散るまでにまだ時間は残されているけど、どうせなら満開の内に二人を会わせてあげたい。  となると、善は急げってわけか。 「まずは電車に乗りましょう」 「ん?」  陽毬に何か考えがあるんだな。ここは素直についていくとするか。    到着した先は葛城駅だった。  牡丹がいる公園がある駅だ。   「なるほど。やっと分かった。さすが陽毬だな」 「でしょ。さすが私! 褒めていいわよ」 「すごい、陽毬。さすが、陽毬。さすさす」 「酷い、余りに酷いわ……」 「すまん……」  褒めろと言われて、なかなかいい言葉が浮かばなかった。   「ほら。これで我慢してあげる」  陽毬は立ち止まって首を俺の方へ傾ける。  すると彼女の頭が俺の方へ少し寄って……。    なでなで。  開いた方の手で彼女の頭を撫でると、彼女は気持ちよさそうに目を細める。 「良し。行きましょう」 「おう。目指すは葛城城だ」  長十郎と牡丹の思い出を今に伝える葛城城が見えるところってのは、二人にとって良い場所だと思う。  あとは城の近くに桜がないか探すだけだ。    ◇◇◇   「ただいまー」  あの後、バッチリの場所が見つかったので牡丹に会ってから帰宅することとなった。  まだ早かったのか、誰も帰宅していない様子。  一人リビングにあるソファーに座り、何気なくテレビをぽちっとつける。    ニュースで花見客の特集が組まれていて、ああ、春だなあと思っているうちにいつしかウトウトしてきて……。   「お兄ちゃん、そろそろ起きたらー?」 「重い」 「ご褒美でしょー。妹に乗っかられるのって」 「いや。それは無い。空想と現実は違うのだ」 「ひどーい」 「分かったから、どいてくれ」 「もうー」  妹を押しのけ、体を起こす。  ふあああ。  随分眠っていたようで、既に父が食卓でご飯を食べていた。   「どうだ? 陽翔。新しい学校は?」 「順調。勉強以外はさ」 「そうかそうか」  父親は愉快そうにビールをごくごくと飲む。 「陽翔、お友達はできたの?」 「ちょっと、お母さん、それは」  分かっている妹が母親を諫めるが、俺は肩を竦め言ってやった。   「うん。友達はもうできたよ」 「え、ええええ! 事件、事件よ。お母さん」 「ちょっと、陽翔も友達の一人や二人くらいすぐできるわよ。ね、陽翔」 「そうそう」  ははは。  立ち上がり、炊飯器からご飯をよそう。   28. 「今日は一人なのか? 珍しい」 「陽毬はちょっと居残りで」  翌日学校が終わった後、着替えをしてすぐにお堂へやって来た。  陽毬がいないから、長十郎の姿は見えない。  だけど、声はちゃんと聞こえるから心配することなんて一つもないんだぜ。  不思議と落ち着く低い声を聞くのも今日で最後になるかもしれないと思ったら、感慨深い。   「長十郎さん、俺に憑依して頂けますか?」 「もちろんだとも。聞かずともそれがしはいつでも構わぬぞ」  腕を組みカッコよく頷いているんだろうなと自然と彼の姿が想像できた。  手を伸ばすと、冷たい感覚が指先から入り込んでくる。   『長十郎さん、移動しますよ』 『ほう。今日はどんなものを見せてくれるのか楽しみじゃな』  正直、ここまであからさまに怪しいと長十郎だって俺たちが何をやろうとしているのかを察しているかもしれない。  だけど、彼の想像の上を行ってやろうじゃないか。   『ほおほお。お主の企みが成就するのを待つとしよう。ここは何も聞かぬぞ』 『は、ははは……』  時折長十郎と会話するために目を閉じつつも、葛城駅までやって来た。  さあて、陽毬はうまくやっているかなあ。  そいつは愚問ってもんだろう。俺ができているんだ、彼女に対して心配することなんて何もないさ。    ◇◇◇    葛城城正門から右手に道を折れ、お堀沿いに進んで行くと城の反対側に出る。  そこから城と反対方向の道は――。  両側に満開の桜が並ぶ、桜並木があるんだ。    時折強い風が吹くと桜の花が舞い落ち、淡いピンク色がとても美しい。   「陽翔!」 「陽毬!」  手を振る陽毬の姿が見える。  すぐに彼女の方へ駆け寄った。すると彼女から俺の手を握ってくる。  うう、俺から握ろうと思っていたのに。   