紫陽花の前で

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大学生活はあっという間だぞ… そう、高校の恩師が言っていた言葉を、4年ぶりに思い出した。 確かに、この4年間、本当にあっという間であった。 この4年、短かったが、濃かったように思う。 俺はサークルで知り合った、同い年の池田 悠美に、1年生の頃から想いを寄せ続けていた。 一番、〝仲の良い〟異性だったように思う。 仲の良い…止まりだった。 二人とも無事に内定が決まって、二人で遊びに行く機会も多くなった。 その都度、彼女が想いを寄せている人の話をする。 俺にその話をすることに、特に抵抗はないようだった。 …仲の良い異性だから。 悠美からしたら…俺は良い恋愛相談相手。 それを知りつつ、遊びに行っていた。 昨日、卒業式を迎えた。 そこで、彼女とその想いを寄せている彼が、付き合っているということを知る。 …遊びに誘うのをやめようと思った。 「本気っぽいよ、二人とも。時期も時期ですぐにでも籍入れそうな雰囲気」 友達が、無慈悲にも言う。 それはそうだろう。 この俺の悠美への想いは…誰にも言っていないのだから。 それを聞いて良くない心持ちになったところで、それを隠すのには慣れた。 きっともう、会うことはないのだろうと思っていた──── だが、6月、忘れもしない6月の16日。 『久しぶりにまた会いたい。二人とも誕生日が近いし』 誘いは、悠美からだった。 別れたのか? 彼氏とうまくいっていないのか? 理由はともかく、悠美に会いたいと言われたからには会う。 6月16日、雨だった。 二人で会い、鎌倉へ一緒に行った。 二人とも、誕生日は6月だった。 お互いにおめでとうと言い、ランチを食べる。 前までと、変わらない雰囲気。 やはり会うと、美しいと思う。 この3ヶ月…考えてはならないと思いながらも、寂しいとどうしても思ってしまった。 悠美は、いつまでも、特に彼の話をしなかった。 ランチを終え、長谷寺に観光へ。 紫陽花が綺麗に咲いていた。 あたりは、写真を撮る夫婦が多数。 見よう見まねで写真を撮っている時、途端悠美がつぶやくように言った。 「結婚したいな」 なんて返したか、記憶が曖昧だった。 ただ、目の前に広がる紫陽花の紫が、グロテスクに見えたことは鮮明に覚えている。 瞬間誓った。 今日で会うのは最後にしよう。 その彼とは、交際は卒業式の前くらいだったらしいが、〝恋愛として〟仲が良かった期間は、俺とほぼ変わらない、1年生の頃から。 ハナから俺はオトモダチ。 …確か、頑張れよって、返したのかな…。 彼女の住むアパートの最寄駅。 職場が大学からそう遠くない場所になった悠美は、大学時代から一人暮らししていたアパートに、そのまま住んでいた。 何度も送った帰り道。 雨は、酷くなっていた。 ダラダラと、一緒にいる時間を伸ばせば伸ばすほど…離せなくなる。 ひどく降る雨が、駅の改札を抜けるのを拒む思いを強めた。 「ごめん、今日はここで」 「あれ、そうなんだ。ありがとうね」 朝から迎えに行ったから、彼女は、そう言えば傘を持っていなかった。 …気にしないようにした。 あの何気ない言葉の残酷さに比べれば…。 ────長い時間が経った。 連絡も絶った。 彼女の様子がわからない1年間。 きっと、幸せになっててくれ。 悠美を忘れるために、職場で出逢った1つ年上の女性と交際を始めた。 やっと、記憶から薄れていく感覚があった。 別れから、1年が経ち、また6月。 突然携帯が明るくなる。 悠美だった。 『久しぶりに、また会いたい』 あの時と、同じように、悠美は俺を誘った。 ちょうど1年。 6月16日。 朝から、悠美を最寄駅まで迎えに行く。 その最寄駅が変わったことに、その時は喜びの方が強くて、特に違和感を感じなかった。 再会の瞬間、蘇る懐かしい淡い記憶。 彼女がいるのに、こうして誘われて、また悠美に会ってしまっている自分が、情けなかった。 自ら誓ったと言うのに。 だが、悠美に会いたいと言う思いが、結局勝った。 彼女の容姿は、少し変わった。 ほんの少し伸びた前髪は、まつげにかかって、大人の色気が増して感じられた。 綺麗な手の、細い指先、鮮やかに紫色に塗られたマニキュアが、目に飛び込んでくる。 あの時の紫陽花を思い出して、俺はまたグロテスクな光景を思い出す。 この1年、自ら離れた。 俺が知らないうちの、彼女の変化を見て、自ら離れたことを後悔した。 だが…離れざるを得なかったのは事実である。 ディナーに選んだお店は、窓際の席で。 プランターには、紫陽花が、あの日のように咲いていた。 少し大人ぶりたくて、お洒落な店を探してディナーを食べた学生時代。 あの頃と、変わらないようでいて… 悠美は今日は、容姿だけではなく、少し違った。 やたらと、過去の話をする。 楽しかったねと、笑う。 そして、俺は悟る。 悠美が、俺を呼んだ理由を悟る。 この1年、妥協して、忘れるために他の恋愛をして…やっと記憶から抜け出せる、と思った矢先、また会っている。 俺もいい加減…。 彼女は、真実を言い出せないようであった。 無理に口から発させる必要はないと思った。 その、言い出しづらいことが分かっただけで、悠美が、俺が悠美のことを友達としか思っていなかった、と言うことを否定出来た。 それだけで嬉しかった。 最寄駅が近づく…。 今度は改札を出て、それでも出口で足を止めた。 「ここまで?」 「そうだね」 「それじゃあ…またね」 ────嘘だ。 気付いていた。 左手の薬指の、ほんの少し、他より色が薄い一部。 日焼けの後。 俺に気付かれないように…隠した、些細な工作。 悠美は、もう俺に会わないことを誓っていた。 あの時の俺と同じように。 過去を振り返り、懐かしむ悠美の目の奥を見れば、それを察するのは容易だった。 彼女は…嘘をつかない子だ。 正直な子だった。 俺の前で…またねと、最後に嘘をついた。 その最後の嘘は…優しい嘘だった。 何度も君を送った帰り道を、何気なく歩いた。 角を曲がってすぐ、あのアパートの…君を何度も送ったあの部屋。 今は違う人の気配。 もはや、思い出である。 彼女がいても…悠美を失ったことの寂しさを紛らわせなかった。 目の前にあるアパートの部屋。 僅かな距離… その距離は…今は遠く。
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