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厳かな読経が響き、線香の香りが悲しみにくれる心の浄化を誘うように、天に昇っている。祭壇には萌がお気に入りか定かではないが、佐伯家に40年お仕えしている家政婦 中村トキ(68歳)がどうしてもこのお写真でと涙ながらに頼んだ成人式の遺影。真っ赤な振袖をまとい緊張気味な笑顔が、色とりどりの花の中で、少し居心地が悪そうに感じられる。
「翼、萌におわかれしよう」
空は 翼の手をギュッと繋いで萌の顔を覗き込んだ。涙がとめどなく流れてくる。
「萌……さみしいよ……」
空は震える手で、菊の花を萌の顔の横にそっと入れた。
翼も菊の花を萌の顔の上に入れた。が、じっと萌の顔を食い入るように見つめている。
「ううっ」
嗚咽を漏らしながら、空は翼の手を引いて席に戻った。
「お母さん、もえちゃん、寝てるんやろ」
「萌はな、天国に行ったんやで……うううっ」
空は翼が小さくて死を理解してないが故の言葉を聞いて、刹那さが増していた。
「お母さん、ちゃうで、もえちゃん寝てるんやって」
周囲に聞こえるぐらい大きな声を出して、ついに翼は席を立っていた。
「翼っ」
萌がいなくなったことを信じたくないのか、駄々をこねはじめた翼を空は抱きしめた。
「お母さん、もう、ほんまやって」
翼は空の手を振りほどいて、萌の棺桶へ走って行った。
「ちょっと、翼っ」
最後のお別れも終わり、出棺の準備が始まろうとしていたが
「もえちゃーん、もう起きたやろ。もえちゃーん」
無邪気な翼の行動に参列者のすすり泣き声がパワーアップしている。
家政婦トキが走ってきた翼を抱きとめた。
「翼ちゃん、ありがとうね。もう一度お嬢様にお顔見せてあげて」
トキは駆けつけた空に優しく頷きながら、3人は棺桶の小窓を覗き込んだ。
「ぎゃあー、さっきとちゃうーもぉえー」
空の叫び声が厳かな空気を切り裂いた。
「おおおおお嬢様ぁーお顔が、お顔がぁ」
トキは心臓を抑えながら小刻みに震えている。
「ちょっ、この蓋はよどけて、救急車ぁーはよぉー」
空は待ちきれないとばかりに、 棺桶の蓋を持ち上げてガシャンと前に落とした。
「萌っ、萌ってアンタ生き返ったんか」
最後のお別れの時は瞳を閉じ楚々とした表情の萌だった。が
今は唇が右斜めにひん曲がって顔は横を向いている。眉間にシワが寄って
もがき苦しんでいたのが一目でわかる。
空は萌の鼻の穴の綿を取り出した。人工呼吸しようとしたが
「口ぃーどーなってるんや」
口が開かない。何かでくっつけられている。空は萌の鼻の穴に口をつけて
息を吹き込んだ。
萌の鼻から息がフーと出てきた。
「萌、萌」
「もえちゃん、もえちゃん」
「お嬢様」
萌の目がうっすら開いてる。
「萌っもう大丈夫やで。なんやこれ」
萌の手を強く握ったら、違和感が
「結ばれてる……体もか」
最後のお別れでは気づかなかった。花が周りに敷き詰められていたから。
透明なテグスで動かないように結ばれていた。
側にいた 斎場の職員に
「こんなことするの」
「いいえ、しません。誰が……」
空と職員は険しい顔で見合わせた。空はすぐに
「警察に電話して。これ……殺人や」
空の衝撃的な一言で、厳かで厳粛な斎場は、アリの巣を突いたように、黒い者たちが右往左往走り回っている。
「もえちゃん、ねてただけやったやろ。やったぁー」
翼は青いベストを着ていた。黒い者たちの中で一人だけぴょんぴょん跳ねて、くるくる回る様は、イソップ童話のキリギリスのようだった。
救急隊が到着するまで、空とトキは、鬼の形相で萌をガードして誰も近付けなかった。まるで、女王アリを守る、兵隊アリのように。
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