「じゃあ行くわよ。せえの」 「おう!」  二人同時に目を瞑った。 『長十郎さん、変わってください』  切り株に腰かける長十郎へ手を伸ばす。 『相分かった。どんな光景を魅せてくれるのか』  ニヤリと口角を上げ、長十郎が俺の手を取る。  目を閉じたままだが、長十郎が俺の体を通して見える風景が俺の瞼の裏に浮かんできた。    目の前にいるのは、もちろん陽毬だ。  だけど、どこか雰囲気が異なる。いつもの陽毬じゃあない。  どこか儚げで消え入りそうな雰囲気を彼女から感じることができた。   「陽毬?」 「陽翔様?」  お互いにお互いの名を呼ぶが、二人ともそれだけで何かを察したようだ。  桜の花びらが陽毬のふわっふわの茶色い髪の上に落ちる。  桜の花びらを落とそうと、長十郎が俺の手を動かし彼女の髪の毛に触れた。    その時、冷たい何かが俺の体を駆け抜けたんだ。 「牡丹、牡丹なのか」 「長十郎様! あなた様は長十郎様だったのですね!」 「牡丹、ああ、牡丹。その黒い艶やかな長い髪、間違いない。それに、小柄をずっと持っていてくれたのだな」 「はい。もちろんです。長十郎様。ずっと、ずっとお待ちしておりました」  抱きしめ合う二人。  よ、陽毬の体の感触が俺の全身に伝わってくる。  俺には陽毬にしか見えないけど、長十郎からは牡丹の姿が見えているようだった。  体を離し、長十郎が真っ直ぐに陽毬……牡丹の顔を見つめる。  引き寄せられるように牡丹が再び長十郎の胸へ飛び込もうとするが、長十郎が優しくそれを制する。   「少し、歩こうぞ。牡丹。これほどの桜。なかなか見られるものではないからの」 「そうでございますね。この世のものとは思えぬほど……美しいです」 「そうでござるな」  桜並木を歩く二人。  道半ばまで来たところで、二人は道から桜の木の下へ移動する。  桜の木を見上げれば、舞い散る淡いピンク色と枝が揺れ小さく震える桜の花びらが目に映った。   「本当に美しい。夢にまで見た。ずっと夢に見てきた」 「私もです。長十郎様」  そっと長十郎へ寄りかかり、牡丹も彼の言葉に同意する。   「すまぬな。牡丹。某は伝令の帰りで事故に遭い、そのまま亡霊となってしまったのだ」 「いいんです。理由なんて……。あなた様と今ここで再び出会えた。それだけで牡丹はもう……」 「そうか。ならばそれがしも聞かぬ。今ここでそなたに出会えたこと。それが全てだ」  ギュッと抱きしめ合い。  お互いに息がかかるほどの距離で見つめ合う。本当に優しい笑顔だった。  きっと今の俺も彼女と同じような慈愛溢れる笑みを浮かべているのだろう。    牡丹の顔が更に近づき、お互いの唇が触れる。  ぎゅううっと牡丹を抱きしめる長十郎。  短いようで長い口づけが終わると、二人は顔を離す。   「陽翔。そなたの『企て』、見事というより他はない。陽毬。何故そなたが、憑依していた霊の扱い方を知っていたのか疑問は全て晴れた」  俺の口から長十郎は中にいる俺と陽毬に向けて呟く。  このまま喋っているのは、陽毬にも聞こえるようにだろう。   「長年の夢が叶った。もうそれがしには思い残すことなどありはせぬ。亡霊と成りたその日から、ずっとこの身はこの日のためにあったのだろう」 「陽翔様、陽毬様。私も同じ気持ちです。本当にありがとうございました」  そういってほほ笑む牡丹からは、儚さを微塵も感じさせなかった。  心からの笑顔、ひまわりのような。暖かで朗らかな。そんな笑顔だった。    牡丹の笑顔に感動していると、ふっと俺の中から何かが消えた。  驚いて目を開けて閉じるが、真っ暗で何も見えない。  先ほどまで確かにあった切り株も長十郎も、何も……無かった。   「成仏したのよ」  陽毬は俺の胸に顔をうずめ、俺の背中に回したままだった腕に力を込める。   「そっか、彼らは昇れたんだな」 「そうね。やったのよ。私たち」 「そうだな。喜ばしいことだけど、何だか少し寂しいな……」 「うん……だからもうちょっとこのままでいさせて」  嗚咽をあげる陽毬に俺も胸が締め付けられる思いだった。  嬉しいことなのに、どうしてこう物悲しいんだ。 「長十郎さん、牡丹さん。言い方が変かもしれませんが、どうか天国でもお幸せに」  天に向かって、一人呟く。  ◇◇◇    何だか心にぽっかりと穴が開いた気持ちのまま、自宅に帰り着いた。  すぐに食事をする気にもならず、自室のベッドに寝転がる。   「あああ。どっと力が抜けた感じだなあ」  ぼーっと天井を眺めていたら、ある事に気が付いて頬が真っ赤になってしまった。   「そ、そういや、中身は牡丹さんだったとは言え……うわあ、うわあ」  抱きしめただけじゃなく、そ、その陽毬とチューして、そればかりでなく……し、舌まで……。   「あ、あああああああ」 「ちょっと、お兄ちゃん、音量落としてー」  隣の部屋から壁越しに妹の声。  う、うわああ。  聞かれてた。  そのままベッドでゴロゴロ悶えていたら、ベッドから落ちた。   「痛てて」      頭を押さえつつ、立ち上がる。  こんなんでどんな顔して陽毬に会えばいいんだよお。  明日、必ず学校で会うってのに。いや、その前に駅前で会うじゃないか。  初日からそのまま彼女と駅前で待ち合わせして、一緒に学校へ通っているのだもの。  しかし、時の流れとは残酷だ。  寝て起きたら、すぐに登校時間となる。   「行ってきます」  家の入口扉を開け、いつものように家を出た。  事ここに至ってもうんうん唸りながら、ついに駅前まで来てしまう。     いた。  小柄なふわりとした茶色の髪の制服姿の女の子が。   29.エピローグ 「おはよう」  俺に気が付いた陽毬が右手だけをあげ、挨拶をしてくる。   「お、おはよう」 「声が小さいわね。相変わらず」 「だ、だって、人がだな」 「ほんとにもう、周りを気にするのね」 「そら、なあ」  変わろうと思っているけど、そんなすぐにこれまでの習慣が消えるわけじゃあない。  陽毬ははああとため息をつくが、俺は見逃さなかった。  彼女の前髪を留めているヘアピンに。   「桜の花?」 「よく気が付いたわね。牡丹さん、桜の花びらが好きだったじゃない」 「それ買ったんだ」 「うん、帰りに100均でね」 「それなら、お、俺も」 「俺も?」 「最後まで言わせなくても分かるだろ」 「えー。分からないわー」  ワザとらしい態度をおお。   「選ぶなら俺も一緒に行きたかった」  ぶすうと彼女から顔を背けつつも、結局は口に出す弱い俺である。   「あはは。そうよ、最初から素直になれば可愛いのに」 「俺、男なんで可愛いってのはちょっと」 「まあいいじゃない」 「ははは」  陽毬はいつも通り変わらない。  あんなことがあったってのに。彼女は全く気にしていないのかな。それはそれで少しショックだ。   「何を暗い顔をしているのよ」 「あ、その、昨日」  「昨日」というキーワードでかああっと真っ赤になる陽毬。  ブルブルと首を左右に振り、大仰な仕草で俺を指さす。   「あれはノーカンよ。ノーカン。だって、あの時は私は牡丹さん、あなたが長十郎さんなんだから」 「そ、そうだな」 「まさか、あの時のことを想像していやらしいことをしていないでしょうね」 「してないわ!」 「そう、ならいいのよ」  ふんと鼻息荒くそう言い放った陽毬は、一歩前に出て振り向かずに声を漏らす。   「……したいなら、ちゃんと挑んできなさいよ」 「お、おう。高そうなハードルだけど……」 「そんなことないわよ。あなた次第よ」  と言いつつ俺の横に並び、極上の笑顔を浮かべる陽毬にドキッとした。  やっぱり、彼女はとんでもなく愛らしく、可愛い。  口は悪いけど。   「何か変なことを考えていなかった?」 「いや、何でも」 「全くもう」 「ほら、早くいかないと遅れるぞ」  「ほらほら」と前を指さす俺の反対側の手をそっと握りしめる陽毬に笑顔を向ける。 「ん?」    通学中なんだけどと彼女に目を向けたら、彼女は涙目で俺を睨みつけてきた。 「いいから進みなさい」 「へいへい」  二人並んで、通学路を進み始める。  その時、どこから飛んできたのか一枚の桜の花びらが俺の肩に止まった。      おしまい。
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